日本ワインコラム

THE CELLAR ワイン特集
山形・タケダワイナリー

山形・タケダワイナリー

日本ワインコラム | 東北・山形 タケダワイナリー 「先代の幼少期の写真に既に収められていますから、樹齢は80年を超えると思います。」 ワイナリーの象徴でもある古木の話だ。 山形県上山市。電車が停まり、人が乗降する最低限のみを備えた「斎藤茂吉記念館前駅」より車で10分程。曇天と田園に上下を挟まれ異様な雰囲気を醸し出す「旧地方競馬場跡」に建てられた巨大な製薬工場を見送り、丘を登る。 眼下にはワイナリーや市街地を、彼方には蔵王連峰を望む東南向きの斜面上に、タケダワイナリーの自社畑が広がる。日照を遮るものはない。斜面上部には、リースリングやシャルドネなどの、比較的若い、垣根仕立ての欧州品種が植えられる。それを下から仰ぎ睨むように構えるのが、マスカット・ベーリーAの古木だ。 ▲ 茂吉記念館前駅 樹齢80年。幾多の山河で修行を重ねた武術の達人さながら、厳かな筋肉を纏った腕を空中にしならせるMBA老師は、落葉後という時期も手伝って、人を寄せ付けぬ雰囲気を醸し出す。現在「ドメイヌ・タケダ ベリーA 古木」として、タケダワイナリーを代表するキュベに数えられるこの品種は、ワイナリーの長い歴史を象徴する存在となっている。明治初期より、上山の地で商品作物の栽培を始めた武田家。それは「飲む、打つ、買う」と放蕩息子の三冠王だった庄屋の長男が、勘当されることに端を発する。何とも想定外。 そんな武田家がワイン製造に着手したのは3代目武田重三郎さんの代だ。 当時の物流技術から、商品作物の流通に限界を感じた重三郎さんが、日持ちのする加工品として目をつけたのがワインだった。 当時既にワインの製造を行っていた「酒井ワイナリー」をお手本として、1920年に果実酒醸造免許を取得し、「金星ブドウ酒」を発売した。重三郎さんは、その後農園を拡大、ワイン製造事業を強化していった。 その中で植えられたのが、MBA老師だった。 4代目の重信さんは、欧州へ渡り、そこでワイン醸造のノウハウや最新の設備を自分の脚で見て購入、輸入し、ワイン製造事業の拡大と土壌改良、そして欧州品種の栽培促進に着手した。 その中で、MBA老師の植え替えの提案もあったそうだが、食い下がったのが5代目の岸平典子さんだ。 樹齢が上がってもしっかりと果実をつけ続けるこの品種の地域への適性と、高樹齢であることの価値を主張し押し切った。 国内外でも非常に珍しいマスカット・ベーリーAの古木は、典子さんによってそのポテンシャルを引き出され、現在も唯一無二のワインとして、ボトリングされ続けている。 仕込み時期の訪問とあって「いつも忙しいのに、その10倍忙しい」ご様子であった岸平典子さん。2005年から、栽培・醸造責任者兼代表取締役社長を務める、タケダワイナリーの揺るがぬリーダーだ。 小柄で穏やかな佇まいを他所に、ワインに対する強い情熱を持つ彼女は、タケダワイナリーに多くの変革をもたらしてきた。そのルーツの一つには、20代で経験したフランスへの留学がある。 フランス映画が好きですね。それが高じて、フランスに渡航することを目論んでいたくらいで。 高校、大学と演劇部に所属し、文学や演劇、映画を愛する「文学少女」であった典子さん。ワイン醸造の勉強なら、フランスへの留学も許してもらえるだろう。そんな思いを実らせて、フランスへ発ち、20代の4年間をワインと共に過ごした。栽培・醸造の先端技術を学びながらも、自分の将来に具体的なヴィジョンを描いてはいなかった当初。そんな中で、数々の偉大な生産者との出会いが、典子さんの進む道を変える。 当初は特に何か将来の設計とかがあったわけではなかったのですが、実際その土地に根ざしてワイン造りをする方々に出会って『あ、これは私の一生の仕事にしよう』って思いました。 サンソニエール、二コラジョリー、まだ当時健在だったジョルジュ・ルーミエさんとか、そういう方々にあって刺激を受けてそう思ったのが最初の転機です。 ロワール地方におけるビオディナミ農法の二大巨塔、マルク・アンジェリとニコラ・ジョリー、そしてシャンボール・ミュジニーのトップ生産者ジョルジュ・ルーミエ。 あまりのビックネームに、状況を思い浮かべるのも困難であるが、当時まだ突飛で先進的だった彼らの思想や、彼らの造るワインの味わいが、典子さんのワイン造りに及ぼした影響は計り知れない。 帰国後は、実家のワイナリーにて父と兄の元、醸造と栽培に従事する日々が続いた。そんな中、次なる転機は、典子さんが渡仏する前にフランスで3年間ワインの製造を学び、家業を継ごうとしていた兄・伸一さんの急逝だった。...

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日本ワインコラム | 東北・山形 タケダワイナリー 「先代の幼少期の写真に既に収められていますから、樹齢は80年を超えると思います。」 ワイナリーの象徴でもある古木の話だ。 山形県上山市。電車が停まり、人が乗降する最低限のみを備えた「斎藤茂吉記念館前駅」より車で10分程。曇天と田園に上下を挟まれ異様な雰囲気を醸し出す「旧地方競馬場跡」に建てられた巨大な製薬工場を見送り、丘を登る。 眼下にはワイナリーや市街地を、彼方には蔵王連峰を望む東南向きの斜面上に、タケダワイナリーの自社畑が広がる。日照を遮るものはない。斜面上部には、リースリングやシャルドネなどの、比較的若い、垣根仕立ての欧州品種が植えられる。それを下から仰ぎ睨むように構えるのが、マスカット・ベーリーAの古木だ。 ▲ 茂吉記念館前駅 樹齢80年。幾多の山河で修行を重ねた武術の達人さながら、厳かな筋肉を纏った腕を空中にしならせるMBA老師は、落葉後という時期も手伝って、人を寄せ付けぬ雰囲気を醸し出す。現在「ドメイヌ・タケダ ベリーA 古木」として、タケダワイナリーを代表するキュベに数えられるこの品種は、ワイナリーの長い歴史を象徴する存在となっている。明治初期より、上山の地で商品作物の栽培を始めた武田家。それは「飲む、打つ、買う」と放蕩息子の三冠王だった庄屋の長男が、勘当されることに端を発する。何とも想定外。 そんな武田家がワイン製造に着手したのは3代目武田重三郎さんの代だ。 当時の物流技術から、商品作物の流通に限界を感じた重三郎さんが、日持ちのする加工品として目をつけたのがワインだった。 当時既にワインの製造を行っていた「酒井ワイナリー」をお手本として、1920年に果実酒醸造免許を取得し、「金星ブドウ酒」を発売した。重三郎さんは、その後農園を拡大、ワイン製造事業を強化していった。 その中で植えられたのが、MBA老師だった。 4代目の重信さんは、欧州へ渡り、そこでワイン醸造のノウハウや最新の設備を自分の脚で見て購入、輸入し、ワイン製造事業の拡大と土壌改良、そして欧州品種の栽培促進に着手した。 その中で、MBA老師の植え替えの提案もあったそうだが、食い下がったのが5代目の岸平典子さんだ。 樹齢が上がってもしっかりと果実をつけ続けるこの品種の地域への適性と、高樹齢であることの価値を主張し押し切った。 国内外でも非常に珍しいマスカット・ベーリーAの古木は、典子さんによってそのポテンシャルを引き出され、現在も唯一無二のワインとして、ボトリングされ続けている。 仕込み時期の訪問とあって「いつも忙しいのに、その10倍忙しい」ご様子であった岸平典子さん。2005年から、栽培・醸造責任者兼代表取締役社長を務める、タケダワイナリーの揺るがぬリーダーだ。 小柄で穏やかな佇まいを他所に、ワインに対する強い情熱を持つ彼女は、タケダワイナリーに多くの変革をもたらしてきた。そのルーツの一つには、20代で経験したフランスへの留学がある。 フランス映画が好きですね。それが高じて、フランスに渡航することを目論んでいたくらいで。 高校、大学と演劇部に所属し、文学や演劇、映画を愛する「文学少女」であった典子さん。ワイン醸造の勉強なら、フランスへの留学も許してもらえるだろう。そんな思いを実らせて、フランスへ発ち、20代の4年間をワインと共に過ごした。栽培・醸造の先端技術を学びながらも、自分の将来に具体的なヴィジョンを描いてはいなかった当初。そんな中で、数々の偉大な生産者との出会いが、典子さんの進む道を変える。 当初は特に何か将来の設計とかがあったわけではなかったのですが、実際その土地に根ざしてワイン造りをする方々に出会って『あ、これは私の一生の仕事にしよう』って思いました。 サンソニエール、二コラジョリー、まだ当時健在だったジョルジュ・ルーミエさんとか、そういう方々にあって刺激を受けてそう思ったのが最初の転機です。 ロワール地方におけるビオディナミ農法の二大巨塔、マルク・アンジェリとニコラ・ジョリー、そしてシャンボール・ミュジニーのトップ生産者ジョルジュ・ルーミエ。 あまりのビックネームに、状況を思い浮かべるのも困難であるが、当時まだ突飛で先進的だった彼らの思想や、彼らの造るワインの味わいが、典子さんのワイン造りに及ぼした影響は計り知れない。 帰国後は、実家のワイナリーにて父と兄の元、醸造と栽培に従事する日々が続いた。そんな中、次なる転機は、典子さんが渡仏する前にフランスで3年間ワインの製造を学び、家業を継ごうとしていた兄・伸一さんの急逝だった。...

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【番外編】北海道・余市齊藤町長へのインタビュー

【番外編】北海道・余市齊藤町長へのインタビュー

日本ワインコラム | 北海道・余市齊藤町長へのインタビュー 北海道、ひいては日本で最も注目されるワイン生産地、余市。規模を問わず、ワイナリーが群れをなす、日本で最もブルゴーニュに近い産地だ。 2018年からその行政のトップに立つのが齊藤啓輔氏。外交官としてロシア駐在などの華々しい経歴を持つ齊藤氏は、地方創生人材支援制度の中で北海道天塩町副町長に就任。任期後に余市町長選へ出馬し、当選を果たした。 巧みに民間との連携をとりながら、余市を次世代へつなぐ行政を推し進める30代の若手町長。自らがワインラヴァーでもあるそんな齊藤氏に、余市のワイン産業について伺った。 余市をはじめとした日本ワインが流行する昨今であるが、それは恒常的なものなのだろうか。 ワインはまだ知られていない。日本ワインよりも前に、日本とワインという視点に立った時に、日本人とワインの接点の少なさに立ち返る。 「日本ではワインを飲む経験がやはり少ないですよね。アルコールといえば日本酒や焼酎、ビールとなる。メインは葡萄から作られるお酒ではありません。 余市も極端な話、赤ワインを飲むのにシャンパーニュ用のフルートグラスしかないようなお店があったりします。その点がひとつの課題です。 また一時期の大量に輸入されていたバルクワインの印象が未だに拭い切れてない。そこからの転換の歴史はまだ浅いですよね。それは品質への信頼という意味でダメージになっているかと思います。 また、これについては議論が分かれますが、生食用葡萄で作るワインがいいのかどうか。これもひとつの論点だと考えます。」 例えば余市という土地、日本ワインという名称。我々、ワインを職とする者や愛好家にとっては、ある程度浸透した固有名詞だ。しかし、それは広く消費者へ伝わっているのか。外交官というキャリアを経験した方からみた日本ワインのブランディングは、どのような課題を抱えているのだろうか。 「一括りに日本のワインとっても玉石混交で、テロワールを理解しているワインとそう感じられないようなワインがあると思っています。一方でこの差異に関しては、消費者にとって、指標がない限りよくわかりません。 国がやることによって角が立つのであれば、有識者でもいいのですが、そういった判断が可能な構造ができれば変化が起こると思っています。」 「日本は若い産地です。葡萄栽培の歴史も150年程度でしょうか。ですが、果樹栽培地の成長はめざましく、その結果、現状優れたワインが出てきていると思います。そういった中で、欧州では浸透している「地理的表示」や「格付」など、差別化を行うシステムをきちんと導入しなければ、他のワイン生産国との比較環境下において、平等なラインに立てないと感じています。 昨今では、「GI北海道」という呼称が発表されましたが、それでは範囲が広すぎる。可能であれば、「余市」まで絞っていくことが必要と考えています。」 日本、北海道、余市とレンズを換えたブランディングが必要とされる中で、齊藤氏が余市という土地に置く期待は大きい。 「余市は昔から果樹の産地です。ニッカウヰスキーが余市を選んだポイントも、ここがリンゴの栽培地だったことでした。余市はリンゴの商業栽培が初めて行われた土地なのです。1900年代のことですが、リンゴをロシアにも輸出をして、果樹産地として潤っていたこともありました。1917年のロシア革命を期に、ロシア通貨をため込んでいた余市は没落してゆくことになるのですが。ともあれ、果樹の栽培がなじんだ土地として成熟しているのです。」 余市町長として、ワインラヴァーとして多くの土地のワインを飲んできた齊藤氏。彼は外へ発信できる余市ワインの個性というものを確かに捉えている。 「余市ワインの魅力は、テロワール。余市産のあるワインを飲んだら、北海道・余市のテロワールをしっかりと味わいで表現しているのです。梅鰹出汁や朝露、下草、きのこのようなニュアンス、まさに土地の光景が浮かぶ味わいだと感じました。そういった主要産地とは違うワインができる。雨が多い地域なので陰性のニュアンスを含んでいて、カリフォルニアワインのような元気な印象ではありませんが、それが大きな強みだと捉えています。」 「また、最近面白かったのが、熊本のシャルドネです。 シャルドネというより、南ローヌのようなニュアンスを感じる。ねっとりとした質感やトロピカルフルーツのような印象です。 日本も南から北に長い国ですから、その土地に適した品種を植えることで面白いニュアンスが出る。そういったことは実感しています。」 日本ワインとしても、余市ワインとしても、土地の個性をもった特産品を生む力を持つワイン産業。 齊藤氏が将来の余市に描くヴィジョンの中で、中長期的な視点に立ったときに、それはどのように関わっていくのだろうか。 「地方だけでなく、日本全体で人口がどんどん減っていっています。2100年には約5000万人と試算されるほどです。そういった中で、国内では経済の停滞や税収の減少が見込まれます。」 実際に余市は消滅可能性都市にリストインしている自治体の一つだ。しかし、ワイン産業にはその逆風の中でも押し流されない潜在能力がある。 「ひとつのポイントとして、ワインは国際マーケットで需要の高い製品です。産地の人口を問わず世界の注目を集めることができる。例えば、ヴォーヌ・ロマネ村には370人ほどしか居住していませんが、ワイン産地としての名声がありますから、非常に豊かです。シャンパーニュだって、さほどの人口を抱えているわけではありませんが、フランスで有数の豊かな産地。そういった例を念頭に置きながら、ワイン産地としての余市の魅力を国際をマーケットに伝えていくことが大切だと考えています。」 国際マーケットへの進出という中で、昨今、日本ワイン業界も脚光を浴びたニュースが、世界で最も予約困難なレストラン「noma」によるドメーヌ・タカヒコ ナナツモリ ピノノワールの採用だろう。...

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【番外編】北海道・余市齊藤町長へのインタビュー

日本ワインコラム | 北海道・余市齊藤町長へのインタビュー 北海道、ひいては日本で最も注目されるワイン生産地、余市。規模を問わず、ワイナリーが群れをなす、日本で最もブルゴーニュに近い産地だ。 2018年からその行政のトップに立つのが齊藤啓輔氏。外交官としてロシア駐在などの華々しい経歴を持つ齊藤氏は、地方創生人材支援制度の中で北海道天塩町副町長に就任。任期後に余市町長選へ出馬し、当選を果たした。 巧みに民間との連携をとりながら、余市を次世代へつなぐ行政を推し進める30代の若手町長。自らがワインラヴァーでもあるそんな齊藤氏に、余市のワイン産業について伺った。 余市をはじめとした日本ワインが流行する昨今であるが、それは恒常的なものなのだろうか。 ワインはまだ知られていない。日本ワインよりも前に、日本とワインという視点に立った時に、日本人とワインの接点の少なさに立ち返る。 「日本ではワインを飲む経験がやはり少ないですよね。アルコールといえば日本酒や焼酎、ビールとなる。メインは葡萄から作られるお酒ではありません。 余市も極端な話、赤ワインを飲むのにシャンパーニュ用のフルートグラスしかないようなお店があったりします。その点がひとつの課題です。 また一時期の大量に輸入されていたバルクワインの印象が未だに拭い切れてない。そこからの転換の歴史はまだ浅いですよね。それは品質への信頼という意味でダメージになっているかと思います。 また、これについては議論が分かれますが、生食用葡萄で作るワインがいいのかどうか。これもひとつの論点だと考えます。」 例えば余市という土地、日本ワインという名称。我々、ワインを職とする者や愛好家にとっては、ある程度浸透した固有名詞だ。しかし、それは広く消費者へ伝わっているのか。外交官というキャリアを経験した方からみた日本ワインのブランディングは、どのような課題を抱えているのだろうか。 「一括りに日本のワインとっても玉石混交で、テロワールを理解しているワインとそう感じられないようなワインがあると思っています。一方でこの差異に関しては、消費者にとって、指標がない限りよくわかりません。 国がやることによって角が立つのであれば、有識者でもいいのですが、そういった判断が可能な構造ができれば変化が起こると思っています。」 「日本は若い産地です。葡萄栽培の歴史も150年程度でしょうか。ですが、果樹栽培地の成長はめざましく、その結果、現状優れたワインが出てきていると思います。そういった中で、欧州では浸透している「地理的表示」や「格付」など、差別化を行うシステムをきちんと導入しなければ、他のワイン生産国との比較環境下において、平等なラインに立てないと感じています。 昨今では、「GI北海道」という呼称が発表されましたが、それでは範囲が広すぎる。可能であれば、「余市」まで絞っていくことが必要と考えています。」 日本、北海道、余市とレンズを換えたブランディングが必要とされる中で、齊藤氏が余市という土地に置く期待は大きい。 「余市は昔から果樹の産地です。ニッカウヰスキーが余市を選んだポイントも、ここがリンゴの栽培地だったことでした。余市はリンゴの商業栽培が初めて行われた土地なのです。1900年代のことですが、リンゴをロシアにも輸出をして、果樹産地として潤っていたこともありました。1917年のロシア革命を期に、ロシア通貨をため込んでいた余市は没落してゆくことになるのですが。ともあれ、果樹の栽培がなじんだ土地として成熟しているのです。」 余市町長として、ワインラヴァーとして多くの土地のワインを飲んできた齊藤氏。彼は外へ発信できる余市ワインの個性というものを確かに捉えている。 「余市ワインの魅力は、テロワール。余市産のあるワインを飲んだら、北海道・余市のテロワールをしっかりと味わいで表現しているのです。梅鰹出汁や朝露、下草、きのこのようなニュアンス、まさに土地の光景が浮かぶ味わいだと感じました。そういった主要産地とは違うワインができる。雨が多い地域なので陰性のニュアンスを含んでいて、カリフォルニアワインのような元気な印象ではありませんが、それが大きな強みだと捉えています。」 「また、最近面白かったのが、熊本のシャルドネです。 シャルドネというより、南ローヌのようなニュアンスを感じる。ねっとりとした質感やトロピカルフルーツのような印象です。 日本も南から北に長い国ですから、その土地に適した品種を植えることで面白いニュアンスが出る。そういったことは実感しています。」 日本ワインとしても、余市ワインとしても、土地の個性をもった特産品を生む力を持つワイン産業。 齊藤氏が将来の余市に描くヴィジョンの中で、中長期的な視点に立ったときに、それはどのように関わっていくのだろうか。 「地方だけでなく、日本全体で人口がどんどん減っていっています。2100年には約5000万人と試算されるほどです。そういった中で、国内では経済の停滞や税収の減少が見込まれます。」 実際に余市は消滅可能性都市にリストインしている自治体の一つだ。しかし、ワイン産業にはその逆風の中でも押し流されない潜在能力がある。 「ひとつのポイントとして、ワインは国際マーケットで需要の高い製品です。産地の人口を問わず世界の注目を集めることができる。例えば、ヴォーヌ・ロマネ村には370人ほどしか居住していませんが、ワイン産地としての名声がありますから、非常に豊かです。シャンパーニュだって、さほどの人口を抱えているわけではありませんが、フランスで有数の豊かな産地。そういった例を念頭に置きながら、ワイン産地としての余市の魅力を国際をマーケットに伝えていくことが大切だと考えています。」 国際マーケットへの進出という中で、昨今、日本ワイン業界も脚光を浴びたニュースが、世界で最も予約困難なレストラン「noma」によるドメーヌ・タカヒコ ナナツモリ ピノノワールの採用だろう。...

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_北海道・余市 ドメーヌタカヒコ

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  vol.2 日本ワインコラム 北海道・余市 ドメーヌタカヒコ / vol.2 ----- 訪問日:2021年7月20日 / vol.1 はこちら 前回の訪問からは1年弱の時間が流れたことになる。 コロナ禍という、目まぐるしく変化する状況の中、それに応じて舵取りを迫られるのが一般的だろう。しかし農家にとっては、特に需要に事欠かないスター生産者にとっては、この短い期間における大きな変容というものを予想するのはむずかしい。 「うちは基本的には新しいことには手を出さないドメーヌですからね。」と、やはり心当たりがないような鈍い反応を見せた曽我さんであったが、しかし、これもまたやはり一筋縄ではいかなかった。彼がまず挙げたのは「輸出」だった。 輸出を始めていくことになりました。 とはいっても、大量に出すのではなくピンポイントで、ある程度ブランドの宣伝・構築に役に立つレストランさんに流してもらうようなかたちです。ありがたいことに、たくさんお声もいただいているので、そういったところからブランド構築をしていければと。 その中で、余市の他のワイナリーや中規模ワイナリーも一緒に出していくことが出来るようなシステムを探すこともやっていければいいですね。 「ブランド構築」というビジネスライクな言葉を置くと、シンプルで洗練されたメッセージで海外市場における認知を確立するような、グローバル戦略を思い浮かべてしまう。たしかに「ナナツモリ ピノ・ノワール」と「ジャパニーズ・ウマミ、ダシ」を直列に結び、イメージを最大限流れやすくすることもできるだろう。 しかし、曽我さんがそのようなことを許すだろうか。そのようにはどうにも思えない。「シンプルで低コスト、かつ忙しい農家でも出来るワイン造り」という曽我さんが掲げる命題と「降水量が多く、肥沃な土壌が広がる土地」という環境から、「ナナツモリ」の味わいを切り離すことはできない。 それは、人的因子と環境因子を複合した、「余市のテロワール」という必須の土台であり、ワインを語るコミュニケーションのバックグラウンドとなるものだ。そして、そのテロワールは世界的にも稀な例であり、国外での理解には長いストーリーが求められるはずである。 ともすれば、曽我さんがそのパイオニアとなることもうなずける。 海外での商売という視点はさておき、余市のワインを語る際の基礎背景を、その伝道師として滔々と語り広めて行くことがミッションであるとすれば、それの適任者は曽我さんしかいないだろう。 なにしろ、曽我さんは話が長い。 失礼しました。いやむしろ、長大なストーリーを語れるほどに、曽我さんの脳内では「余市のテロワール」がひとつの世界として高い解像度で成立している。 一方で、「余市のテロワール」というものを自身で確立させてきた曽我さんが、主に「人的要因」の文脈で将来に見据えるものがある。 僕たちの世代は「ドメーヌ、ドメーヌ」と言ってきましたが、そこにも良くない側面があって、それは農家が育たないことです。余市は農家の町ですから、そことのコミュニケーションも重要です。山田くん(山田堂)などは、ネゴシアンをやっていくということで、これからの若い世代には、そういったスタイルでワイン造りを行う子たちも出てくるのだと思います。ワイナリーはやりたくないけれど、葡萄は作りたいという若い子もいますから。そういった動きも応援していかなければいけないですね。 ドメーヌ・タカヒコをはじめ、余市町にワイナリーを構える生産者は多くの場合入植者だ。 元々は果樹生産地であった農業の町だが、離農や高齢化によって耕作放棄地が増え、その隙に入り込む形で次々と姿を現したのがワイン生産者たちである。...

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  vol.2 日本ワインコラム 北海道・余市 ドメーヌタカヒコ / vol.2 ----- 訪問日:2021年7月20日 / vol.1 はこちら 前回の訪問からは1年弱の時間が流れたことになる。 コロナ禍という、目まぐるしく変化する状況の中、それに応じて舵取りを迫られるのが一般的だろう。しかし農家にとっては、特に需要に事欠かないスター生産者にとっては、この短い期間における大きな変容というものを予想するのはむずかしい。 「うちは基本的には新しいことには手を出さないドメーヌですからね。」と、やはり心当たりがないような鈍い反応を見せた曽我さんであったが、しかし、これもまたやはり一筋縄ではいかなかった。彼がまず挙げたのは「輸出」だった。 輸出を始めていくことになりました。 とはいっても、大量に出すのではなくピンポイントで、ある程度ブランドの宣伝・構築に役に立つレストランさんに流してもらうようなかたちです。ありがたいことに、たくさんお声もいただいているので、そういったところからブランド構築をしていければと。 その中で、余市の他のワイナリーや中規模ワイナリーも一緒に出していくことが出来るようなシステムを探すこともやっていければいいですね。 「ブランド構築」というビジネスライクな言葉を置くと、シンプルで洗練されたメッセージで海外市場における認知を確立するような、グローバル戦略を思い浮かべてしまう。たしかに「ナナツモリ ピノ・ノワール」と「ジャパニーズ・ウマミ、ダシ」を直列に結び、イメージを最大限流れやすくすることもできるだろう。 しかし、曽我さんがそのようなことを許すだろうか。そのようにはどうにも思えない。「シンプルで低コスト、かつ忙しい農家でも出来るワイン造り」という曽我さんが掲げる命題と「降水量が多く、肥沃な土壌が広がる土地」という環境から、「ナナツモリ」の味わいを切り離すことはできない。 それは、人的因子と環境因子を複合した、「余市のテロワール」という必須の土台であり、ワインを語るコミュニケーションのバックグラウンドとなるものだ。そして、そのテロワールは世界的にも稀な例であり、国外での理解には長いストーリーが求められるはずである。 ともすれば、曽我さんがそのパイオニアとなることもうなずける。 海外での商売という視点はさておき、余市のワインを語る際の基礎背景を、その伝道師として滔々と語り広めて行くことがミッションであるとすれば、それの適任者は曽我さんしかいないだろう。 なにしろ、曽我さんは話が長い。 失礼しました。いやむしろ、長大なストーリーを語れるほどに、曽我さんの脳内では「余市のテロワール」がひとつの世界として高い解像度で成立している。 一方で、「余市のテロワール」というものを自身で確立させてきた曽我さんが、主に「人的要因」の文脈で将来に見据えるものがある。 僕たちの世代は「ドメーヌ、ドメーヌ」と言ってきましたが、そこにも良くない側面があって、それは農家が育たないことです。余市は農家の町ですから、そことのコミュニケーションも重要です。山田くん(山田堂)などは、ネゴシアンをやっていくということで、これからの若い世代には、そういったスタイルでワイン造りを行う子たちも出てくるのだと思います。ワイナリーはやりたくないけれど、葡萄は作りたいという若い子もいますから。そういった動きも応援していかなければいけないですね。 ドメーヌ・タカヒコをはじめ、余市町にワイナリーを構える生産者は多くの場合入植者だ。 元々は果樹生産地であった農業の町だが、離農や高齢化によって耕作放棄地が増え、その隙に入り込む形で次々と姿を現したのがワイン生産者たちである。...

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北海道・余市 ドメーヌ モン

北海道・余市 ドメーヌ モン

日本ワインコラム |北海道・余市 ドメーヌ・モン / vol.2 ----- 訪問日:2021年7月20日 / vol.1 はこちら ▲ 北に日本海を望む東向きの斜面に位置するドメーヌ・モンの自社畑。遠くにシリバ岬が雄大に横たわる。 昨年訪問した際に建設中とのことであった貯蔵庫(樽庫)。中には木樽が3段に積まれ、ドメーヌ自体が昨年よりワイナリー的雰囲気濃く纏うことに一役買っているように思われる。だが、当貯蔵庫は「ワイナリーっぽさ」のために建設されたわけではない。 当たり前だ。 ▲ 斜面の麓にワイナリー兼ご自宅が位置している。新設されたのは左から2番目の「樽庫」だ。 樽庫が出来た事によって、作業スペースが増えて、大分やり易くなりました。買い葡萄も色々と試しに造れるようになったので色々とやってみたいですね。今年はシャルドネもやってみようかな、と思っています、多分1樽出来るかどうか、位の量ですけど。 今までは「モンペ」、「モンシー」、「カストゥグラン」、「ドングリ」の4銘柄のみのリリースであったが、醸造蔵の隣に熟成庫(樽庫)が完成したことで、新たなラインナップを追加することが可能となった。2020年からは買い葡萄を増やし、今までにない品種を山中さんのスタイルで醸造している。新たな葡萄品種には、メルロー、ピノノワールという意外な顔触れがチョイスされている。 「メルローは晩熟なので11月上旬くらいの収穫になるのですが、それは農家さんにとっては、収穫時期が主要な品種とずれるため、ありがたいことなんです。北海道でもメルローが熟すようであれば、植えてみたいという方は多くいらっしゃって、試験区画のような形で植樹されているんです。一方、収穫量が1列、2列だと大手さんには売れない(350~500キロ)ので、そういう葡萄を見つけて買っています。」 メルローを使ったワインの名前は『モンロー』。まさか、『マリリン・メルロー』への対抗馬が日本で生まれるとは思いもしなかった。冷涼産地の葡萄らしく、清涼感のあるハーブっぽいニュアンスを持つメルローであるため、軽やかな飲み口に仕上げられているピノノワールについても試験的に植えられている葡萄を購入した。病気に弱く収量も少ないため栽培農家にとっては、手を出しにくい品種であるピノノワール。 今年から仕込みを手掛けるのは、その中でも余市で栽培の実績がある、バラ房で比較的病気になりにくいクローンだ。 これは3年目のピノノワールなのですが、スイス系のマリアフェルダーというクローンで、実が少し大きいんです。余市産です。まともにピノノワールらしさで勝負するよりは、プールサールをイメージして余韻と旨味を出した方が良いかなと。酸度も高いんですよね。商品名は未だ決まっていません。 確かに、ジュラ系の品種を思わせる淡い果実味とややスモーキーなニュアンス、ピノノワールの王道たるスタイルではないが、余市らしい旨味のある味わいに仕上がっている。また、昨年から通常販売はされない商品の生産も手がけている。2020年12月にリリースされた「ドメーヌ・タカヒコ一門セット」というふるさと納税限定商品。 ドメーヌ・タカヒコ「ナカイ・ブラン 2018」、山田堂「ヨイチ・ロゼ ピノノワール2020」、ドメーヌ・モン「モンケルン 2020」のセットという愛好家垂涎の衝撃的な内容は、文字通り瞬く間に完売した。 「もともと曽我さんが、ふるさと納税にワインを1000本位出す事が決まっていました。曽我さんはもともと地元に貢献していく事に積極的で、それに協力するようなかたちでの出品となりました。」 そんな引く手数多のふるさと納税に、今年も山中さんは限定商品を出品予定だ。 今年のふるさと納税用のワインで、ドメーヌ・タカヒコ、ランセッカ、あとうちの3ワイナリーから同じ畑のソーヴィニヨンブランを使ったワインがセットになる予定です。相馬さんという農家の方のソーヴィニヨンブランなので、『ソウマニヨンブラン』という名称にしたところ、曽我さんが気に入って、結局3ワイナリーともにこの名称でワインを出すことになりました。...

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北海道・余市 ドメーヌ モン

日本ワインコラム |北海道・余市 ドメーヌ・モン / vol.2 ----- 訪問日:2021年7月20日 / vol.1 はこちら ▲ 北に日本海を望む東向きの斜面に位置するドメーヌ・モンの自社畑。遠くにシリバ岬が雄大に横たわる。 昨年訪問した際に建設中とのことであった貯蔵庫(樽庫)。中には木樽が3段に積まれ、ドメーヌ自体が昨年よりワイナリー的雰囲気濃く纏うことに一役買っているように思われる。だが、当貯蔵庫は「ワイナリーっぽさ」のために建設されたわけではない。 当たり前だ。 ▲ 斜面の麓にワイナリー兼ご自宅が位置している。新設されたのは左から2番目の「樽庫」だ。 樽庫が出来た事によって、作業スペースが増えて、大分やり易くなりました。買い葡萄も色々と試しに造れるようになったので色々とやってみたいですね。今年はシャルドネもやってみようかな、と思っています、多分1樽出来るかどうか、位の量ですけど。 今までは「モンペ」、「モンシー」、「カストゥグラン」、「ドングリ」の4銘柄のみのリリースであったが、醸造蔵の隣に熟成庫(樽庫)が完成したことで、新たなラインナップを追加することが可能となった。2020年からは買い葡萄を増やし、今までにない品種を山中さんのスタイルで醸造している。新たな葡萄品種には、メルロー、ピノノワールという意外な顔触れがチョイスされている。 「メルローは晩熟なので11月上旬くらいの収穫になるのですが、それは農家さんにとっては、収穫時期が主要な品種とずれるため、ありがたいことなんです。北海道でもメルローが熟すようであれば、植えてみたいという方は多くいらっしゃって、試験区画のような形で植樹されているんです。一方、収穫量が1列、2列だと大手さんには売れない(350~500キロ)ので、そういう葡萄を見つけて買っています。」 メルローを使ったワインの名前は『モンロー』。まさか、『マリリン・メルロー』への対抗馬が日本で生まれるとは思いもしなかった。冷涼産地の葡萄らしく、清涼感のあるハーブっぽいニュアンスを持つメルローであるため、軽やかな飲み口に仕上げられているピノノワールについても試験的に植えられている葡萄を購入した。病気に弱く収量も少ないため栽培農家にとっては、手を出しにくい品種であるピノノワール。 今年から仕込みを手掛けるのは、その中でも余市で栽培の実績がある、バラ房で比較的病気になりにくいクローンだ。 これは3年目のピノノワールなのですが、スイス系のマリアフェルダーというクローンで、実が少し大きいんです。余市産です。まともにピノノワールらしさで勝負するよりは、プールサールをイメージして余韻と旨味を出した方が良いかなと。酸度も高いんですよね。商品名は未だ決まっていません。 確かに、ジュラ系の品種を思わせる淡い果実味とややスモーキーなニュアンス、ピノノワールの王道たるスタイルではないが、余市らしい旨味のある味わいに仕上がっている。また、昨年から通常販売はされない商品の生産も手がけている。2020年12月にリリースされた「ドメーヌ・タカヒコ一門セット」というふるさと納税限定商品。 ドメーヌ・タカヒコ「ナカイ・ブラン 2018」、山田堂「ヨイチ・ロゼ ピノノワール2020」、ドメーヌ・モン「モンケルン 2020」のセットという愛好家垂涎の衝撃的な内容は、文字通り瞬く間に完売した。 「もともと曽我さんが、ふるさと納税にワインを1000本位出す事が決まっていました。曽我さんはもともと地元に貢献していく事に積極的で、それに協力するようなかたちでの出品となりました。」 そんな引く手数多のふるさと納税に、今年も山中さんは限定商品を出品予定だ。 今年のふるさと納税用のワインで、ドメーヌ・タカヒコ、ランセッカ、あとうちの3ワイナリーから同じ畑のソーヴィニヨンブランを使ったワインがセットになる予定です。相馬さんという農家の方のソーヴィニヨンブランなので、『ソウマニヨンブラン』という名称にしたところ、曽我さんが気に入って、結局3ワイナリーともにこの名称でワインを出すことになりました。...

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北海道・千歳 北海道中央葡萄酒

北海道・千歳 北海道中央葡萄酒

日本ワインコラム | 北海道・千歳 北海道中央葡萄酒 「日本のピノじゃないですかね。」 それまで静かな口調で抑制的に語ってきた、三澤計史さんが、ポコポコと湧くように答えてくださったのが「自分をワインに例えると」という質問だった。 「気難しい、とか。派手じゃない。あんまり華やかではない、とか。そこまで評価が高くない、とか。世界的に認められていない、まだ成功とは言えない、とか。」 ちょっと待ってください。もう少し光の当たった言葉はありませんか。 「いや、光と影の感覚というのはあって、昔は自分を売ろう売ろうとしていたのですが、最近はそう感じることもなくなって、コツコツと一歩ずつ歩いて行くことが大事なんだろうなぁと。」 なるほど。なんとなく滲み出る気難しさ。 でも、その気持ちわからなくはありません。 さて、北海道は千歳の地で、日本のピノ的な複雑性を大いに発揮する三澤さん。山梨県を代表するワイナリー「中央葡萄酒株式会社」の経営一族の長男として生まれた彼は、約6年間のアメリカ留学で化学を学んだのち、山梨県より遠く離れた北の地でワイナリー経営に取り組んでいる。 「高校を卒業して、中央葡萄酒に入社して。その後辞めて、アメリカへ留学して、帰ってきたらまた中央葡萄酒に入社して。」 そうしてたどり着いたのが、北海道は千歳ワイナリーだった。 現在、彼が取り仕切る「北海道中央葡萄酒」は30年の歴史を持つ。 1988年、中央葡萄酒の第二支店として設立された「グレイスワイン 千歳ワイナリー」。 今現在は、ピノ・ノワール、ケルナーを使用した高品質なワインが注目されるが、始まりは北海道の特産果樹であるハスカップを原料とした醸造酒の製造だった。 「当時、千歳市の農業自体が転換期にありました。その中で、千歳市のハスカップを広めていくための起爆剤として酒造りが持ち上がった。それがきっかけで、千歳という土地に醸造施設を持つこととなりました。」 JR千歳駅より徒歩10分ほど、市街地の中に構える石造りの巨大な建造物。 醸造施設は、昭和30年代に建設された穀物倉庫を改修して造られた。 札幌軟石を使用した歴史的価値の高い建物、天井を渡る幾重にも組まれた木の梁が荘厳な空気を醸し出す。 「あまり醸造所としてのメリットは感じていませんが。」 ハスカップワインの製造でスタートを切った「千歳ワイナリー」だが、同時に進めていたのが、欧州系の冷涼地域を好む品種でのワイン造りだ。当時、山梨県の中央葡萄酒では冷涼品種の栽培がうまくいっていなかった。 「やはり山梨の圃場では冷涼品種で良い結果を得ることが難しい。しかし、北海道という冷涼地であればそういった品種に挑戦できる。そんな思いがあり、契約農家さんを探していました。特にピノ・ノワールは父(三澤茂計さん)が追う夢でもありました。その中で余市の木村さんとの出会いは1992年です。当時、すでに木村農園ではピノ・ノワールが栽培されており、実績がありました。また、ピノ・ノワールの栽培を受託していただける農家さんも、木村農園だけだったのです。」 余市町登地区、ちょうどキャメルファームに隣接して広がる木村農園は、凝灰質砂岩土壌の緩やかな東向きの斜面上に位置する。1993年から植樹・栽培が始まった「北海道中央葡萄酒」の区画。1.5haからスタートした栽培面積は、現在2.0haになった。 「白葡萄にはリースリングを考えていましたが、北海道では11月までに成熟しないと、木村さんの指摘がありました。生産量をとれる代替として、交配品種のケルナー、ミュラー・トルガウ、バッカスが挙がりましたが、その中で最もボディがのっていたのがケルナーです。」 北海道中央葡萄酒が栽培を委託する区画では、樹齢20年ほどのケルナーと、10年、25年、35年の3区画に分けられるピノ・ノワール、その2種のみが栽培されている。設立以来、中央葡萄酒が契約する農家は「木村農園」一軒のみだ。 「石灰岩が剥き出しだからミネラルが強い、といったような端的なストーリーで言い表せるものではありませんが、木村農園のピノ・ノワールは熟度が高く、骨格があって、なおかつ酸がしっかり残る。そこに魅力を感じています。」 ピノ・ノワールにこだわり、栽培を行わないからこそ醸造へ集中できる環境の中で、ワインに対するアプローチにも柔軟な姿勢が現れる。...

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北海道・千歳 北海道中央葡萄酒

日本ワインコラム | 北海道・千歳 北海道中央葡萄酒 「日本のピノじゃないですかね。」 それまで静かな口調で抑制的に語ってきた、三澤計史さんが、ポコポコと湧くように答えてくださったのが「自分をワインに例えると」という質問だった。 「気難しい、とか。派手じゃない。あんまり華やかではない、とか。そこまで評価が高くない、とか。世界的に認められていない、まだ成功とは言えない、とか。」 ちょっと待ってください。もう少し光の当たった言葉はありませんか。 「いや、光と影の感覚というのはあって、昔は自分を売ろう売ろうとしていたのですが、最近はそう感じることもなくなって、コツコツと一歩ずつ歩いて行くことが大事なんだろうなぁと。」 なるほど。なんとなく滲み出る気難しさ。 でも、その気持ちわからなくはありません。 さて、北海道は千歳の地で、日本のピノ的な複雑性を大いに発揮する三澤さん。山梨県を代表するワイナリー「中央葡萄酒株式会社」の経営一族の長男として生まれた彼は、約6年間のアメリカ留学で化学を学んだのち、山梨県より遠く離れた北の地でワイナリー経営に取り組んでいる。 「高校を卒業して、中央葡萄酒に入社して。その後辞めて、アメリカへ留学して、帰ってきたらまた中央葡萄酒に入社して。」 そうしてたどり着いたのが、北海道は千歳ワイナリーだった。 現在、彼が取り仕切る「北海道中央葡萄酒」は30年の歴史を持つ。 1988年、中央葡萄酒の第二支店として設立された「グレイスワイン 千歳ワイナリー」。 今現在は、ピノ・ノワール、ケルナーを使用した高品質なワインが注目されるが、始まりは北海道の特産果樹であるハスカップを原料とした醸造酒の製造だった。 「当時、千歳市の農業自体が転換期にありました。その中で、千歳市のハスカップを広めていくための起爆剤として酒造りが持ち上がった。それがきっかけで、千歳という土地に醸造施設を持つこととなりました。」 JR千歳駅より徒歩10分ほど、市街地の中に構える石造りの巨大な建造物。 醸造施設は、昭和30年代に建設された穀物倉庫を改修して造られた。 札幌軟石を使用した歴史的価値の高い建物、天井を渡る幾重にも組まれた木の梁が荘厳な空気を醸し出す。 「あまり醸造所としてのメリットは感じていませんが。」 ハスカップワインの製造でスタートを切った「千歳ワイナリー」だが、同時に進めていたのが、欧州系の冷涼地域を好む品種でのワイン造りだ。当時、山梨県の中央葡萄酒では冷涼品種の栽培がうまくいっていなかった。 「やはり山梨の圃場では冷涼品種で良い結果を得ることが難しい。しかし、北海道という冷涼地であればそういった品種に挑戦できる。そんな思いがあり、契約農家さんを探していました。特にピノ・ノワールは父(三澤茂計さん)が追う夢でもありました。その中で余市の木村さんとの出会いは1992年です。当時、すでに木村農園ではピノ・ノワールが栽培されており、実績がありました。また、ピノ・ノワールの栽培を受託していただける農家さんも、木村農園だけだったのです。」 余市町登地区、ちょうどキャメルファームに隣接して広がる木村農園は、凝灰質砂岩土壌の緩やかな東向きの斜面上に位置する。1993年から植樹・栽培が始まった「北海道中央葡萄酒」の区画。1.5haからスタートした栽培面積は、現在2.0haになった。 「白葡萄にはリースリングを考えていましたが、北海道では11月までに成熟しないと、木村さんの指摘がありました。生産量をとれる代替として、交配品種のケルナー、ミュラー・トルガウ、バッカスが挙がりましたが、その中で最もボディがのっていたのがケルナーです。」 北海道中央葡萄酒が栽培を委託する区画では、樹齢20年ほどのケルナーと、10年、25年、35年の3区画に分けられるピノ・ノワール、その2種のみが栽培されている。設立以来、中央葡萄酒が契約する農家は「木村農園」一軒のみだ。 「石灰岩が剥き出しだからミネラルが強い、といったような端的なストーリーで言い表せるものではありませんが、木村農園のピノ・ノワールは熟度が高く、骨格があって、なおかつ酸がしっかり残る。そこに魅力を感じています。」 ピノ・ノワールにこだわり、栽培を行わないからこそ醸造へ集中できる環境の中で、ワインに対するアプローチにも柔軟な姿勢が現れる。...

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北海道・余市 キャメルファーム

北海道・余市 キャメルファーム

日本ワインコラム | 北海道・余市 キャメルファームワイナリー ガンベロ・ロッソ「ベスト・ワイン・メーカー」、ワイン・エンスージアスト誌「ワインメーカー・オブ・ザ・イヤー」、イタリアソムリエ協会「ベストイタリアンワインメーカー」。  輝かしい受賞歴をもち現代イタリアを代表する醸造家リカルド・コタレッラ氏。  彼をも魅了し、可能性を感じさせた葡萄畑が余市にある。 キャメルファームワイナリーは、2014年に設立された、新進気鋭のワイナリーだ。食を通じて、日本固有の自然を世界に発信する。世界に誇れるワインを造る。それが地域の活性化に繋がる。キャメルファームワイナリーが抱くそういった想いに共鳴したのが、イタリアでもワイン製造を通じた社会支援を行っていたコタレッラ氏だった。彼の協力のもと土地を探す中で、辿り着いたのが余市町登地区。ドイツのモーゼルやラインガウ、フランスのシャンパーニュ地方などが含まれる「Region 1」。そんな葡萄栽培北限の土地での挑戦の礎となったのが1980年代より30年以上の栽培の歴史を持つ藤本毅さんの農園だ。北海道を代表する栽培家の美しい畑との出会いは、折しも藤本氏が後継者を探していたころのことだった。藤本氏の畑を眼前にしたコタレッラ氏の確信により、2014年以降、キャメルファームワイナリーが畑を引き継き、さらなる改良を目指して栽培に取り組む。 40年以上にわたる余市での葡萄栽培によって培われた知恵や技術、キャメルファームワイナリーの畑となった土地で、藤本氏からそれらを受け継ぐのがワイナリー長の伊藤愛さん。 2014年からキャメルファームワイナリーの栽培に携わる。 「就職氷河期真っ只中の世代で、勤務地:ドイツと書かれた求人に応募したら採用されて。ドイツで4年間、日本食のレストランに勤務しました。そこで海外を見て、今に通ずるポジティブな考え方が身についたと思います。」 キャメルファームワイナリー設立以降、藤本氏の指導を受け、姿勢からノウハウまで吸収し続けた伊藤さん。彼女の管理下にある畑は、明るく清潔感を纏っている。 キャメルファームワイナリーの畑に植えられるのは、ケルナー、バッカス、シャルドネ、レジェント、ツヴァイゲルト、ピノ・ノワールなどが10種類。その中には、新しく植樹された比較的樹齢の若い樹もあるが、樹齢40年のバッカスなど、藤本氏から受け継いだ高樹齢の葡萄も多く存在する。除草剤を使わず草生栽培が行われ、風通しのいいこの畑では、しっかりと凝縮した健全な果実が実を結ぶ。 「南北に垣根が広がり朝から晩まで太陽のエネルギーを受けることができます。 また、海からの風と山からの風が畑を吹き抜けるので、畑にとって良い環境を整えてくれる。雪、風、太陽、海、山、自然のエネルギーがあふれているんです。」 キャメルファームワイナリーに常勤する栽培スタッフは7名。 16haという日本のワイナリーとしては広大な栽培面積を手作業でケアするのは困難だ。そのため、収穫時にはグループのスタッフが集まり、広大な畑の葡萄を素早く摘み取っていく。 畑の緩やかな斜面を降りた東側の道沿いには瀟洒な外観の醸造施設がある。  周辺には小規模のワイナリーが点々とする一方で、その建物はヨーロッパの大規模なワイナリーのそれに劣らないような、規模と設備を有している。2017年に完成した最新の施設で醸造の指揮を執るのはアンジェロ・トターロさん。イタリア人であるにも関わらず、チーズが食べられない奇特な彼は、昨年からワイナリーに参画している。朗らかな笑顔が柔和な印象を与えるが、コタレッラ氏の愛弟子であり、シャンパーニュ地方、エミリアロマーニャ州を活動の中心に醸造家としてきらびやかな経歴を持つ。彼1人でも、醸造家としてトップクラスであるにも関わらず、イタリアにいるコタレッラ氏と密にコミュニケーションをとりながら、醸造プロセスを進めていくというのだから、品質へのこだわりが恐ろしい。 ワイナリーへ入ると、「サニテーションが何よりも重要」と語るとおり、清潔なステンレスタンクが整然と立ち並ぶ。スパークリングワイン用のシャルマタンクを含め、合計45基、約15万本を生産可能な規模だ。タンクだけでなく配管やタンク上のキャットウォーク、ボトリングマシンまで全てが最新でピカピカだ。ヨーロッパの先進的なワイン造りを、人材から設備まで一貫して再現している。 「どのステップについても温度管理の徹底が大事」 ワイナリーの温度管理は厳重で、最新鋭のタンクの使用にとどまらず、空調設備が充実し、ワイナリー内を14℃ほどに保っている。また、熟成庫は水温冷式の温度管理となっており、壁面に張られたパイプの中を水が巡る。その温度を調節することによって庫内の気温を保つのだ。湿度の変化や空気の動きに作用しない、熟成環境に理想的な設備だろう。 最高の畑と最高の醸造設備と最高の技術者を兼ね備えるキャメルルファームワイナリー。小規模ワイナリーとは別のステージで、余市から世界へ、ワインを発信する主人公になることは間違いない。 「毎日違うことにチャレンジしていくこと」  「毎日生きることを当たり前のことと考えないで、全力で生きること」醸造責任者のアンジェロさんと、ワイナリー長の伊藤さんは、共通のモチベーションを口にする。葡萄栽培北限の余市という土地での彼らの挑戦が世界に広く認められる未来はそう遠くもないのかもしれない。

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北海道・余市 キャメルファーム

日本ワインコラム | 北海道・余市 キャメルファームワイナリー ガンベロ・ロッソ「ベスト・ワイン・メーカー」、ワイン・エンスージアスト誌「ワインメーカー・オブ・ザ・イヤー」、イタリアソムリエ協会「ベストイタリアンワインメーカー」。  輝かしい受賞歴をもち現代イタリアを代表する醸造家リカルド・コタレッラ氏。  彼をも魅了し、可能性を感じさせた葡萄畑が余市にある。 キャメルファームワイナリーは、2014年に設立された、新進気鋭のワイナリーだ。食を通じて、日本固有の自然を世界に発信する。世界に誇れるワインを造る。それが地域の活性化に繋がる。キャメルファームワイナリーが抱くそういった想いに共鳴したのが、イタリアでもワイン製造を通じた社会支援を行っていたコタレッラ氏だった。彼の協力のもと土地を探す中で、辿り着いたのが余市町登地区。ドイツのモーゼルやラインガウ、フランスのシャンパーニュ地方などが含まれる「Region 1」。そんな葡萄栽培北限の土地での挑戦の礎となったのが1980年代より30年以上の栽培の歴史を持つ藤本毅さんの農園だ。北海道を代表する栽培家の美しい畑との出会いは、折しも藤本氏が後継者を探していたころのことだった。藤本氏の畑を眼前にしたコタレッラ氏の確信により、2014年以降、キャメルファームワイナリーが畑を引き継き、さらなる改良を目指して栽培に取り組む。 40年以上にわたる余市での葡萄栽培によって培われた知恵や技術、キャメルファームワイナリーの畑となった土地で、藤本氏からそれらを受け継ぐのがワイナリー長の伊藤愛さん。 2014年からキャメルファームワイナリーの栽培に携わる。 「就職氷河期真っ只中の世代で、勤務地:ドイツと書かれた求人に応募したら採用されて。ドイツで4年間、日本食のレストランに勤務しました。そこで海外を見て、今に通ずるポジティブな考え方が身についたと思います。」 キャメルファームワイナリー設立以降、藤本氏の指導を受け、姿勢からノウハウまで吸収し続けた伊藤さん。彼女の管理下にある畑は、明るく清潔感を纏っている。 キャメルファームワイナリーの畑に植えられるのは、ケルナー、バッカス、シャルドネ、レジェント、ツヴァイゲルト、ピノ・ノワールなどが10種類。その中には、新しく植樹された比較的樹齢の若い樹もあるが、樹齢40年のバッカスなど、藤本氏から受け継いだ高樹齢の葡萄も多く存在する。除草剤を使わず草生栽培が行われ、風通しのいいこの畑では、しっかりと凝縮した健全な果実が実を結ぶ。 「南北に垣根が広がり朝から晩まで太陽のエネルギーを受けることができます。 また、海からの風と山からの風が畑を吹き抜けるので、畑にとって良い環境を整えてくれる。雪、風、太陽、海、山、自然のエネルギーがあふれているんです。」 キャメルファームワイナリーに常勤する栽培スタッフは7名。 16haという日本のワイナリーとしては広大な栽培面積を手作業でケアするのは困難だ。そのため、収穫時にはグループのスタッフが集まり、広大な畑の葡萄を素早く摘み取っていく。 畑の緩やかな斜面を降りた東側の道沿いには瀟洒な外観の醸造施設がある。  周辺には小規模のワイナリーが点々とする一方で、その建物はヨーロッパの大規模なワイナリーのそれに劣らないような、規模と設備を有している。2017年に完成した最新の施設で醸造の指揮を執るのはアンジェロ・トターロさん。イタリア人であるにも関わらず、チーズが食べられない奇特な彼は、昨年からワイナリーに参画している。朗らかな笑顔が柔和な印象を与えるが、コタレッラ氏の愛弟子であり、シャンパーニュ地方、エミリアロマーニャ州を活動の中心に醸造家としてきらびやかな経歴を持つ。彼1人でも、醸造家としてトップクラスであるにも関わらず、イタリアにいるコタレッラ氏と密にコミュニケーションをとりながら、醸造プロセスを進めていくというのだから、品質へのこだわりが恐ろしい。 ワイナリーへ入ると、「サニテーションが何よりも重要」と語るとおり、清潔なステンレスタンクが整然と立ち並ぶ。スパークリングワイン用のシャルマタンクを含め、合計45基、約15万本を生産可能な規模だ。タンクだけでなく配管やタンク上のキャットウォーク、ボトリングマシンまで全てが最新でピカピカだ。ヨーロッパの先進的なワイン造りを、人材から設備まで一貫して再現している。 「どのステップについても温度管理の徹底が大事」 ワイナリーの温度管理は厳重で、最新鋭のタンクの使用にとどまらず、空調設備が充実し、ワイナリー内を14℃ほどに保っている。また、熟成庫は水温冷式の温度管理となっており、壁面に張られたパイプの中を水が巡る。その温度を調節することによって庫内の気温を保つのだ。湿度の変化や空気の動きに作用しない、熟成環境に理想的な設備だろう。 最高の畑と最高の醸造設備と最高の技術者を兼ね備えるキャメルルファームワイナリー。小規模ワイナリーとは別のステージで、余市から世界へ、ワインを発信する主人公になることは間違いない。 「毎日違うことにチャレンジしていくこと」  「毎日生きることを当たり前のことと考えないで、全力で生きること」醸造責任者のアンジェロさんと、ワイナリー長の伊藤さんは、共通のモチベーションを口にする。葡萄栽培北限の余市という土地での彼らの挑戦が世界に広く認められる未来はそう遠くもないのかもしれない。

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