日本ワインコラム
THE CELLAR ワイン特集山形・月山ワイン
日本ワインコラム | 東北 山形・月山ワイン 出羽三山の一つ「月山」。 その麓に広がる水隗「月山ダム」に始まる水流は、山肌を削りながら蛇行し、庄内平野を横切って日本海へ注ぎ込む。その山間部、埜字川が削り落とした谷間の河岸段丘上に「庄内たがわ農業協同組合・月山ワイン山ぶどう研究所」のワイナリーは位置している。 ▲ 垣根に仕立てられた、月山ワインのもう一つの旗印「山ソーヴィニヨン」は、積雪に備え幹を強く傾けられている。 背後には、山頂付近を既に雪に覆われた月山連峰、すぐ脇には深い谷を走る急流と、険しい自然に囲まれたその土地には、田畑を敷くに充分な平地がなかった。 「中山間部というお米も取れない土地で、雪も高く積もりますから、冬季の仕事がないのです。そういった中、北海道の池田町をモデルにした事業として、山から採ってきた「ヤマブドウ」を使ったワイン醸造がスタートしました。」 ▲ 日本海側に連なる山々からは、冷たい風が吹き下ろす 北海道の池田町といえば、町営でブドウ栽培・ワイン醸造を行っている「ワインの町」として知られる自治体だ。 そのモデルを参考に(旧)朝日村では、農協が主導し、野生の「ヤマブドウ」を使用したワイン造りを開始した。 「昭和40年代にスタートして、54年に酒造免許が下り、本格的な製造が進んでいきます。そういった中で、野生のヤマブドウの品質には限界があるという事で、ヤマブドウの栽培に着手したのですが、当時はノウハウがありませんから、全くうまくいきませんでした。」 「例えば、今私たちが栽培しているのは『コアニティー種』という雌雄別の品種なのですが、当時はそういったことすらもわかっていなかったので、雄の木ばかり植えて実がならない等、非常に初歩的な問題がありました。」 雨季にはビニールを張り、葡萄を守るため巨大な鉄骨が組まれている。 知識もノウハウもないところからスタートした月山のワイン造り。50年の歳月を経た現在では、 人工受粉やクローン選定の技術が飛躍的に向上し、日本古来の品種としてのヤマブドウの魅力を表現できるクオリティを得られるようになった。今では130軒にも上る栽培農家が、その栽培に取り組んでいる。 品質の向上と共にその知名度も全国区たるものとなっている月山ワインでは、2015年に2.5億円を投じて設備を刷新した。 ジュースを含め200トンを仕込める程のステンレスタンクが立ち並ぶ醸造施設。無駄なく空間に敷き詰められたタンクは、それぞれ醸造作業に最適な形で緻密に設計されている。 「1回のプレスで取れる果汁の量で、ひとつのタンクがほぼ満量に達するように計算していて、仕込み中も余計な酸化を防いでいます。またタンクのバルブの位置も、容量に対して沈澱する澱の高さを事前に計算した上で設計して、誰でもラッキングができるようにもなっています。」 ▲ ワイナリー内には、5年前に新調した清潔感のあるステンレスタンスが林立する。 中でも最も費用をかけたのが「瓶詰めライン」だ。ボトルの中に窒素を充填し、そこへワインを注ぎ込むことで酸化を防ぐ窒素置換設備を備え、打栓前に液面上の空間を真空にすることもできる。 酸化の防止と衛生管理の行き届いた醸造施設は、現在の月山ワインのクリーンで引き締まった味わいを証明する説得力を持っているように映る。そういったスタイルの立役者である工場責任者の阿部豊和さんは、15年以上ワインの醸造に携わってきた。 「元々は、日本酒の製造の仕事をしていたのですが、2003年に月山ワインに入社して、初めて造ったワインが甲州のシュール・リーでした。その当時(今から17、8年前)、地域に甲州葡萄は植っていたのですが、前任の醸造担当者は甲州葡萄にあまり関心がありませんでした。私は入社後、酒類総合研究所で研修をしたのですが、その時に飲んだ山梨県の甲州が美味しくて、『(研修から)帰ったら、絶対にこれを作ろう』と思いました。」 今では、ジャパン・ワイン・チャレンジ等の規模の大きなコンクールでの受賞歴も輝かしく、山形を代表するワインとなりつつある「月山ワイン ソレイユ・ルバン 甲州シュール・リー」であるが、当時は庄内の甲州に対する認知はほとんどなかったそうだ。...
山形・月山ワイン
日本ワインコラム | 東北 山形・月山ワイン 出羽三山の一つ「月山」。 その麓に広がる水隗「月山ダム」に始まる水流は、山肌を削りながら蛇行し、庄内平野を横切って日本海へ注ぎ込む。その山間部、埜字川が削り落とした谷間の河岸段丘上に「庄内たがわ農業協同組合・月山ワイン山ぶどう研究所」のワイナリーは位置している。 ▲ 垣根に仕立てられた、月山ワインのもう一つの旗印「山ソーヴィニヨン」は、積雪に備え幹を強く傾けられている。 背後には、山頂付近を既に雪に覆われた月山連峰、すぐ脇には深い谷を走る急流と、険しい自然に囲まれたその土地には、田畑を敷くに充分な平地がなかった。 「中山間部というお米も取れない土地で、雪も高く積もりますから、冬季の仕事がないのです。そういった中、北海道の池田町をモデルにした事業として、山から採ってきた「ヤマブドウ」を使ったワイン醸造がスタートしました。」 ▲ 日本海側に連なる山々からは、冷たい風が吹き下ろす 北海道の池田町といえば、町営でブドウ栽培・ワイン醸造を行っている「ワインの町」として知られる自治体だ。 そのモデルを参考に(旧)朝日村では、農協が主導し、野生の「ヤマブドウ」を使用したワイン造りを開始した。 「昭和40年代にスタートして、54年に酒造免許が下り、本格的な製造が進んでいきます。そういった中で、野生のヤマブドウの品質には限界があるという事で、ヤマブドウの栽培に着手したのですが、当時はノウハウがありませんから、全くうまくいきませんでした。」 「例えば、今私たちが栽培しているのは『コアニティー種』という雌雄別の品種なのですが、当時はそういったことすらもわかっていなかったので、雄の木ばかり植えて実がならない等、非常に初歩的な問題がありました。」 雨季にはビニールを張り、葡萄を守るため巨大な鉄骨が組まれている。 知識もノウハウもないところからスタートした月山のワイン造り。50年の歳月を経た現在では、 人工受粉やクローン選定の技術が飛躍的に向上し、日本古来の品種としてのヤマブドウの魅力を表現できるクオリティを得られるようになった。今では130軒にも上る栽培農家が、その栽培に取り組んでいる。 品質の向上と共にその知名度も全国区たるものとなっている月山ワインでは、2015年に2.5億円を投じて設備を刷新した。 ジュースを含め200トンを仕込める程のステンレスタンクが立ち並ぶ醸造施設。無駄なく空間に敷き詰められたタンクは、それぞれ醸造作業に最適な形で緻密に設計されている。 「1回のプレスで取れる果汁の量で、ひとつのタンクがほぼ満量に達するように計算していて、仕込み中も余計な酸化を防いでいます。またタンクのバルブの位置も、容量に対して沈澱する澱の高さを事前に計算した上で設計して、誰でもラッキングができるようにもなっています。」 ▲ ワイナリー内には、5年前に新調した清潔感のあるステンレスタンスが林立する。 中でも最も費用をかけたのが「瓶詰めライン」だ。ボトルの中に窒素を充填し、そこへワインを注ぎ込むことで酸化を防ぐ窒素置換設備を備え、打栓前に液面上の空間を真空にすることもできる。 酸化の防止と衛生管理の行き届いた醸造施設は、現在の月山ワインのクリーンで引き締まった味わいを証明する説得力を持っているように映る。そういったスタイルの立役者である工場責任者の阿部豊和さんは、15年以上ワインの醸造に携わってきた。 「元々は、日本酒の製造の仕事をしていたのですが、2003年に月山ワインに入社して、初めて造ったワインが甲州のシュール・リーでした。その当時(今から17、8年前)、地域に甲州葡萄は植っていたのですが、前任の醸造担当者は甲州葡萄にあまり関心がありませんでした。私は入社後、酒類総合研究所で研修をしたのですが、その時に飲んだ山梨県の甲州が美味しくて、『(研修から)帰ったら、絶対にこれを作ろう』と思いました。」 今では、ジャパン・ワイン・チャレンジ等の規模の大きなコンクールでの受賞歴も輝かしく、山形を代表するワインとなりつつある「月山ワイン ソレイユ・ルバン 甲州シュール・リー」であるが、当時は庄内の甲州に対する認知はほとんどなかったそうだ。...
山形・酒井ワイナリー
日本ワインコラム | 東北・山形 酒井ワイナリー クロード・レヴィ=ストロース。 実存主義に支配された大戦後の西欧近代、その停滞を構造主義というツールを用いて喝破したフランスの知の巨人である。 酒井ワイナリーの酒井一平さんが、好きな本として真っ先に挙げたのは、彼の代表作『野生の思考』。 この著作の中で彼は、西欧近代の科学思考によって、非合理で野蛮であると貶められてきた未開人の思考を、人類に普遍的なものとして鮮やかに復権して見せる。その中で、レヴィ=ストロースは「近代知」、つまりは、まず概念があり、それを必要十分な材料で組み立てていくに思考法に対置して、「ブリコラージュ(日曜大工)」というキー概念を導入する。 ▲ ブティック入口の窓際には、酒井さんが大切に育てる多肉植物の鉢がぎっしり。 それは、ありあわせの素材をもとに、それらを組み合わせ、各素材が本来もつものとは別の目的や用途に流用をしていく思考法を指す。冷蔵庫にあるありあわせの食材で夕食を賄うことなどは、ブリコラージュの発想を象徴している身近な現象であろう。 「なるべく外部から物を調達しないで、周りにあるものでやりくりをする、完結させるというのが基本的な考え方ですね。」 そう語る酒井さんのワイン造りは、構造主義的視点からみた、「ブリコラージュ」そのもののように思われ、「野生の思考」の実践のようにも解釈できる。 ▲ おしどりカラーが雅なE3系 JR新幹線つばさ127号 山形行 明治に入ってから西洋人が訪れる機会が出来て、その事を商機ととらえた酒井ワイナリーの初代が西欧諸国の時代が訪れるにあたって、それらの国で飲まれていたワインを造る事を決意したようです。初代は様々な事業を起こしていたビジネスマンだったようですが、ワイン造りもそうした中の事業の一つとして始まりました。 山形県南陽市赤湯。 明治25年、東北で最も長い歴史を持つワイナリーは、開国と共に増え始めた外国人の来訪に目を付けた初代・弥惣さんによって創業された。周囲を険しい山に囲まれた盆地は、果樹栽培に向く土地ではなかったため、多くの畑は山肌を削って作られた。 「赤湯のある場所は白竜湖という湖が昔一帯に広がっていた名残のある盆地で、平地は湿地地帯で、田んぼにしかならない。ワインを造ろうと考えると山を切り開いて急な斜面でブドウ畑をつくるしか方法がありません。その為赤湯のブドウ畑はそのほとんどが急斜面にあります。」 ▲ JR赤湯駅東口。パラグライダーを模したモダンなデザインは、旧通商産業省のグッドデザイン賞を受賞している。 市街地にあるワイナリーを離れ、すっかり紅葉も終わり寒々しい装いの山道を上ること数分。前方が置賜盆地によって景色が開け、手前には奥羽本線と山形新幹線を見下ろす南東向きの山肌。その上に広がるのが「名子山」という酒井ワイナリーを代表する自社葡萄畑だ。 名子山は名前の「名」に、子供の「子」と書くのですが、これは当時ほとんど水飲み百姓、農奴、奴隷みたいな意味合いで、何も持っていないという事なのですね。この山は本当に痩せた土地で、石だらけなので、何の作物も育てられないし、取れないという意味でこの名前だったのだと思います。 ▲ ワイナリーには温もりのある、小さなブティックが隣接している。 30度以上の斜度を持つ急斜面の上には、ゴロゴロと石が転がっており、土壌は礫質や砂質が主体となっている。段々畑の石垣も、元々畑にあったおびただしい数の岩石を使って築き上げたものだ。南東向きの急傾斜地という条件から、日当たりがよく、水はけも良好だ。 一方で、この畑には人間が介入するのが非常に困難な環境だ。急斜面という条件下から、おおよその機械が導入することが難しい。そこで、酒井さんのブリコラージュでは羊を用いる。現在9頭いる羊は、食肉、羊毛、としての用途から逸れて、この畑では除草剤として機能する。 「この通り急傾斜地なのでまったく(作業の)機械化が出来ない場所なのですよね。草刈り機は当たり前のように入れませんし、段々畑になっている事もあり、農薬散布をするにしても全て手作業です。それで(この区画では)羊を飼って放牧をするようになりました。(羊を飼うようになって)草刈はまったくしていません。やはり手作業ではコントロールが難しいのですが、この通り羊を放牧することでコントロールが出来ています。年間何回にも分けて草刈を行わない限りこの状態に保てないのですが、羊にとっては餌なのでしっかりと食べてくれる。」...
山形・酒井ワイナリー
日本ワインコラム | 東北・山形 酒井ワイナリー クロード・レヴィ=ストロース。 実存主義に支配された大戦後の西欧近代、その停滞を構造主義というツールを用いて喝破したフランスの知の巨人である。 酒井ワイナリーの酒井一平さんが、好きな本として真っ先に挙げたのは、彼の代表作『野生の思考』。 この著作の中で彼は、西欧近代の科学思考によって、非合理で野蛮であると貶められてきた未開人の思考を、人類に普遍的なものとして鮮やかに復権して見せる。その中で、レヴィ=ストロースは「近代知」、つまりは、まず概念があり、それを必要十分な材料で組み立てていくに思考法に対置して、「ブリコラージュ(日曜大工)」というキー概念を導入する。 ▲ ブティック入口の窓際には、酒井さんが大切に育てる多肉植物の鉢がぎっしり。 それは、ありあわせの素材をもとに、それらを組み合わせ、各素材が本来もつものとは別の目的や用途に流用をしていく思考法を指す。冷蔵庫にあるありあわせの食材で夕食を賄うことなどは、ブリコラージュの発想を象徴している身近な現象であろう。 「なるべく外部から物を調達しないで、周りにあるものでやりくりをする、完結させるというのが基本的な考え方ですね。」 そう語る酒井さんのワイン造りは、構造主義的視点からみた、「ブリコラージュ」そのもののように思われ、「野生の思考」の実践のようにも解釈できる。 ▲ おしどりカラーが雅なE3系 JR新幹線つばさ127号 山形行 明治に入ってから西洋人が訪れる機会が出来て、その事を商機ととらえた酒井ワイナリーの初代が西欧諸国の時代が訪れるにあたって、それらの国で飲まれていたワインを造る事を決意したようです。初代は様々な事業を起こしていたビジネスマンだったようですが、ワイン造りもそうした中の事業の一つとして始まりました。 山形県南陽市赤湯。 明治25年、東北で最も長い歴史を持つワイナリーは、開国と共に増え始めた外国人の来訪に目を付けた初代・弥惣さんによって創業された。周囲を険しい山に囲まれた盆地は、果樹栽培に向く土地ではなかったため、多くの畑は山肌を削って作られた。 「赤湯のある場所は白竜湖という湖が昔一帯に広がっていた名残のある盆地で、平地は湿地地帯で、田んぼにしかならない。ワインを造ろうと考えると山を切り開いて急な斜面でブドウ畑をつくるしか方法がありません。その為赤湯のブドウ畑はそのほとんどが急斜面にあります。」 ▲ JR赤湯駅東口。パラグライダーを模したモダンなデザインは、旧通商産業省のグッドデザイン賞を受賞している。 市街地にあるワイナリーを離れ、すっかり紅葉も終わり寒々しい装いの山道を上ること数分。前方が置賜盆地によって景色が開け、手前には奥羽本線と山形新幹線を見下ろす南東向きの山肌。その上に広がるのが「名子山」という酒井ワイナリーを代表する自社葡萄畑だ。 名子山は名前の「名」に、子供の「子」と書くのですが、これは当時ほとんど水飲み百姓、農奴、奴隷みたいな意味合いで、何も持っていないという事なのですね。この山は本当に痩せた土地で、石だらけなので、何の作物も育てられないし、取れないという意味でこの名前だったのだと思います。 ▲ ワイナリーには温もりのある、小さなブティックが隣接している。 30度以上の斜度を持つ急斜面の上には、ゴロゴロと石が転がっており、土壌は礫質や砂質が主体となっている。段々畑の石垣も、元々畑にあったおびただしい数の岩石を使って築き上げたものだ。南東向きの急傾斜地という条件から、日当たりがよく、水はけも良好だ。 一方で、この畑には人間が介入するのが非常に困難な環境だ。急斜面という条件下から、おおよその機械が導入することが難しい。そこで、酒井さんのブリコラージュでは羊を用いる。現在9頭いる羊は、食肉、羊毛、としての用途から逸れて、この畑では除草剤として機能する。 「この通り急傾斜地なのでまったく(作業の)機械化が出来ない場所なのですよね。草刈り機は当たり前のように入れませんし、段々畑になっている事もあり、農薬散布をするにしても全て手作業です。それで(この区画では)羊を飼って放牧をするようになりました。(羊を飼うようになって)草刈はまったくしていません。やはり手作業ではコントロールが難しいのですが、この通り羊を放牧することでコントロールが出来ています。年間何回にも分けて草刈を行わない限りこの状態に保てないのですが、羊にとっては餌なのでしっかりと食べてくれる。」...
山形・ベルウッド ヴィンヤード ワイナリー
日本ワインコラム | 山形 ベルウッド ヴィンヤード ワイナリー 「センス。というのは違いますかね。なんて言ったらいいんでしょう...。」 マスクの奥の照れ笑いが容易に想像できるような口調で、言葉を探しながら、ベルウッドワイナリーの鈴木智晃さんは、自分のこだわりについてそう語る。エボニー調の木材とマットブラックの調和が美しい、モダンなワイナリーは、2020年の春に完成したばかりだ。周囲を田畑に囲まれた新築な平屋建ては、田園風景の中でクールに異彩を放っている。 「黒が好きなんです。」 軽トラックをも黒く塗装し、自身も黒いダウンジャケットを身にまとい、黒い髭までたくわえる鈴木さん。 真新しいワイナリーのインテリアも、「木材のグラデーション」と「黒」が組み合わせられ、彼の美意識によって空間が統一されている。その意匠は細部にまでわたり、ワインのラベルからオリジナルのTシャツまで、彼の趣向が凝縮したデザインがそこここに散りばめられる。 「独立してからは、何を置くにしても、周囲には自分の好きなものだけを置くように、それだけは曲げたくないと思っています。ラベルにしても何にしても、ひとつひとつを、自分を表現する一部として考えているのです。」 おおかたサラリーマンには見えない彼であるが、同じく山形県内に位置する「朝日町ワイン」で19年間、ワインの製造に務めたキャリアを持つ。 そんな彼が、朝日町ワイナリーを巣立って、自身のワイナリーの旗を揚げたのは2017年のことだ。 「こだわって、モノづくりに携わっていると、もっといいモノを作っていきたい。という思いが当然生まれてくるというのは、まず一つあります。(朝日町ワインでは)やはり大量の原料を扱っていますが、そういった場合、一度に全てを醸造できるわけではないので、製造プロセスを回転させていかなければならない。そういった大規模な製造プロセスを管理していく中で、次第に限られた量でも、自分で栽培から醸造までを手掛けるモデルに移行したいと思うようになりました。 加えて、ワインを飲んでくれる方々との繋がりも持てたらと。自分のワインをどんなふうに飲んでくれているのか、直接感じたいと思いました。」 多くの農家から収穫が集まる第三セクターという大きな現場から、すべてを自分自身で調達し醸造する、小さな現場へ。そういった移行のきっかけの一つとなったのが、自身が製造に携わったワインが、コンクールで金賞を受賞したことだ。 「日本ワインコンクールで自分の造ったワインが金賞を受賞したときは、記憶に残っています。やはり、蔵で働いていましたらから、中々ワインを飲んでくれる方々のリアクションを感じる機会がありませんでした。そういった中で、賞をいただけたことは確かに自信になりました。」 独立に選んだ土地は、朝日町ワインのある西村山郡からは、南東に離れた山形県上山市。蔵王連峰の麓、温泉地として名高いこの土地で、タケダワイナリー、ウッディファームに続き、3軒目のワイナリーとしてスタートした。 「上山は、雪も多く降らないし、雪融けも早く、ブドウの生育期間が長く取れるというのが魅力の一つとしてあります。カベルネなど、晩熟の欧州品種の栽培に向いています。また、降水量も少ないですね。400-600㎜程です。加えて、町全体として、空間が非常に開けていて、日当たりがいいんです。」 また、果樹栽培として長い歴史を持つ山形県の中でも、上山にはワイン用ブドウ産地としての経験値に優れた面を有している。 「欧州品種という点でいえば、タケダワイナリーさんの歴史も古いですし、もうひとつ南果連ブドウ組合という組合が、古くからワイン醸造用ブドウとして、カベルネ、メルロ、シャルドネという品種を大手メーカーさんに供給しています。気候的にも勿論いいのですが、人として技術がしっかり根付いているのです。それは、買いブドウからワインを造ることを想定している身としても、品質の高い欧州品種が手に入りやすいという点で、非常に心強いのです。」 「加えて、栽培農家さんたちの意識が高いのも魅力です。一般的には、単位面積当たりの収量を上げるというのが、農家としての基本的な姿勢かもしれませんが、上山では、美味しいワインに仕上げるために、どのようなブドウを作ればいいか、という考え方を持って栽培に取り組んでいる農家さんが、多くいらっしゃいます。そういった方々から、ブドウを買わせていただくことができるのは、大きな利点です。どのブドウもとてもコンディションがいいので、基本的に収穫後の選果も行っていません。」 ワイナリーの丁度裏手、周囲を平らな田畑に囲まれた、1haほどの丘の上に広がる耕作放棄地。 鈴木さんは、自社畑としてここを選択し、垣根仕立てで複数の欧州品種を植樹した。 独立峰のようなかたちで、周囲の平地からボコッと隆起した小さな丘は、風通しもよく、病果が出にくい土地であるという。 「私の自社畑は、南斜面にメルロ、カベルネ、北斜面にピノノワール、ソーヴィニヨン・ブランを植えています。土壌的には、粘土質が強く、その中に風化した白い礫が混ざっています。雨が仮に降ったとしても、雨が粘土質の表土の上を流れていくという点で、一定の保水力がありながらも、水はけがいいですし、独立した一つの丘なので、上から水が流れてくることもありません。」 2020年は植樹から3年が経ったピノ・ノワール、ピノ・グリ、ソーヴィニヨン・ブランを初めて収穫した。蔵の中には、バリック樽も並び、鈴木さんの実験的なブレンドを含め、多数のキュヴェがみられる 。 「今までは、委託醸造だったので、ビン詰めまでの期間が短いペティヤンなどのワインを造るにとどまってきました。一方で、ワイナリーが完成した今年からは、欧州系品種を原料とした製造期間の長いスティルワインを仕込むことが出来ています。」...
山形・ベルウッド ヴィンヤード ワイナリー
日本ワインコラム | 山形 ベルウッド ヴィンヤード ワイナリー 「センス。というのは違いますかね。なんて言ったらいいんでしょう...。」 マスクの奥の照れ笑いが容易に想像できるような口調で、言葉を探しながら、ベルウッドワイナリーの鈴木智晃さんは、自分のこだわりについてそう語る。エボニー調の木材とマットブラックの調和が美しい、モダンなワイナリーは、2020年の春に完成したばかりだ。周囲を田畑に囲まれた新築な平屋建ては、田園風景の中でクールに異彩を放っている。 「黒が好きなんです。」 軽トラックをも黒く塗装し、自身も黒いダウンジャケットを身にまとい、黒い髭までたくわえる鈴木さん。 真新しいワイナリーのインテリアも、「木材のグラデーション」と「黒」が組み合わせられ、彼の美意識によって空間が統一されている。その意匠は細部にまでわたり、ワインのラベルからオリジナルのTシャツまで、彼の趣向が凝縮したデザインがそこここに散りばめられる。 「独立してからは、何を置くにしても、周囲には自分の好きなものだけを置くように、それだけは曲げたくないと思っています。ラベルにしても何にしても、ひとつひとつを、自分を表現する一部として考えているのです。」 おおかたサラリーマンには見えない彼であるが、同じく山形県内に位置する「朝日町ワイン」で19年間、ワインの製造に務めたキャリアを持つ。 そんな彼が、朝日町ワイナリーを巣立って、自身のワイナリーの旗を揚げたのは2017年のことだ。 「こだわって、モノづくりに携わっていると、もっといいモノを作っていきたい。という思いが当然生まれてくるというのは、まず一つあります。(朝日町ワインでは)やはり大量の原料を扱っていますが、そういった場合、一度に全てを醸造できるわけではないので、製造プロセスを回転させていかなければならない。そういった大規模な製造プロセスを管理していく中で、次第に限られた量でも、自分で栽培から醸造までを手掛けるモデルに移行したいと思うようになりました。 加えて、ワインを飲んでくれる方々との繋がりも持てたらと。自分のワインをどんなふうに飲んでくれているのか、直接感じたいと思いました。」 多くの農家から収穫が集まる第三セクターという大きな現場から、すべてを自分自身で調達し醸造する、小さな現場へ。そういった移行のきっかけの一つとなったのが、自身が製造に携わったワインが、コンクールで金賞を受賞したことだ。 「日本ワインコンクールで自分の造ったワインが金賞を受賞したときは、記憶に残っています。やはり、蔵で働いていましたらから、中々ワインを飲んでくれる方々のリアクションを感じる機会がありませんでした。そういった中で、賞をいただけたことは確かに自信になりました。」 独立に選んだ土地は、朝日町ワインのある西村山郡からは、南東に離れた山形県上山市。蔵王連峰の麓、温泉地として名高いこの土地で、タケダワイナリー、ウッディファームに続き、3軒目のワイナリーとしてスタートした。 「上山は、雪も多く降らないし、雪融けも早く、ブドウの生育期間が長く取れるというのが魅力の一つとしてあります。カベルネなど、晩熟の欧州品種の栽培に向いています。また、降水量も少ないですね。400-600㎜程です。加えて、町全体として、空間が非常に開けていて、日当たりがいいんです。」 また、果樹栽培として長い歴史を持つ山形県の中でも、上山にはワイン用ブドウ産地としての経験値に優れた面を有している。 「欧州品種という点でいえば、タケダワイナリーさんの歴史も古いですし、もうひとつ南果連ブドウ組合という組合が、古くからワイン醸造用ブドウとして、カベルネ、メルロ、シャルドネという品種を大手メーカーさんに供給しています。気候的にも勿論いいのですが、人として技術がしっかり根付いているのです。それは、買いブドウからワインを造ることを想定している身としても、品質の高い欧州品種が手に入りやすいという点で、非常に心強いのです。」 「加えて、栽培農家さんたちの意識が高いのも魅力です。一般的には、単位面積当たりの収量を上げるというのが、農家としての基本的な姿勢かもしれませんが、上山では、美味しいワインに仕上げるために、どのようなブドウを作ればいいか、という考え方を持って栽培に取り組んでいる農家さんが、多くいらっしゃいます。そういった方々から、ブドウを買わせていただくことができるのは、大きな利点です。どのブドウもとてもコンディションがいいので、基本的に収穫後の選果も行っていません。」 ワイナリーの丁度裏手、周囲を平らな田畑に囲まれた、1haほどの丘の上に広がる耕作放棄地。 鈴木さんは、自社畑としてここを選択し、垣根仕立てで複数の欧州品種を植樹した。 独立峰のようなかたちで、周囲の平地からボコッと隆起した小さな丘は、風通しもよく、病果が出にくい土地であるという。 「私の自社畑は、南斜面にメルロ、カベルネ、北斜面にピノノワール、ソーヴィニヨン・ブランを植えています。土壌的には、粘土質が強く、その中に風化した白い礫が混ざっています。雨が仮に降ったとしても、雨が粘土質の表土の上を流れていくという点で、一定の保水力がありながらも、水はけがいいですし、独立した一つの丘なので、上から水が流れてくることもありません。」 2020年は植樹から3年が経ったピノ・ノワール、ピノ・グリ、ソーヴィニヨン・ブランを初めて収穫した。蔵の中には、バリック樽も並び、鈴木さんの実験的なブレンドを含め、多数のキュヴェがみられる 。 「今までは、委託醸造だったので、ビン詰めまでの期間が短いペティヤンなどのワインを造るにとどまってきました。一方で、ワイナリーが完成した今年からは、欧州系品種を原料とした製造期間の長いスティルワインを仕込むことが出来ています。」...
山形・タケダワイナリー
日本ワインコラム | 東北・山形 タケダワイナリー 「先代の幼少期の写真に既に収められていますから、樹齢は80年を超えると思います。」 ワイナリーの象徴でもある古木の話だ。 山形県上山市。電車が停まり、人が乗降する最低限のみを備えた「斎藤茂吉記念館前駅」より車で10分程。曇天と田園に上下を挟まれ異様な雰囲気を醸し出す「旧地方競馬場跡」に建てられた巨大な製薬工場を見送り、丘を登る。 眼下にはワイナリーや市街地を、彼方には蔵王連峰を望む東南向きの斜面上に、タケダワイナリーの自社畑が広がる。日照を遮るものはない。斜面上部には、リースリングやシャルドネなどの、比較的若い、垣根仕立ての欧州品種が植えられる。それを下から仰ぎ睨むように構えるのが、マスカット・ベーリーAの古木だ。 ▲ 茂吉記念館前駅 樹齢80年。幾多の山河で修行を重ねた武術の達人さながら、厳かな筋肉を纏った腕を空中にしならせるMBA老師は、落葉後という時期も手伝って、人を寄せ付けぬ雰囲気を醸し出す。現在「ドメイヌ・タケダ ベリーA 古木」として、タケダワイナリーを代表するキュベに数えられるこの品種は、ワイナリーの長い歴史を象徴する存在となっている。明治初期より、上山の地で商品作物の栽培を始めた武田家。それは「飲む、打つ、買う」と放蕩息子の三冠王だった庄屋の長男が、勘当されることに端を発する。何とも想定外。 そんな武田家がワイン製造に着手したのは3代目武田重三郎さんの代だ。 当時の物流技術から、商品作物の流通に限界を感じた重三郎さんが、日持ちのする加工品として目をつけたのがワインだった。 当時既にワインの製造を行っていた「酒井ワイナリー」をお手本として、1920年に果実酒醸造免許を取得し、「金星ブドウ酒」を発売した。重三郎さんは、その後農園を拡大、ワイン製造事業を強化していった。 その中で植えられたのが、MBA老師だった。 4代目の重信さんは、欧州へ渡り、そこでワイン醸造のノウハウや最新の設備を自分の脚で見て購入、輸入し、ワイン製造事業の拡大と土壌改良、そして欧州品種の栽培促進に着手した。 その中で、MBA老師の植え替えの提案もあったそうだが、食い下がったのが5代目の岸平典子さんだ。 樹齢が上がってもしっかりと果実をつけ続けるこの品種の地域への適性と、高樹齢であることの価値を主張し押し切った。 国内外でも非常に珍しいマスカット・ベーリーAの古木は、典子さんによってそのポテンシャルを引き出され、現在も唯一無二のワインとして、ボトリングされ続けている。 仕込み時期の訪問とあって「いつも忙しいのに、その10倍忙しい」ご様子であった岸平典子さん。2005年から、栽培・醸造責任者兼代表取締役社長を務める、タケダワイナリーの揺るがぬリーダーだ。 小柄で穏やかな佇まいを他所に、ワインに対する強い情熱を持つ彼女は、タケダワイナリーに多くの変革をもたらしてきた。そのルーツの一つには、20代で経験したフランスへの留学がある。 フランス映画が好きですね。それが高じて、フランスに渡航することを目論んでいたくらいで。 高校、大学と演劇部に所属し、文学や演劇、映画を愛する「文学少女」であった典子さん。ワイン醸造の勉強なら、フランスへの留学も許してもらえるだろう。そんな思いを実らせて、フランスへ発ち、20代の4年間をワインと共に過ごした。栽培・醸造の先端技術を学びながらも、自分の将来に具体的なヴィジョンを描いてはいなかった当初。そんな中で、数々の偉大な生産者との出会いが、典子さんの進む道を変える。 当初は特に何か将来の設計とかがあったわけではなかったのですが、実際その土地に根ざしてワイン造りをする方々に出会って『あ、これは私の一生の仕事にしよう』って思いました。 サンソニエール、二コラジョリー、まだ当時健在だったジョルジュ・ルーミエさんとか、そういう方々にあって刺激を受けてそう思ったのが最初の転機です。 ロワール地方におけるビオディナミ農法の二大巨塔、マルク・アンジェリとニコラ・ジョリー、そしてシャンボール・ミュジニーのトップ生産者ジョルジュ・ルーミエ。 あまりのビックネームに、状況を思い浮かべるのも困難であるが、当時まだ突飛で先進的だった彼らの思想や、彼らの造るワインの味わいが、典子さんのワイン造りに及ぼした影響は計り知れない。 帰国後は、実家のワイナリーにて父と兄の元、醸造と栽培に従事する日々が続いた。そんな中、次なる転機は、典子さんが渡仏する前にフランスで3年間ワインの製造を学び、家業を継ごうとしていた兄・伸一さんの急逝だった。...
山形・タケダワイナリー
日本ワインコラム | 東北・山形 タケダワイナリー 「先代の幼少期の写真に既に収められていますから、樹齢は80年を超えると思います。」 ワイナリーの象徴でもある古木の話だ。 山形県上山市。電車が停まり、人が乗降する最低限のみを備えた「斎藤茂吉記念館前駅」より車で10分程。曇天と田園に上下を挟まれ異様な雰囲気を醸し出す「旧地方競馬場跡」に建てられた巨大な製薬工場を見送り、丘を登る。 眼下にはワイナリーや市街地を、彼方には蔵王連峰を望む東南向きの斜面上に、タケダワイナリーの自社畑が広がる。日照を遮るものはない。斜面上部には、リースリングやシャルドネなどの、比較的若い、垣根仕立ての欧州品種が植えられる。それを下から仰ぎ睨むように構えるのが、マスカット・ベーリーAの古木だ。 ▲ 茂吉記念館前駅 樹齢80年。幾多の山河で修行を重ねた武術の達人さながら、厳かな筋肉を纏った腕を空中にしならせるMBA老師は、落葉後という時期も手伝って、人を寄せ付けぬ雰囲気を醸し出す。現在「ドメイヌ・タケダ ベリーA 古木」として、タケダワイナリーを代表するキュベに数えられるこの品種は、ワイナリーの長い歴史を象徴する存在となっている。明治初期より、上山の地で商品作物の栽培を始めた武田家。それは「飲む、打つ、買う」と放蕩息子の三冠王だった庄屋の長男が、勘当されることに端を発する。何とも想定外。 そんな武田家がワイン製造に着手したのは3代目武田重三郎さんの代だ。 当時の物流技術から、商品作物の流通に限界を感じた重三郎さんが、日持ちのする加工品として目をつけたのがワインだった。 当時既にワインの製造を行っていた「酒井ワイナリー」をお手本として、1920年に果実酒醸造免許を取得し、「金星ブドウ酒」を発売した。重三郎さんは、その後農園を拡大、ワイン製造事業を強化していった。 その中で植えられたのが、MBA老師だった。 4代目の重信さんは、欧州へ渡り、そこでワイン醸造のノウハウや最新の設備を自分の脚で見て購入、輸入し、ワイン製造事業の拡大と土壌改良、そして欧州品種の栽培促進に着手した。 その中で、MBA老師の植え替えの提案もあったそうだが、食い下がったのが5代目の岸平典子さんだ。 樹齢が上がってもしっかりと果実をつけ続けるこの品種の地域への適性と、高樹齢であることの価値を主張し押し切った。 国内外でも非常に珍しいマスカット・ベーリーAの古木は、典子さんによってそのポテンシャルを引き出され、現在も唯一無二のワインとして、ボトリングされ続けている。 仕込み時期の訪問とあって「いつも忙しいのに、その10倍忙しい」ご様子であった岸平典子さん。2005年から、栽培・醸造責任者兼代表取締役社長を務める、タケダワイナリーの揺るがぬリーダーだ。 小柄で穏やかな佇まいを他所に、ワインに対する強い情熱を持つ彼女は、タケダワイナリーに多くの変革をもたらしてきた。そのルーツの一つには、20代で経験したフランスへの留学がある。 フランス映画が好きですね。それが高じて、フランスに渡航することを目論んでいたくらいで。 高校、大学と演劇部に所属し、文学や演劇、映画を愛する「文学少女」であった典子さん。ワイン醸造の勉強なら、フランスへの留学も許してもらえるだろう。そんな思いを実らせて、フランスへ発ち、20代の4年間をワインと共に過ごした。栽培・醸造の先端技術を学びながらも、自分の将来に具体的なヴィジョンを描いてはいなかった当初。そんな中で、数々の偉大な生産者との出会いが、典子さんの進む道を変える。 当初は特に何か将来の設計とかがあったわけではなかったのですが、実際その土地に根ざしてワイン造りをする方々に出会って『あ、これは私の一生の仕事にしよう』って思いました。 サンソニエール、二コラジョリー、まだ当時健在だったジョルジュ・ルーミエさんとか、そういう方々にあって刺激を受けてそう思ったのが最初の転機です。 ロワール地方におけるビオディナミ農法の二大巨塔、マルク・アンジェリとニコラ・ジョリー、そしてシャンボール・ミュジニーのトップ生産者ジョルジュ・ルーミエ。 あまりのビックネームに、状況を思い浮かべるのも困難であるが、当時まだ突飛で先進的だった彼らの思想や、彼らの造るワインの味わいが、典子さんのワイン造りに及ぼした影響は計り知れない。 帰国後は、実家のワイナリーにて父と兄の元、醸造と栽培に従事する日々が続いた。そんな中、次なる転機は、典子さんが渡仏する前にフランスで3年間ワインの製造を学び、家業を継ごうとしていた兄・伸一さんの急逝だった。...
【番外編】北海道・余市齊藤町長へのインタビュー
日本ワインコラム | 北海道・余市齊藤町長へのインタビュー 北海道、ひいては日本で最も注目されるワイン生産地、余市。規模を問わず、ワイナリーが群れをなす、日本で最もブルゴーニュに近い産地だ。 2018年からその行政のトップに立つのが齊藤啓輔氏。外交官としてロシア駐在などの華々しい経歴を持つ齊藤氏は、地方創生人材支援制度の中で北海道天塩町副町長に就任。任期後に余市町長選へ出馬し、当選を果たした。 巧みに民間との連携をとりながら、余市を次世代へつなぐ行政を推し進める30代の若手町長。自らがワインラヴァーでもあるそんな齊藤氏に、余市のワイン産業について伺った。 余市をはじめとした日本ワインが流行する昨今であるが、それは恒常的なものなのだろうか。 ワインはまだ知られていない。日本ワインよりも前に、日本とワインという視点に立った時に、日本人とワインの接点の少なさに立ち返る。 「日本ではワインを飲む経験がやはり少ないですよね。アルコールといえば日本酒や焼酎、ビールとなる。メインは葡萄から作られるお酒ではありません。 余市も極端な話、赤ワインを飲むのにシャンパーニュ用のフルートグラスしかないようなお店があったりします。その点がひとつの課題です。 また一時期の大量に輸入されていたバルクワインの印象が未だに拭い切れてない。そこからの転換の歴史はまだ浅いですよね。それは品質への信頼という意味でダメージになっているかと思います。 また、これについては議論が分かれますが、生食用葡萄で作るワインがいいのかどうか。これもひとつの論点だと考えます。」 例えば余市という土地、日本ワインという名称。我々、ワインを職とする者や愛好家にとっては、ある程度浸透した固有名詞だ。しかし、それは広く消費者へ伝わっているのか。外交官というキャリアを経験した方からみた日本ワインのブランディングは、どのような課題を抱えているのだろうか。 「一括りに日本のワインとっても玉石混交で、テロワールを理解しているワインとそう感じられないようなワインがあると思っています。一方でこの差異に関しては、消費者にとって、指標がない限りよくわかりません。 国がやることによって角が立つのであれば、有識者でもいいのですが、そういった判断が可能な構造ができれば変化が起こると思っています。」 「日本は若い産地です。葡萄栽培の歴史も150年程度でしょうか。ですが、果樹栽培地の成長はめざましく、その結果、現状優れたワインが出てきていると思います。そういった中で、欧州では浸透している「地理的表示」や「格付」など、差別化を行うシステムをきちんと導入しなければ、他のワイン生産国との比較環境下において、平等なラインに立てないと感じています。 昨今では、「GI北海道」という呼称が発表されましたが、それでは範囲が広すぎる。可能であれば、「余市」まで絞っていくことが必要と考えています。」 日本、北海道、余市とレンズを換えたブランディングが必要とされる中で、齊藤氏が余市という土地に置く期待は大きい。 「余市は昔から果樹の産地です。ニッカウヰスキーが余市を選んだポイントも、ここがリンゴの栽培地だったことでした。余市はリンゴの商業栽培が初めて行われた土地なのです。1900年代のことですが、リンゴをロシアにも輸出をして、果樹産地として潤っていたこともありました。1917年のロシア革命を期に、ロシア通貨をため込んでいた余市は没落してゆくことになるのですが。ともあれ、果樹の栽培がなじんだ土地として成熟しているのです。」 余市町長として、ワインラヴァーとして多くの土地のワインを飲んできた齊藤氏。彼は外へ発信できる余市ワインの個性というものを確かに捉えている。 「余市ワインの魅力は、テロワール。余市産のあるワインを飲んだら、北海道・余市のテロワールをしっかりと味わいで表現しているのです。梅鰹出汁や朝露、下草、きのこのようなニュアンス、まさに土地の光景が浮かぶ味わいだと感じました。そういった主要産地とは違うワインができる。雨が多い地域なので陰性のニュアンスを含んでいて、カリフォルニアワインのような元気な印象ではありませんが、それが大きな強みだと捉えています。」 「また、最近面白かったのが、熊本のシャルドネです。 シャルドネというより、南ローヌのようなニュアンスを感じる。ねっとりとした質感やトロピカルフルーツのような印象です。 日本も南から北に長い国ですから、その土地に適した品種を植えることで面白いニュアンスが出る。そういったことは実感しています。」 日本ワインとしても、余市ワインとしても、土地の個性をもった特産品を生む力を持つワイン産業。 齊藤氏が将来の余市に描くヴィジョンの中で、中長期的な視点に立ったときに、それはどのように関わっていくのだろうか。 「地方だけでなく、日本全体で人口がどんどん減っていっています。2100年には約5000万人と試算されるほどです。そういった中で、国内では経済の停滞や税収の減少が見込まれます。」 実際に余市は消滅可能性都市にリストインしている自治体の一つだ。しかし、ワイン産業にはその逆風の中でも押し流されない潜在能力がある。 「ひとつのポイントとして、ワインは国際マーケットで需要の高い製品です。産地の人口を問わず世界の注目を集めることができる。例えば、ヴォーヌ・ロマネ村には370人ほどしか居住していませんが、ワイン産地としての名声がありますから、非常に豊かです。シャンパーニュだって、さほどの人口を抱えているわけではありませんが、フランスで有数の豊かな産地。そういった例を念頭に置きながら、ワイン産地としての余市の魅力を国際をマーケットに伝えていくことが大切だと考えています。」 国際マーケットへの進出という中で、昨今、日本ワイン業界も脚光を浴びたニュースが、世界で最も予約困難なレストラン「noma」によるドメーヌ・タカヒコ ナナツモリ ピノノワールの採用だろう。...
【番外編】北海道・余市齊藤町長へのインタビュー
日本ワインコラム | 北海道・余市齊藤町長へのインタビュー 北海道、ひいては日本で最も注目されるワイン生産地、余市。規模を問わず、ワイナリーが群れをなす、日本で最もブルゴーニュに近い産地だ。 2018年からその行政のトップに立つのが齊藤啓輔氏。外交官としてロシア駐在などの華々しい経歴を持つ齊藤氏は、地方創生人材支援制度の中で北海道天塩町副町長に就任。任期後に余市町長選へ出馬し、当選を果たした。 巧みに民間との連携をとりながら、余市を次世代へつなぐ行政を推し進める30代の若手町長。自らがワインラヴァーでもあるそんな齊藤氏に、余市のワイン産業について伺った。 余市をはじめとした日本ワインが流行する昨今であるが、それは恒常的なものなのだろうか。 ワインはまだ知られていない。日本ワインよりも前に、日本とワインという視点に立った時に、日本人とワインの接点の少なさに立ち返る。 「日本ではワインを飲む経験がやはり少ないですよね。アルコールといえば日本酒や焼酎、ビールとなる。メインは葡萄から作られるお酒ではありません。 余市も極端な話、赤ワインを飲むのにシャンパーニュ用のフルートグラスしかないようなお店があったりします。その点がひとつの課題です。 また一時期の大量に輸入されていたバルクワインの印象が未だに拭い切れてない。そこからの転換の歴史はまだ浅いですよね。それは品質への信頼という意味でダメージになっているかと思います。 また、これについては議論が分かれますが、生食用葡萄で作るワインがいいのかどうか。これもひとつの論点だと考えます。」 例えば余市という土地、日本ワインという名称。我々、ワインを職とする者や愛好家にとっては、ある程度浸透した固有名詞だ。しかし、それは広く消費者へ伝わっているのか。外交官というキャリアを経験した方からみた日本ワインのブランディングは、どのような課題を抱えているのだろうか。 「一括りに日本のワインとっても玉石混交で、テロワールを理解しているワインとそう感じられないようなワインがあると思っています。一方でこの差異に関しては、消費者にとって、指標がない限りよくわかりません。 国がやることによって角が立つのであれば、有識者でもいいのですが、そういった判断が可能な構造ができれば変化が起こると思っています。」 「日本は若い産地です。葡萄栽培の歴史も150年程度でしょうか。ですが、果樹栽培地の成長はめざましく、その結果、現状優れたワインが出てきていると思います。そういった中で、欧州では浸透している「地理的表示」や「格付」など、差別化を行うシステムをきちんと導入しなければ、他のワイン生産国との比較環境下において、平等なラインに立てないと感じています。 昨今では、「GI北海道」という呼称が発表されましたが、それでは範囲が広すぎる。可能であれば、「余市」まで絞っていくことが必要と考えています。」 日本、北海道、余市とレンズを換えたブランディングが必要とされる中で、齊藤氏が余市という土地に置く期待は大きい。 「余市は昔から果樹の産地です。ニッカウヰスキーが余市を選んだポイントも、ここがリンゴの栽培地だったことでした。余市はリンゴの商業栽培が初めて行われた土地なのです。1900年代のことですが、リンゴをロシアにも輸出をして、果樹産地として潤っていたこともありました。1917年のロシア革命を期に、ロシア通貨をため込んでいた余市は没落してゆくことになるのですが。ともあれ、果樹の栽培がなじんだ土地として成熟しているのです。」 余市町長として、ワインラヴァーとして多くの土地のワインを飲んできた齊藤氏。彼は外へ発信できる余市ワインの個性というものを確かに捉えている。 「余市ワインの魅力は、テロワール。余市産のあるワインを飲んだら、北海道・余市のテロワールをしっかりと味わいで表現しているのです。梅鰹出汁や朝露、下草、きのこのようなニュアンス、まさに土地の光景が浮かぶ味わいだと感じました。そういった主要産地とは違うワインができる。雨が多い地域なので陰性のニュアンスを含んでいて、カリフォルニアワインのような元気な印象ではありませんが、それが大きな強みだと捉えています。」 「また、最近面白かったのが、熊本のシャルドネです。 シャルドネというより、南ローヌのようなニュアンスを感じる。ねっとりとした質感やトロピカルフルーツのような印象です。 日本も南から北に長い国ですから、その土地に適した品種を植えることで面白いニュアンスが出る。そういったことは実感しています。」 日本ワインとしても、余市ワインとしても、土地の個性をもった特産品を生む力を持つワイン産業。 齊藤氏が将来の余市に描くヴィジョンの中で、中長期的な視点に立ったときに、それはどのように関わっていくのだろうか。 「地方だけでなく、日本全体で人口がどんどん減っていっています。2100年には約5000万人と試算されるほどです。そういった中で、国内では経済の停滞や税収の減少が見込まれます。」 実際に余市は消滅可能性都市にリストインしている自治体の一つだ。しかし、ワイン産業にはその逆風の中でも押し流されない潜在能力がある。 「ひとつのポイントとして、ワインは国際マーケットで需要の高い製品です。産地の人口を問わず世界の注目を集めることができる。例えば、ヴォーヌ・ロマネ村には370人ほどしか居住していませんが、ワイン産地としての名声がありますから、非常に豊かです。シャンパーニュだって、さほどの人口を抱えているわけではありませんが、フランスで有数の豊かな産地。そういった例を念頭に置きながら、ワイン産地としての余市の魅力を国際をマーケットに伝えていくことが大切だと考えています。」 国際マーケットへの進出という中で、昨今、日本ワイン業界も脚光を浴びたニュースが、世界で最も予約困難なレストラン「noma」によるドメーヌ・タカヒコ ナナツモリ ピノノワールの採用だろう。...
_北海道・余市 ドメーヌタカヒコ
vol.2 日本ワインコラム 北海道・余市 ドメーヌタカヒコ / vol.2 ----- 訪問日:2021年7月20日 / vol.1 はこちら 前回の訪問からは1年弱の時間が流れたことになる。 コロナ禍という、目まぐるしく変化する状況の中、それに応じて舵取りを迫られるのが一般的だろう。しかし農家にとっては、特に需要に事欠かないスター生産者にとっては、この短い期間における大きな変容というものを予想するのはむずかしい。 「うちは基本的には新しいことには手を出さないドメーヌですからね。」と、やはり心当たりがないような鈍い反応を見せた曽我さんであったが、しかし、これもまたやはり一筋縄ではいかなかった。彼がまず挙げたのは「輸出」だった。 輸出を始めていくことになりました。 とはいっても、大量に出すのではなくピンポイントで、ある程度ブランドの宣伝・構築に役に立つレストランさんに流してもらうようなかたちです。ありがたいことに、たくさんお声もいただいているので、そういったところからブランド構築をしていければと。 その中で、余市の他のワイナリーや中規模ワイナリーも一緒に出していくことが出来るようなシステムを探すこともやっていければいいですね。 「ブランド構築」というビジネスライクな言葉を置くと、シンプルで洗練されたメッセージで海外市場における認知を確立するような、グローバル戦略を思い浮かべてしまう。たしかに「ナナツモリ ピノ・ノワール」と「ジャパニーズ・ウマミ、ダシ」を直列に結び、イメージを最大限流れやすくすることもできるだろう。 しかし、曽我さんがそのようなことを許すだろうか。そのようにはどうにも思えない。「シンプルで低コスト、かつ忙しい農家でも出来るワイン造り」という曽我さんが掲げる命題と「降水量が多く、肥沃な土壌が広がる土地」という環境から、「ナナツモリ」の味わいを切り離すことはできない。 それは、人的因子と環境因子を複合した、「余市のテロワール」という必須の土台であり、ワインを語るコミュニケーションのバックグラウンドとなるものだ。そして、そのテロワールは世界的にも稀な例であり、国外での理解には長いストーリーが求められるはずである。 ともすれば、曽我さんがそのパイオニアとなることもうなずける。 海外での商売という視点はさておき、余市のワインを語る際の基礎背景を、その伝道師として滔々と語り広めて行くことがミッションであるとすれば、それの適任者は曽我さんしかいないだろう。 なにしろ、曽我さんは話が長い。 失礼しました。いやむしろ、長大なストーリーを語れるほどに、曽我さんの脳内では「余市のテロワール」がひとつの世界として高い解像度で成立している。 一方で、「余市のテロワール」というものを自身で確立させてきた曽我さんが、主に「人的要因」の文脈で将来に見据えるものがある。 僕たちの世代は「ドメーヌ、ドメーヌ」と言ってきましたが、そこにも良くない側面があって、それは農家が育たないことです。余市は農家の町ですから、そことのコミュニケーションも重要です。山田くん(山田堂)などは、ネゴシアンをやっていくということで、これからの若い世代には、そういったスタイルでワイン造りを行う子たちも出てくるのだと思います。ワイナリーはやりたくないけれど、葡萄は作りたいという若い子もいますから。そういった動きも応援していかなければいけないですね。 ドメーヌ・タカヒコをはじめ、余市町にワイナリーを構える生産者は多くの場合入植者だ。 元々は果樹生産地であった農業の町だが、離農や高齢化によって耕作放棄地が増え、その隙に入り込む形で次々と姿を現したのがワイン生産者たちである。...
_北海道・余市 ドメーヌタカヒコ
vol.2 日本ワインコラム 北海道・余市 ドメーヌタカヒコ / vol.2 ----- 訪問日:2021年7月20日 / vol.1 はこちら 前回の訪問からは1年弱の時間が流れたことになる。 コロナ禍という、目まぐるしく変化する状況の中、それに応じて舵取りを迫られるのが一般的だろう。しかし農家にとっては、特に需要に事欠かないスター生産者にとっては、この短い期間における大きな変容というものを予想するのはむずかしい。 「うちは基本的には新しいことには手を出さないドメーヌですからね。」と、やはり心当たりがないような鈍い反応を見せた曽我さんであったが、しかし、これもまたやはり一筋縄ではいかなかった。彼がまず挙げたのは「輸出」だった。 輸出を始めていくことになりました。 とはいっても、大量に出すのではなくピンポイントで、ある程度ブランドの宣伝・構築に役に立つレストランさんに流してもらうようなかたちです。ありがたいことに、たくさんお声もいただいているので、そういったところからブランド構築をしていければと。 その中で、余市の他のワイナリーや中規模ワイナリーも一緒に出していくことが出来るようなシステムを探すこともやっていければいいですね。 「ブランド構築」というビジネスライクな言葉を置くと、シンプルで洗練されたメッセージで海外市場における認知を確立するような、グローバル戦略を思い浮かべてしまう。たしかに「ナナツモリ ピノ・ノワール」と「ジャパニーズ・ウマミ、ダシ」を直列に結び、イメージを最大限流れやすくすることもできるだろう。 しかし、曽我さんがそのようなことを許すだろうか。そのようにはどうにも思えない。「シンプルで低コスト、かつ忙しい農家でも出来るワイン造り」という曽我さんが掲げる命題と「降水量が多く、肥沃な土壌が広がる土地」という環境から、「ナナツモリ」の味わいを切り離すことはできない。 それは、人的因子と環境因子を複合した、「余市のテロワール」という必須の土台であり、ワインを語るコミュニケーションのバックグラウンドとなるものだ。そして、そのテロワールは世界的にも稀な例であり、国外での理解には長いストーリーが求められるはずである。 ともすれば、曽我さんがそのパイオニアとなることもうなずける。 海外での商売という視点はさておき、余市のワインを語る際の基礎背景を、その伝道師として滔々と語り広めて行くことがミッションであるとすれば、それの適任者は曽我さんしかいないだろう。 なにしろ、曽我さんは話が長い。 失礼しました。いやむしろ、長大なストーリーを語れるほどに、曽我さんの脳内では「余市のテロワール」がひとつの世界として高い解像度で成立している。 一方で、「余市のテロワール」というものを自身で確立させてきた曽我さんが、主に「人的要因」の文脈で将来に見据えるものがある。 僕たちの世代は「ドメーヌ、ドメーヌ」と言ってきましたが、そこにも良くない側面があって、それは農家が育たないことです。余市は農家の町ですから、そことのコミュニケーションも重要です。山田くん(山田堂)などは、ネゴシアンをやっていくということで、これからの若い世代には、そういったスタイルでワイン造りを行う子たちも出てくるのだと思います。ワイナリーはやりたくないけれど、葡萄は作りたいという若い子もいますから。そういった動きも応援していかなければいけないですね。 ドメーヌ・タカヒコをはじめ、余市町にワイナリーを構える生産者は多くの場合入植者だ。 元々は果樹生産地であった農業の町だが、離農や高齢化によって耕作放棄地が増え、その隙に入り込む形で次々と姿を現したのがワイン生産者たちである。...