日本ワインコラム

THE CELLAR ワイン特集
山梨・ドメーヌ・デ・テンゲイジ

山梨・ドメーヌ・デ・テンゲイジ

日本ワインコラム | 山梨・ドメーヌ・デ・テンゲイジ 会うと、すぐに虜になる。 ▲ ドメーヌ・デ・テンゲイジの天花寺さんと下川さんは公私共に最強のパートナーだ。 「いい意味で予想外」ーインタビューを終えた時の印象だ。 2016年創業、2017年にワイナリーをオープン、ククラパン ドメーヌ・デ・テンゲイジの歴史は新しい。ワイナリーは山梨県北杜市明野にあり、圃場はワイナリー隣接地と車で15分程離れた韮崎市上ノ山の2ヶ所に跨る。甲府盆地の北西部に位置し、訪れると八ケ岳や南アルプスといった山々に囲まれた日本有数の美しい山岳景観が心を癒してくれる。 そこで、天花寺さんと下川さんは「未来につなぐ、ほんまもんのワイン。」に日々向き合っている。 ちなみに「CouCou」とはフランス語で「やあ!」「ハロー」など、親しみを込めた表現としてよく使われる言葉で、たくさんの仲間たちが集まってくるようなワイナリーになってほしいという想いを込めて社名につけたそうだ。 取材に当たり、ホームページやいくつかの記事を読んでいた。 2人揃って大阪出身。天花寺さんは輸入ワインのインポーターでキャリアを積んだ後、山梨大学院ワイン科学研究センターで修士を取得、ニュージーランドでの醸造研修を経て今に至る。 一方の下川さんは、理学療法士としてのキャリアが長い。理学療法とブドウ栽培は「同じ生理学だ」と断言し、上質でサステイナブルなブドウ栽培と日々向き合っている。「なんだこの情熱、そして行動力!」。強い意志と馬力を持ってゴリゴリと道を切り開くブルドーザーのような二人だと思っていた(失礼だったら申し訳ない…)。 確かに、揺るぎない思いや突き進む力は、こちらの胸を熱くさせる程だ。しかし、ゴリゴリ感は全くない。大阪弁で繰り広げられる2人の話には笑いと涙が随所に散りばめられ、かなり心地いい。そう、芯はあるが「ほんわか」。温かい人柄が滲み出ているのだ。 回り道だと思ったら近道だった 2011年に2人で山梨に移住後、2014年に上ノ山で就農。直ちにワイン醸造に取り掛かったのかと思いきや、そうではなかった。上ノ山ブドウ部会の部会長のアドバイスで、ワイン醸造用のマスカット・ベーリーAだけでなく、生食用のピオーネ、ゴルビー、サニー・ドルチェ、ロザリオ・ビアンコも栽培していたという。 ▲ 上ノ山圃場にあるブドウ。澄み渡る青空が美しい。 えー?と思ったし、どっちもやれと言われて、本当に大変だった と当時を振り返る。醸造用と生食用ではブドウの栽培手法は大きく異なる。生食用のブドウは病気になりやすく、粒を大きく育てる為に粒抜きの作業が加わったりと、醸造用ブドウに必要なことと異なる手間がある。醸造用のブドウ栽培に時間を掛けたいのに、生食用の栽培に労力を割かれる状況だと、焦りが出てやる気が落ちそうだ。しかし、2人は腐らずに、一つ一つに向き合った。就農2年目の秋、出来上がったサニー・ドルチェを出荷した時、部会長が他の農家の前でブドウを褒めてくれたそうだ。「質がいい」と。 「その時は泣きそうになった」 と言う。いいものはいいと褒めてくれる文化がそこにはあった。就農した当初は、周囲の農家も醸造用ブドウを栽培する2人を懐疑的な目で見ていたが、出荷したブドウの品質を見て、その目がガラリと変わった。また、どうやって質の高いブドウを育てられるのかと教えを乞われる立場にもなった。周囲に認められた瞬間だった。 「今思うと、部会長は『頭でっかちになるなよというメッセージを伝えたかったのではないかと思う」 と天花寺さんは当時を振り返る。また、下川さんも 「生食用のブドウを栽培することで、 醸造用のブドウを栽培する上で役立つ技術を勉強できた」 と有難そうに語る。 きっと、2人の力を持ってすれば、最初から醸造用ブドウだけ栽培していたとしても成功していただろう。スタートが遅れたという見方もできるかもしれないが、2人は回り道と思える道を敢えて選ぶことで、周囲の信頼と技術の向上を手に入れた。更に道を開拓する上でこれほど心強い武器はないだろう。 これはむしろ近道だったのだ。...

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山梨・ドメーヌ・デ・テンゲイジ

日本ワインコラム | 山梨・ドメーヌ・デ・テンゲイジ 会うと、すぐに虜になる。 ▲ ドメーヌ・デ・テンゲイジの天花寺さんと下川さんは公私共に最強のパートナーだ。 「いい意味で予想外」ーインタビューを終えた時の印象だ。 2016年創業、2017年にワイナリーをオープン、ククラパン ドメーヌ・デ・テンゲイジの歴史は新しい。ワイナリーは山梨県北杜市明野にあり、圃場はワイナリー隣接地と車で15分程離れた韮崎市上ノ山の2ヶ所に跨る。甲府盆地の北西部に位置し、訪れると八ケ岳や南アルプスといった山々に囲まれた日本有数の美しい山岳景観が心を癒してくれる。 そこで、天花寺さんと下川さんは「未来につなぐ、ほんまもんのワイン。」に日々向き合っている。 ちなみに「CouCou」とはフランス語で「やあ!」「ハロー」など、親しみを込めた表現としてよく使われる言葉で、たくさんの仲間たちが集まってくるようなワイナリーになってほしいという想いを込めて社名につけたそうだ。 取材に当たり、ホームページやいくつかの記事を読んでいた。 2人揃って大阪出身。天花寺さんは輸入ワインのインポーターでキャリアを積んだ後、山梨大学院ワイン科学研究センターで修士を取得、ニュージーランドでの醸造研修を経て今に至る。 一方の下川さんは、理学療法士としてのキャリアが長い。理学療法とブドウ栽培は「同じ生理学だ」と断言し、上質でサステイナブルなブドウ栽培と日々向き合っている。「なんだこの情熱、そして行動力!」。強い意志と馬力を持ってゴリゴリと道を切り開くブルドーザーのような二人だと思っていた(失礼だったら申し訳ない…)。 確かに、揺るぎない思いや突き進む力は、こちらの胸を熱くさせる程だ。しかし、ゴリゴリ感は全くない。大阪弁で繰り広げられる2人の話には笑いと涙が随所に散りばめられ、かなり心地いい。そう、芯はあるが「ほんわか」。温かい人柄が滲み出ているのだ。 回り道だと思ったら近道だった 2011年に2人で山梨に移住後、2014年に上ノ山で就農。直ちにワイン醸造に取り掛かったのかと思いきや、そうではなかった。上ノ山ブドウ部会の部会長のアドバイスで、ワイン醸造用のマスカット・ベーリーAだけでなく、生食用のピオーネ、ゴルビー、サニー・ドルチェ、ロザリオ・ビアンコも栽培していたという。 ▲ 上ノ山圃場にあるブドウ。澄み渡る青空が美しい。 えー?と思ったし、どっちもやれと言われて、本当に大変だった と当時を振り返る。醸造用と生食用ではブドウの栽培手法は大きく異なる。生食用のブドウは病気になりやすく、粒を大きく育てる為に粒抜きの作業が加わったりと、醸造用ブドウに必要なことと異なる手間がある。醸造用のブドウ栽培に時間を掛けたいのに、生食用の栽培に労力を割かれる状況だと、焦りが出てやる気が落ちそうだ。しかし、2人は腐らずに、一つ一つに向き合った。就農2年目の秋、出来上がったサニー・ドルチェを出荷した時、部会長が他の農家の前でブドウを褒めてくれたそうだ。「質がいい」と。 「その時は泣きそうになった」 と言う。いいものはいいと褒めてくれる文化がそこにはあった。就農した当初は、周囲の農家も醸造用ブドウを栽培する2人を懐疑的な目で見ていたが、出荷したブドウの品質を見て、その目がガラリと変わった。また、どうやって質の高いブドウを育てられるのかと教えを乞われる立場にもなった。周囲に認められた瞬間だった。 「今思うと、部会長は『頭でっかちになるなよというメッセージを伝えたかったのではないかと思う」 と天花寺さんは当時を振り返る。また、下川さんも 「生食用のブドウを栽培することで、 醸造用のブドウを栽培する上で役立つ技術を勉強できた」 と有難そうに語る。 きっと、2人の力を持ってすれば、最初から醸造用ブドウだけ栽培していたとしても成功していただろう。スタートが遅れたという見方もできるかもしれないが、2人は回り道と思える道を敢えて選ぶことで、周囲の信頼と技術の向上を手に入れた。更に道を開拓する上でこれほど心強い武器はないだろう。 これはむしろ近道だったのだ。...

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北海道・函館 農楽蔵

北海道・函館 農楽蔵

日本ワインコラム 北海道・函館 農楽蔵 北海道北斗市文月地区 。 「峩朗(がろう)鉱山」を背に函館市街を見下ろす斜面の上に、農楽蔵の自社農園は広がっている。 ▲ 路面電車が横断する、趣のある港町だ。 最近は治ったのですが、謂わば「斜面を見ると葡萄を植えたくなっちゃう病」に罹っていました。 葡萄を栽培する場所を長い間探していたので、癖になってしまって。 何万人にひとりが罹る奇病なのかは知らないが、筆者が知る限りにおいては、はじめての症例だ。前代未聞の病魔に侵されながらも心を燃やし続けたその情熱は計り知れない。 ブルゴーニュでワインの醸造栽培学を修めた後、山梨県でワイン造りに携わっていた佐々木賢さんは、日本各地を回りながら、自分が求める条件を満たす土地を探していた。 ▲ 農楽蔵 佐々木賢氏 僕の場合、もともとはシャルドネが自分の好みのスペックになりそうなところを探していて、7-8年のあいだ日本中を訪ねて回りました。 当時は、フランス留学を終えた後で、山梨のワイナリーで働いていたのですが、そこからまたフランスに戻ったりして。そのあとに、北海道のニセコにきて、月に一回ほどのペースで実際に函館を訪れていました。 言うまでもない。北海道は大きい。 同じ北海道のうちにあっても、各都市は途方もない空間を隔てている。札幌と旭川なんて、六本木と新宿くらいの距離感でしょ。なんて都内在住者のくるった縮尺は一切通用しない。実際に農楽蔵が位置する函館と、北海道のワイン産地として注目を集めている余市や岩見沢の間には、200㎞以上の距離がある。東京からであれば静岡まで到達してしまう距離だ。県をまたぐどころの話ではなく、違う地方といえる隔絶がある。 同じ自治体区分であることが不自然なくらいだ。 だから、まずそのギャップを考慮に入れなければならない。東京に富士山はないし、静岡に愛宕の出世坂はない。つまるところ、余市などとは対照的に、函館近郊には葡萄栽培の歴史はない。 ▲ 自社畑の文月ヴィンヤードの裏手には、ジュラ紀石灰岩「峩朗(がろう)鉱山」 明治二年にプロシア(ドイツ)人が葡萄を植樹したという記録は残っているのですが、それも凍害かフィロキセラかで途絶えているので、函館には葡萄栽培の歴史はないに等しいです。 気候の特徴のひとつとして、余市や岩見沢にはない「やませ」という太平洋側からくる季節風があるのですが、そのような厳しい風が吹き込んでくると葡萄の収量が落ちてしまいます。 「そういった不安定要素、リスクを抱えた土地だったので、葡萄の栽培はあまり栄えて来ませんでした。 ですが、近年暖かくなってきたことによって、その影響がやや緩和されてきました。 気象庁のデータ等をもとにそのような裏付けとった上で、自社圃場を植樹したのです。」 フランスや日本で得た情報、そして現場を訪れて行った徹底したリサーチの結果。佐々木さんが長い時間をかけたのは、それらと自身が求める条件とを擦り合わせだ。より詳細な情報を求め、入念な準備を進めていく中で、葡萄産地、ワイン造りの現場としての函館の優位性は、佐々木さんの中で確固たるものとなっていった。既に葡萄栽培地として名高い余市などと比較した時の、気候に関する微妙な差異なども函館のアドバンテージを証明する特徴となり得た。 ▲...

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北海道・函館 農楽蔵

日本ワインコラム 北海道・函館 農楽蔵 北海道北斗市文月地区 。 「峩朗(がろう)鉱山」を背に函館市街を見下ろす斜面の上に、農楽蔵の自社農園は広がっている。 ▲ 路面電車が横断する、趣のある港町だ。 最近は治ったのですが、謂わば「斜面を見ると葡萄を植えたくなっちゃう病」に罹っていました。 葡萄を栽培する場所を長い間探していたので、癖になってしまって。 何万人にひとりが罹る奇病なのかは知らないが、筆者が知る限りにおいては、はじめての症例だ。前代未聞の病魔に侵されながらも心を燃やし続けたその情熱は計り知れない。 ブルゴーニュでワインの醸造栽培学を修めた後、山梨県でワイン造りに携わっていた佐々木賢さんは、日本各地を回りながら、自分が求める条件を満たす土地を探していた。 ▲ 農楽蔵 佐々木賢氏 僕の場合、もともとはシャルドネが自分の好みのスペックになりそうなところを探していて、7-8年のあいだ日本中を訪ねて回りました。 当時は、フランス留学を終えた後で、山梨のワイナリーで働いていたのですが、そこからまたフランスに戻ったりして。そのあとに、北海道のニセコにきて、月に一回ほどのペースで実際に函館を訪れていました。 言うまでもない。北海道は大きい。 同じ北海道のうちにあっても、各都市は途方もない空間を隔てている。札幌と旭川なんて、六本木と新宿くらいの距離感でしょ。なんて都内在住者のくるった縮尺は一切通用しない。実際に農楽蔵が位置する函館と、北海道のワイン産地として注目を集めている余市や岩見沢の間には、200㎞以上の距離がある。東京からであれば静岡まで到達してしまう距離だ。県をまたぐどころの話ではなく、違う地方といえる隔絶がある。 同じ自治体区分であることが不自然なくらいだ。 だから、まずそのギャップを考慮に入れなければならない。東京に富士山はないし、静岡に愛宕の出世坂はない。つまるところ、余市などとは対照的に、函館近郊には葡萄栽培の歴史はない。 ▲ 自社畑の文月ヴィンヤードの裏手には、ジュラ紀石灰岩「峩朗(がろう)鉱山」 明治二年にプロシア(ドイツ)人が葡萄を植樹したという記録は残っているのですが、それも凍害かフィロキセラかで途絶えているので、函館には葡萄栽培の歴史はないに等しいです。 気候の特徴のひとつとして、余市や岩見沢にはない「やませ」という太平洋側からくる季節風があるのですが、そのような厳しい風が吹き込んでくると葡萄の収量が落ちてしまいます。 「そういった不安定要素、リスクを抱えた土地だったので、葡萄の栽培はあまり栄えて来ませんでした。 ですが、近年暖かくなってきたことによって、その影響がやや緩和されてきました。 気象庁のデータ等をもとにそのような裏付けとった上で、自社圃場を植樹したのです。」 フランスや日本で得た情報、そして現場を訪れて行った徹底したリサーチの結果。佐々木さんが長い時間をかけたのは、それらと自身が求める条件とを擦り合わせだ。より詳細な情報を求め、入念な準備を進めていく中で、葡萄産地、ワイン造りの現場としての函館の優位性は、佐々木さんの中で確固たるものとなっていった。既に葡萄栽培地として名高い余市などと比較した時の、気候に関する微妙な差異なども函館のアドバンテージを証明する特徴となり得た。 ▲...

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北海道・函館 ド・モンティーユ

北海道・函館 ド・モンティーユ

日本ワインコラム | 北海道 函館 ド・モンティーユ&北海道 小規模ワイナリーが次々に生まれ、独創的かつ高品質なワインが多数リリースされていくことで、躍進を続けている日本ワイン。 北海道という土地は、そのような隆盛の舞台の中でも最も多くのスポットライトが集まる産地だろう。ドメーヌ・タカヒコをはじめとする余市や、多くのスタート・アップ生産者を輩出する10Rワイナリーが位置する岩見沢など、源泉が点在している。 一方で、2018年、そのような発展の形とはやや性質を異にする出来事が起こった。 ブルゴーニュの名門ドメーヌ「ド・モンティーユ」の函館への進出である。 歴史と基盤をもつブルゴーニュの生産者。そのような老舗ワイナリーが、新天地として、まだ黎明期にある日本の北海道を、かつワイン産地として殆ど歴史を持たない函館を選択したことは、多くの驚きを呼んだ。 ドメーヌ・ド・モンティーユ ▲ 函館湾、函館山を臨む絶景の斜面上にピノ・ノワール、シャルドネが植樹される。 ド・モンティーユは、フランス革命以前の1730年に設立され、現在も家族経営が続けられている歴史あるドメーヌだ。 その名前が示すように封建領主の家系にルーツを持つため、かつてはミュジニーやボンヌマール、レ ザムルーズなど煌びやかなクリマの数々を20haも所有していた。ヴォルネイ拠点のドメーヌというイメージが根強いが、それは、経済的な理由でそれらの畑を手放さなければならなかったためである。ド・モンティーユは、ドメーヌが位置するヴォルネイの畑を2.5ha残したのみで、他の区画はすべて失った。 現当主であるエティエンヌ・ド・モンティーユ氏が、ワイナリーに参画したのは1990年。弁護士とワイン生産者の二足草鞋で働き続けていた父・ユベール氏を見て育った彼は、パリ高等政治学院で法学を収め、弁護士資格を取得、M&Aのコンサルタントなどのキャリアを経て、83年にワイナリーへ戻ってきた。 そこから7年という長い歳月をかけて、醸造・栽培に関する学業とドメーヌでの研修を経て、醸造責任者の任についたのだ。1995年、ドメーヌの共同経営者となってからのエティエンヌの躍進は目まぐるしい。ビオディナミ農法での栽培を全自社畑に適応、ユーロリーフ認証を取得し、その一方では、自社畑の大幅な拡大に着手。 クロ・ド・ヴージョやヴォーヌ・ロマネ マルコンソールをはじめとした著名なクリマを取得、そして、業務委託という形で、栽培・醸造を担っていた「シャトー・ド・ピュリニー・モンラッシェ」を買収した。それによって、シュヴァリエ・モンラッシェをはじめ、シャルドネの一流クリマを一網打尽に手に入れた。 当初2.5haだった自社畑は、36haにまで広がりを見せた。ヴォルネイの小規模ドメーヌという既存のイメージを一新しようというような動きは、ド・モンティーユのラインナップを鑑みるに見事に作用していると言えるだろう。そのように、まるでかつての栄華を取り戻そうとするかの勢いで、グランクリュ街道を突き進む、エティエンヌ・ド・モンティーユ。そんな彼が、チャレンジのネクスト・ステージとして選んだのが、「北海道」だったことは、やはり意外というほかないように思われる。 ブルゴーニュから世界への進出 ▲ 標高は200mほどの緩やかな斜面。背後の亀田山地から吹き下ろす冷たい風によって、冷涼な環境が保たれる。 ブルゴーニュのドメーヌの海外進出というムーヴメントは、1987年にジョセフ・ドルーアンが、オレゴン州でワイナリーを設立したことから端を発する。その後、オレゴンでいえば、ドミニク・ラフォン(ドメーヌ・コント・ラフォン)、エティエンヌ・カミュゼ(ドメーヌ・メオ・カミュゼ)、ルイ・ジャド、ルイ・ミシェル・リジェ・ベレール(ドメーヌ・コント・リジェ・べレール)などが後進として続く。また、南半球に関して言えば、ジャン・マリー・フーリエ(ドメーヌ・フーリエ)がギップスランドのバス・フィリップに、フランソワ・ミエ(コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエ)がセントラル・オタゴのプロフェッツ・ロックに参入するなど、ブルゴーニュ品種の新天地へ事業を展開している。 そういった産地の共通点として、既にブルゴーニュ品種を用いてのワイン造りが主要産業として息づいていたということがあげられる。 勿論ブルゴーニュと比較すれば新興の産地であるが、オレゴン、ヴィクトリア、セントラル・オタゴは、1980年代からワイン産地として勃興を見せている。ドルーアンの進出は先見的と言っても誇張ではないものだが、他の多くのブルゴーニュの生産者にとっては、安定した未来が見える投資先と言える存在であった。 対照的に、「日本」「北海道」「函館」というエティエンヌ氏の土地選びは、そのような前例と大きくかけ離れている。先述のニューワールドのワイン産地と比較しても、産業としての規模が大きく異なるのだ。例えば、年間900万リットル以上の生産量を誇るオレゴンに対し、北海道全体で輩出するワインは250万リットル。ブルゴーニュ品種に関しては、90年代以降の流行が見られるが、小規模生産者が増加傾向にあるというステージにとどまり、例えばピノ・ノワールの生産量は北海道全体の3%にも満たない。 それに加えて、北海道の中でもワインの新興産地として知られている、余市・岩見沢等とは対照的に、函館にはブドウ栽培からワイン生産までを手掛けるドメーヌ型の産業の歴史が全くと言っていいほどに存在していない。 気候変動などの環境変化の中で自身の新しいチャレンジを模索する中、函館を新しいチャレンジの地として選んだ。...

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北海道・函館 ド・モンティーユ

日本ワインコラム | 北海道 函館 ド・モンティーユ&北海道 小規模ワイナリーが次々に生まれ、独創的かつ高品質なワインが多数リリースされていくことで、躍進を続けている日本ワイン。 北海道という土地は、そのような隆盛の舞台の中でも最も多くのスポットライトが集まる産地だろう。ドメーヌ・タカヒコをはじめとする余市や、多くのスタート・アップ生産者を輩出する10Rワイナリーが位置する岩見沢など、源泉が点在している。 一方で、2018年、そのような発展の形とはやや性質を異にする出来事が起こった。 ブルゴーニュの名門ドメーヌ「ド・モンティーユ」の函館への進出である。 歴史と基盤をもつブルゴーニュの生産者。そのような老舗ワイナリーが、新天地として、まだ黎明期にある日本の北海道を、かつワイン産地として殆ど歴史を持たない函館を選択したことは、多くの驚きを呼んだ。 ドメーヌ・ド・モンティーユ ▲ 函館湾、函館山を臨む絶景の斜面上にピノ・ノワール、シャルドネが植樹される。 ド・モンティーユは、フランス革命以前の1730年に設立され、現在も家族経営が続けられている歴史あるドメーヌだ。 その名前が示すように封建領主の家系にルーツを持つため、かつてはミュジニーやボンヌマール、レ ザムルーズなど煌びやかなクリマの数々を20haも所有していた。ヴォルネイ拠点のドメーヌというイメージが根強いが、それは、経済的な理由でそれらの畑を手放さなければならなかったためである。ド・モンティーユは、ドメーヌが位置するヴォルネイの畑を2.5ha残したのみで、他の区画はすべて失った。 現当主であるエティエンヌ・ド・モンティーユ氏が、ワイナリーに参画したのは1990年。弁護士とワイン生産者の二足草鞋で働き続けていた父・ユベール氏を見て育った彼は、パリ高等政治学院で法学を収め、弁護士資格を取得、M&Aのコンサルタントなどのキャリアを経て、83年にワイナリーへ戻ってきた。 そこから7年という長い歳月をかけて、醸造・栽培に関する学業とドメーヌでの研修を経て、醸造責任者の任についたのだ。1995年、ドメーヌの共同経営者となってからのエティエンヌの躍進は目まぐるしい。ビオディナミ農法での栽培を全自社畑に適応、ユーロリーフ認証を取得し、その一方では、自社畑の大幅な拡大に着手。 クロ・ド・ヴージョやヴォーヌ・ロマネ マルコンソールをはじめとした著名なクリマを取得、そして、業務委託という形で、栽培・醸造を担っていた「シャトー・ド・ピュリニー・モンラッシェ」を買収した。それによって、シュヴァリエ・モンラッシェをはじめ、シャルドネの一流クリマを一網打尽に手に入れた。 当初2.5haだった自社畑は、36haにまで広がりを見せた。ヴォルネイの小規模ドメーヌという既存のイメージを一新しようというような動きは、ド・モンティーユのラインナップを鑑みるに見事に作用していると言えるだろう。そのように、まるでかつての栄華を取り戻そうとするかの勢いで、グランクリュ街道を突き進む、エティエンヌ・ド・モンティーユ。そんな彼が、チャレンジのネクスト・ステージとして選んだのが、「北海道」だったことは、やはり意外というほかないように思われる。 ブルゴーニュから世界への進出 ▲ 標高は200mほどの緩やかな斜面。背後の亀田山地から吹き下ろす冷たい風によって、冷涼な環境が保たれる。 ブルゴーニュのドメーヌの海外進出というムーヴメントは、1987年にジョセフ・ドルーアンが、オレゴン州でワイナリーを設立したことから端を発する。その後、オレゴンでいえば、ドミニク・ラフォン(ドメーヌ・コント・ラフォン)、エティエンヌ・カミュゼ(ドメーヌ・メオ・カミュゼ)、ルイ・ジャド、ルイ・ミシェル・リジェ・ベレール(ドメーヌ・コント・リジェ・べレール)などが後進として続く。また、南半球に関して言えば、ジャン・マリー・フーリエ(ドメーヌ・フーリエ)がギップスランドのバス・フィリップに、フランソワ・ミエ(コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエ)がセントラル・オタゴのプロフェッツ・ロックに参入するなど、ブルゴーニュ品種の新天地へ事業を展開している。 そういった産地の共通点として、既にブルゴーニュ品種を用いてのワイン造りが主要産業として息づいていたということがあげられる。 勿論ブルゴーニュと比較すれば新興の産地であるが、オレゴン、ヴィクトリア、セントラル・オタゴは、1980年代からワイン産地として勃興を見せている。ドルーアンの進出は先見的と言っても誇張ではないものだが、他の多くのブルゴーニュの生産者にとっては、安定した未来が見える投資先と言える存在であった。 対照的に、「日本」「北海道」「函館」というエティエンヌ氏の土地選びは、そのような前例と大きくかけ離れている。先述のニューワールドのワイン産地と比較しても、産業としての規模が大きく異なるのだ。例えば、年間900万リットル以上の生産量を誇るオレゴンに対し、北海道全体で輩出するワインは250万リットル。ブルゴーニュ品種に関しては、90年代以降の流行が見られるが、小規模生産者が増加傾向にあるというステージにとどまり、例えばピノ・ノワールの生産量は北海道全体の3%にも満たない。 それに加えて、北海道の中でもワインの新興産地として知られている、余市・岩見沢等とは対照的に、函館にはブドウ栽培からワイン生産までを手掛けるドメーヌ型の産業の歴史が全くと言っていいほどに存在していない。 気候変動などの環境変化の中で自身の新しいチャレンジを模索する中、函館を新しいチャレンジの地として選んだ。...

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北海道・余市 登醸造

北海道・余市 登醸造

日本ワインコラム | 北海道・余市 登醸造 「お酒ももちろん好きなんです。毎晩、晩酌もしています。 でも、もしあなたが今生きていくうえで何かひとつだけを選ぶとしたら、それは何かと問われれば、俺は音楽なんです。」 好きなアーティストを問われた、登醸造の小西さんは突如として、目の色と声色と顔色を変えた。 ▲ 登醸造 小西史明さん。ツヴァイゲルトの畑でも葡萄を慈しむ微笑みを絶やさないが。 それまでの会話の中で沈んでいたということでは全くないが、「いやぁ、そういう話するの好きなんだよなぁ。」とはにかむ彼は、「恋バナ」を持ちかけられた女子高生さながらにキュンキュン、ウキウキしているように見えた。 なるほど。 ワイナリーのホームページに「音楽」というセクションが存在し、そこには小西さんが愛するアーティストたちの楽曲のビデオクリップが埋め込まれている。何の説明もないと非常に奇妙に映るが、そういうことだ。 リクオ、ハナレグミ、Ruben Gonzalez、真心ブラザーズ、YO-KING、Saienji、音楽に疎い私にとっては、凡そ聞いたことのないアーティストの名前が次々と発せられた。 ▲ 音楽の話になった途端、表情が変わる。瞳が若返る。声が音色を帯びてくる。 半ば呆然としていると、小西さんは自身のミュージック・ステーションで下車し、どこかへ行ってしまった。 「音楽が本当に大好きで、音楽に本当に救われて生きてきたような感じで、自分自身でも東京にいた時代にバンドをやっていましたし。」 音楽というものは、それを浴びるように聴いていた当時の気持ちや境遇をそっくりそのままフリーズドライするような機能を持っている。 特定の楽曲を聴いてしまうと、陰惨な気分になって急に胃に鉛を詰め込まれたような感覚を覚えたり、反対に体が軽くなって、普段は目もくれない空を仰いだり、抗うことのできない時間旅行を迫られる。 嬉々として、自身と音楽との関係性を語り始めた小西さんは、脳内で何かの楽曲を再生しながら目まぐるしいタイムスリップの旅に出た。彼が目の当たりにした旅の情景に併せて語られる内容や展開に脈絡や道しるべがないものかと探したが、どうにも見当たらない。そういえばあるタイプの楽曲の歌詞というのは、ピースを組み合わせるような構造ではなくて、ぐしゃっとしたナンセンスの集合から何かがにおい立つようなあり方をしていたりもする、ような気がする。 高校1年生の文化祭、ラフィンノーズ(laughin'nose)のコピーをやっていた先輩のステージに衝撃を受けた話。 当時砂糖水で髪を固め、パーマ液で頭皮を痛めつけていたイギリスのパンクバンドの影響を受けたがゆえに、毛穴に甚大なダメージをうけた話。 ラテン系音楽のファンの友人に誘われて行ったライブの最中、ステージに招かれて壇上の女性ダンサーと一緒に踊るように促されたが、素人だったためにふにゃふにゃとしかダンスが出来ず、それを契機にサルサバーでダンスを練習した話。 東京時代に墨田区の河川敷でコンガを叩いて練習していたら、通行人に石を投げられて、そいつを必死で追いかけた話。 北海道に来た途端、コンガを叩くのをすっかりやめてしまって、今は物置台になっている話。 『迷走王BORDER』で増毛材をつけて、ボブ・マーレーの「LIVE!!」を歌う主人公蜂須賀が好きで、レゲエ音楽も好きになった話。 私が唯一理解可能であった『BORDER』より言葉を借りるならば、「無為こそ、過激」ということになるのだろうか。 BLUE...

日本ワインコラム

北海道・余市 登醸造

日本ワインコラム | 北海道・余市 登醸造 「お酒ももちろん好きなんです。毎晩、晩酌もしています。 でも、もしあなたが今生きていくうえで何かひとつだけを選ぶとしたら、それは何かと問われれば、俺は音楽なんです。」 好きなアーティストを問われた、登醸造の小西さんは突如として、目の色と声色と顔色を変えた。 ▲ 登醸造 小西史明さん。ツヴァイゲルトの畑でも葡萄を慈しむ微笑みを絶やさないが。 それまでの会話の中で沈んでいたということでは全くないが、「いやぁ、そういう話するの好きなんだよなぁ。」とはにかむ彼は、「恋バナ」を持ちかけられた女子高生さながらにキュンキュン、ウキウキしているように見えた。 なるほど。 ワイナリーのホームページに「音楽」というセクションが存在し、そこには小西さんが愛するアーティストたちの楽曲のビデオクリップが埋め込まれている。何の説明もないと非常に奇妙に映るが、そういうことだ。 リクオ、ハナレグミ、Ruben Gonzalez、真心ブラザーズ、YO-KING、Saienji、音楽に疎い私にとっては、凡そ聞いたことのないアーティストの名前が次々と発せられた。 ▲ 音楽の話になった途端、表情が変わる。瞳が若返る。声が音色を帯びてくる。 半ば呆然としていると、小西さんは自身のミュージック・ステーションで下車し、どこかへ行ってしまった。 「音楽が本当に大好きで、音楽に本当に救われて生きてきたような感じで、自分自身でも東京にいた時代にバンドをやっていましたし。」 音楽というものは、それを浴びるように聴いていた当時の気持ちや境遇をそっくりそのままフリーズドライするような機能を持っている。 特定の楽曲を聴いてしまうと、陰惨な気分になって急に胃に鉛を詰め込まれたような感覚を覚えたり、反対に体が軽くなって、普段は目もくれない空を仰いだり、抗うことのできない時間旅行を迫られる。 嬉々として、自身と音楽との関係性を語り始めた小西さんは、脳内で何かの楽曲を再生しながら目まぐるしいタイムスリップの旅に出た。彼が目の当たりにした旅の情景に併せて語られる内容や展開に脈絡や道しるべがないものかと探したが、どうにも見当たらない。そういえばあるタイプの楽曲の歌詞というのは、ピースを組み合わせるような構造ではなくて、ぐしゃっとしたナンセンスの集合から何かがにおい立つようなあり方をしていたりもする、ような気がする。 高校1年生の文化祭、ラフィンノーズ(laughin'nose)のコピーをやっていた先輩のステージに衝撃を受けた話。 当時砂糖水で髪を固め、パーマ液で頭皮を痛めつけていたイギリスのパンクバンドの影響を受けたがゆえに、毛穴に甚大なダメージをうけた話。 ラテン系音楽のファンの友人に誘われて行ったライブの最中、ステージに招かれて壇上の女性ダンサーと一緒に踊るように促されたが、素人だったためにふにゃふにゃとしかダンスが出来ず、それを契機にサルサバーでダンスを練習した話。 東京時代に墨田区の河川敷でコンガを叩いて練習していたら、通行人に石を投げられて、そいつを必死で追いかけた話。 北海道に来た途端、コンガを叩くのをすっかりやめてしまって、今は物置台になっている話。 『迷走王BORDER』で増毛材をつけて、ボブ・マーレーの「LIVE!!」を歌う主人公蜂須賀が好きで、レゲエ音楽も好きになった話。 私が唯一理解可能であった『BORDER』より言葉を借りるならば、「無為こそ、過激」ということになるのだろうか。 BLUE...

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北海道・余市 モンガク谷ワイナリー

北海道・余市 モンガク谷ワイナリー

日本ワインコラム |北海道・余市 モンガク谷ワイナリー それは、まるで宮崎駿のアニメのような、そんな光景だ。そこには、2haに及ぶフランス系品種7種が植樹されている葡萄畑、斜面の高台には放牧場。道路を挟んで向かいには、築100年近い札幌軟石の蔵を移築するかたちで瀟洒な醸造蔵が備えられている。北東向きの緩やかな斜面の上部からは、余市市街と海が臨まれ、風車がないだけで、ほとんど風の谷である。 埼玉県出身の木原茂明さんが北海道に魅せられたのは学生時代のことだ。 ▲ モンガク谷は余市・仁木地区でも最も高標高のワイナリー。余市市街や日本海を見下ろす絶景が広がる。 ▲ 敷地内には溜池も。胡桃(くるみ)の木の根元あたりから湧き出る水を貯めこんでいる。中では、魚も暮らしているそうだ。 当初は親元を離れたい、自分のことを誰も知らない環境で一からリスタートしてみたい。そういった思いもあって北海道の大学を選びました。学生生活の中で土地に魅せられ、10年サラリーマンをしたら、北海道に定住して田舎暮らしをする。」と就職活動前には決めていました。その後東京で就職をして、途中から北海道転勤の希望がかなったので結局13年間働きましたが、その後退職し余市への移住をしました。 ▲ 胡桃(くるみ)の木。開墾した葡萄畑のみならず、この土地が自然の恵みに富んでいることを象徴するように、活き活きと枝を伸ばす。 ここは元々ウィスキー会社が所有していた土地で、15年間手つかずのまま荒れ放題になっていました。人工林に覆われ密封されたような、陽か陰かで言えば陰の土地だったのですが、ここに立った時のインスピレーションで購入を決めました。追って人工林が伐採の適齢だったとわかり、それらを取り除くと、地平線に海が現れて涼しい風がすっと吹き込んできたのです。 ▲ モンガク谷の素晴らしさの一つはホスピタリティ。葡萄畑を含む広大な敷地を表した手書きのマップなんて親切なアイテムもあります。 新海誠演出風の景色の展開がありありと瞼の裏に浮かぶのは私だけだろうか。 景色は開けたが、15年もの間放置されていた11haの荒地。土地を取得した2011年は整地とゴミ拾い排水路の整備に丸々費やされた。葡萄の植樹を開始したのは翌年の2012年。植栽品種は、シャルドネ、ピノノワール、ピノタージュ、ピノグリ、ピノブラン、ソーヴィニヨンブラン、ゲウュルツトラミネールの7種類。 「高校に行くか料理人の道に行くか迷ったほど」に料理に情熱を抱いている木原さんは、出汁を組み合わせることによって深みのある味わいを実現する日本料理に着想を得て、複数の葡萄品種を混醸する醸造方法にたどり着いた。 原料出荷農家としてやっていくことを基本として考えていて、万が一ワイナリーができたらなぁと思っていました。無農薬からスタートして、地元の先輩に反対されたのですけど。初収穫のブドウを原料出荷農家として出荷したら、本当にお小遣いにしかならない。最終製品まで作り上げようという結論に至り、10Rワイナリーでの委託醸造を開始しました。 無農薬で栽培を始めたのは、木原さんが低投入・低環境負荷・不耕起草生栽培を目指しているためだ。2020年からは散布農薬は全てオーガニック認定品だが、堆肥等も自身で手配した自然な物にこだわっている。葡萄の樹の周辺には積丹雲丹の漁師さんから貰った雲丹の殻が風化して、パラパラと細かい欠片となっている。 ▲ 葡萄の根元には雲丹の殻の欠片がこんもりと撒かれている。風化が早く、土壌へのミネラルの供給に優れた天然肥料。 最初は土作りの名人を目指していたんですけど、手の届かない達人がいて諦めました。それがミミズです。元気のない木の周辺にミミズを撒くということを何年も実施しています。 そういった"エコでやさしい"栽培によって造られた葡萄は、 築100年を超える札幌軟石の蔵を移築して建造されたワイナリーに送られる。 2018年に完成した醸造蔵は、斜面を利用したグラヴィティ・フローシステムを備えた木原さんが自慢とするところのものだ。2012年に葡萄を植樹した時から、万が一ワイナリーを持つのであれば、札幌軟石で作られた半地下の醸造蔵を持ちたいと願っていたそうだ。その念願が叶ったかたちとなる歴史を感じる建造物は、非常にひんやりと静謐な空気で満たされている。 10Rワイナリーでの委託醸造を行っていた際は1種類のワインのみを生産していたが、自社醸造設備を手に入れてからは、混醸する葡萄品種の組み合わせやパーセンテージの異なる4種のワインのリリースを開始した。 ▲ 蔵の1階部分には収穫のレセプションとプレス機が備えられている。そこから半地下のタンクへと重力で果汁を移していく。グラヴィティ・フローに関してディスクリプティヴな写真じゃないことが惜しい。 これまでは手探りで右も左も分からない中で何とかやってきました。2018年から、完全に独立をして、本当に自分ひとりで出来るのだろうかと、常に不安と向かい合いながら、目の前の課題に追われる3年間を過ごしてきました。なんとかやっていけそうかなという手応えを感じてきている状況のこの3年目で、年間1万本以上ボトリングできるかという課題。今後はもうちょっと遊び心を、心に余裕を持ちながら、味付けですとか匙加減を自分の作るワインで調整して感じ取っていきたい。...

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北海道・余市 モンガク谷ワイナリー

日本ワインコラム |北海道・余市 モンガク谷ワイナリー それは、まるで宮崎駿のアニメのような、そんな光景だ。そこには、2haに及ぶフランス系品種7種が植樹されている葡萄畑、斜面の高台には放牧場。道路を挟んで向かいには、築100年近い札幌軟石の蔵を移築するかたちで瀟洒な醸造蔵が備えられている。北東向きの緩やかな斜面の上部からは、余市市街と海が臨まれ、風車がないだけで、ほとんど風の谷である。 埼玉県出身の木原茂明さんが北海道に魅せられたのは学生時代のことだ。 ▲ モンガク谷は余市・仁木地区でも最も高標高のワイナリー。余市市街や日本海を見下ろす絶景が広がる。 ▲ 敷地内には溜池も。胡桃(くるみ)の木の根元あたりから湧き出る水を貯めこんでいる。中では、魚も暮らしているそうだ。 当初は親元を離れたい、自分のことを誰も知らない環境で一からリスタートしてみたい。そういった思いもあって北海道の大学を選びました。学生生活の中で土地に魅せられ、10年サラリーマンをしたら、北海道に定住して田舎暮らしをする。」と就職活動前には決めていました。その後東京で就職をして、途中から北海道転勤の希望がかなったので結局13年間働きましたが、その後退職し余市への移住をしました。 ▲ 胡桃(くるみ)の木。開墾した葡萄畑のみならず、この土地が自然の恵みに富んでいることを象徴するように、活き活きと枝を伸ばす。 ここは元々ウィスキー会社が所有していた土地で、15年間手つかずのまま荒れ放題になっていました。人工林に覆われ密封されたような、陽か陰かで言えば陰の土地だったのですが、ここに立った時のインスピレーションで購入を決めました。追って人工林が伐採の適齢だったとわかり、それらを取り除くと、地平線に海が現れて涼しい風がすっと吹き込んできたのです。 ▲ モンガク谷の素晴らしさの一つはホスピタリティ。葡萄畑を含む広大な敷地を表した手書きのマップなんて親切なアイテムもあります。 新海誠演出風の景色の展開がありありと瞼の裏に浮かぶのは私だけだろうか。 景色は開けたが、15年もの間放置されていた11haの荒地。土地を取得した2011年は整地とゴミ拾い排水路の整備に丸々費やされた。葡萄の植樹を開始したのは翌年の2012年。植栽品種は、シャルドネ、ピノノワール、ピノタージュ、ピノグリ、ピノブラン、ソーヴィニヨンブラン、ゲウュルツトラミネールの7種類。 「高校に行くか料理人の道に行くか迷ったほど」に料理に情熱を抱いている木原さんは、出汁を組み合わせることによって深みのある味わいを実現する日本料理に着想を得て、複数の葡萄品種を混醸する醸造方法にたどり着いた。 原料出荷農家としてやっていくことを基本として考えていて、万が一ワイナリーができたらなぁと思っていました。無農薬からスタートして、地元の先輩に反対されたのですけど。初収穫のブドウを原料出荷農家として出荷したら、本当にお小遣いにしかならない。最終製品まで作り上げようという結論に至り、10Rワイナリーでの委託醸造を開始しました。 無農薬で栽培を始めたのは、木原さんが低投入・低環境負荷・不耕起草生栽培を目指しているためだ。2020年からは散布農薬は全てオーガニック認定品だが、堆肥等も自身で手配した自然な物にこだわっている。葡萄の樹の周辺には積丹雲丹の漁師さんから貰った雲丹の殻が風化して、パラパラと細かい欠片となっている。 ▲ 葡萄の根元には雲丹の殻の欠片がこんもりと撒かれている。風化が早く、土壌へのミネラルの供給に優れた天然肥料。 最初は土作りの名人を目指していたんですけど、手の届かない達人がいて諦めました。それがミミズです。元気のない木の周辺にミミズを撒くということを何年も実施しています。 そういった"エコでやさしい"栽培によって造られた葡萄は、 築100年を超える札幌軟石の蔵を移築して建造されたワイナリーに送られる。 2018年に完成した醸造蔵は、斜面を利用したグラヴィティ・フローシステムを備えた木原さんが自慢とするところのものだ。2012年に葡萄を植樹した時から、万が一ワイナリーを持つのであれば、札幌軟石で作られた半地下の醸造蔵を持ちたいと願っていたそうだ。その念願が叶ったかたちとなる歴史を感じる建造物は、非常にひんやりと静謐な空気で満たされている。 10Rワイナリーでの委託醸造を行っていた際は1種類のワインのみを生産していたが、自社醸造設備を手に入れてからは、混醸する葡萄品種の組み合わせやパーセンテージの異なる4種のワインのリリースを開始した。 ▲ 蔵の1階部分には収穫のレセプションとプレス機が備えられている。そこから半地下のタンクへと重力で果汁を移していく。グラヴィティ・フローに関してディスクリプティヴな写真じゃないことが惜しい。 これまでは手探りで右も左も分からない中で何とかやってきました。2018年から、完全に独立をして、本当に自分ひとりで出来るのだろうかと、常に不安と向かい合いながら、目の前の課題に追われる3年間を過ごしてきました。なんとかやっていけそうかなという手応えを感じてきている状況のこの3年目で、年間1万本以上ボトリングできるかという課題。今後はもうちょっと遊び心を、心に余裕を持ちながら、味付けですとか匙加減を自分の作るワインで調整して感じ取っていきたい。...

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日本ワインコラム~北海道・余市 ル・レーヴ・ワイナリー

日本ワインコラム~北海道・余市 ル・レーヴ・ワイナリー

日本ワインコラム | 北海道・余市 ル・レーヴ・ワイナリー 「たとえば余市には、たくさん素晴らしいワイナリーがあるのですが、醸造所のみがある場合が多いですよね。 自分がやるときにはそうではなくて、必ずワイナリーで自分のワインが飲めて、景色を楽しめる場所にしたいと思いました。」 ▲ 南から北へと流れる余市川。ル・レーヴ・ワイナリーはその左岸、川のすぐ隣に位置する南向きの斜面上に畑を所有している。 北海道余市仁木町旭台。 大手ウヰスキー工場へ流れ込み、鮎の北限たる余市川の左岸の段丘上に「ル・レーヴ ワイナリー」は位置している。葡萄の栽培に絶好と言える南向きの斜面には2.2haの葡萄畑が広がり、その斜面の麓にはインダストリアルな外観の瀟酒な建築物、その目の前には安らぎを感じるようなブリティッシュガーデンが広がっている。建物の内部には、自社製造のワインや趣向の凝らされたセイボリータルト、ケーク・サレ、キッシュなどを味わうことのできるカフェ、素泊まりで利用が可能な1組2名限定の宿泊施設が設けられている。 「お洒落」なんて語彙の貧困を露呈するような言葉を用いるのは極めて忍びないが、そう言わざるを得ない。カッコいい。ゴテゴテしない在り方で、洗練されたあり方で。 ▲ ル レーヴ ワイナリー 代表の本間裕康さん。日本でハットを被る唯一のVigneronだ。 代表である本間祐康さんがワイナリーを興したのは2015年。とは言っても、それは土地を造成し苗植えを行った年だ。2018年にカフェ兼ゲストルーム兼醸造場を建設し、自社での醸造を始めたのが2020年ヴィンテージからである。つまり新しいワイナリーだということだ。 だからこの新しさに対して、お客様を迎える設備の完成度、ホスピタリティといったらいいのか、それらに異常性を感じるのである。だってそんなワイナリーないですよ。前述を振り返れば、周辺にはより農家的というか、牧歌的である種素朴な「風景」が広がっている。大きな資本のワイナリーであれば、そういった設計はあるいは可能かもしれないけれど、個人経営でここに到達しているのは、やっぱり変である。 ▲ ワイナリー内カフェ横では、オリジナルのアクセサリーも販売されている。中々こんな個人でこんなことまでやってしまうワイナリーはないですよね。 元々20代の頃からワインが好きで、妻と一緒に国内や海外のワイナリーを訪問したり、そのうち栽培や醸造にも興味を持つようになりました。 私もワイン好きである。ワインが好きであって、ワインを作るなら私はワインを作ることのみをおこなうだろう。擁護という文脈でもないけれど、ワインを作ることはとてもハードなことだ。農作業で忙しい、醸造作業に手が離せない。そういったことが普通であるし、そういうものだ。それをああだこうだいう気はない 例えば多くのワイナリーがそうであるように、もし宿泊、飲食というものを可能性として考えていたとして、それはずっと先に見据えるところのものだ。いつかやります。 だが、本間さんはちょっと違う。 自分たちがワイン好きで旅行した時に欲しいと思っていたもの、広大なブドウ畑を眺めながらお客様にゆったりとくつろいで頂ける空間やゲストルームなど、自分たちがあったらいいなと思っていたものを少しずつ実現しています。 これはホームページの言葉だが、ワイン好きであるということは、単にボトルを開けてワインを飲むことが好きということにとどまらない。それは本間さんご夫婦がかつてしていたように、ワイナリーを訪ね、ワインを飲みながら景色や料理を楽しみ、ひいてはその地域を知るような営みのことを指す。だからワインを作るだけでなく、ワインを楽しむ際にあるその周辺までも、まだ黎明期と言える今の段階で作り上げているのだ。 ▲ 廃墟趣味を満たしてくれるブルドザー。錆と緑の組み合わせは堪らないですよね、わかってらっしゃる。 そこまで日本ワインには詳しくなかったのですが、クリサワブランを飲んで、日本でもそんなワインを作ることができるのかと衝撃を受けました。その後、異業種からワインを作り始めた方が多く出てきていることを知り、自分にもできるかもしれないと思いました。...

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日本ワインコラム~北海道・余市 ル・レーヴ・ワイナリー

日本ワインコラム | 北海道・余市 ル・レーヴ・ワイナリー 「たとえば余市には、たくさん素晴らしいワイナリーがあるのですが、醸造所のみがある場合が多いですよね。 自分がやるときにはそうではなくて、必ずワイナリーで自分のワインが飲めて、景色を楽しめる場所にしたいと思いました。」 ▲ 南から北へと流れる余市川。ル・レーヴ・ワイナリーはその左岸、川のすぐ隣に位置する南向きの斜面上に畑を所有している。 北海道余市仁木町旭台。 大手ウヰスキー工場へ流れ込み、鮎の北限たる余市川の左岸の段丘上に「ル・レーヴ ワイナリー」は位置している。葡萄の栽培に絶好と言える南向きの斜面には2.2haの葡萄畑が広がり、その斜面の麓にはインダストリアルな外観の瀟酒な建築物、その目の前には安らぎを感じるようなブリティッシュガーデンが広がっている。建物の内部には、自社製造のワインや趣向の凝らされたセイボリータルト、ケーク・サレ、キッシュなどを味わうことのできるカフェ、素泊まりで利用が可能な1組2名限定の宿泊施設が設けられている。 「お洒落」なんて語彙の貧困を露呈するような言葉を用いるのは極めて忍びないが、そう言わざるを得ない。カッコいい。ゴテゴテしない在り方で、洗練されたあり方で。 ▲ ル レーヴ ワイナリー 代表の本間裕康さん。日本でハットを被る唯一のVigneronだ。 代表である本間祐康さんがワイナリーを興したのは2015年。とは言っても、それは土地を造成し苗植えを行った年だ。2018年にカフェ兼ゲストルーム兼醸造場を建設し、自社での醸造を始めたのが2020年ヴィンテージからである。つまり新しいワイナリーだということだ。 だからこの新しさに対して、お客様を迎える設備の完成度、ホスピタリティといったらいいのか、それらに異常性を感じるのである。だってそんなワイナリーないですよ。前述を振り返れば、周辺にはより農家的というか、牧歌的である種素朴な「風景」が広がっている。大きな資本のワイナリーであれば、そういった設計はあるいは可能かもしれないけれど、個人経営でここに到達しているのは、やっぱり変である。 ▲ ワイナリー内カフェ横では、オリジナルのアクセサリーも販売されている。中々こんな個人でこんなことまでやってしまうワイナリーはないですよね。 元々20代の頃からワインが好きで、妻と一緒に国内や海外のワイナリーを訪問したり、そのうち栽培や醸造にも興味を持つようになりました。 私もワイン好きである。ワインが好きであって、ワインを作るなら私はワインを作ることのみをおこなうだろう。擁護という文脈でもないけれど、ワインを作ることはとてもハードなことだ。農作業で忙しい、醸造作業に手が離せない。そういったことが普通であるし、そういうものだ。それをああだこうだいう気はない 例えば多くのワイナリーがそうであるように、もし宿泊、飲食というものを可能性として考えていたとして、それはずっと先に見据えるところのものだ。いつかやります。 だが、本間さんはちょっと違う。 自分たちがワイン好きで旅行した時に欲しいと思っていたもの、広大なブドウ畑を眺めながらお客様にゆったりとくつろいで頂ける空間やゲストルームなど、自分たちがあったらいいなと思っていたものを少しずつ実現しています。 これはホームページの言葉だが、ワイン好きであるということは、単にボトルを開けてワインを飲むことが好きということにとどまらない。それは本間さんご夫婦がかつてしていたように、ワイナリーを訪ね、ワインを飲みながら景色や料理を楽しみ、ひいてはその地域を知るような営みのことを指す。だからワインを作るだけでなく、ワインを楽しむ際にあるその周辺までも、まだ黎明期と言える今の段階で作り上げているのだ。 ▲ 廃墟趣味を満たしてくれるブルドザー。錆と緑の組み合わせは堪らないですよね、わかってらっしゃる。 そこまで日本ワインには詳しくなかったのですが、クリサワブランを飲んで、日本でもそんなワインを作ることができるのかと衝撃を受けました。その後、異業種からワインを作り始めた方が多く出てきていることを知り、自分にもできるかもしれないと思いました。...

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