日本ワインコラム | 東北・山形 タケダワイナリー
「先代の幼少期の写真に既に収められていますから、樹齢は80年を超えると思います。」 ワイナリーの象徴でもある古木の話だ。
山形県上山市。電車が停まり、人が乗降する最低限のみを備えた「斎藤茂吉記念館前駅」より車で10分程。曇天と田園に上下を挟まれ異様な雰囲気を醸し出す「旧地方競馬場跡」に建てられた巨大な製薬工場を見送り、丘を登る。 眼下にはワイナリーや市街地を、彼方には蔵王連峰を望む東南向きの斜面上に、タケダワイナリーの自社畑が広がる。日照を遮るものはない。斜面上部には、リースリングやシャルドネなどの、比較的若い、垣根仕立ての欧州品種が植えられる。それを下から仰ぎ睨むように構えるのが、マスカット・ベーリーAの古木だ。
樹齢80年。幾多の山河で修行を重ねた武術の達人さながら、厳かな筋肉を纏った腕を空中にしならせるMBA老師は、落葉後という時期も手伝って、人を寄せ付けぬ雰囲気を醸し出す。現在「ドメイヌ・タケダ ベリーA 古木」として、タケダワイナリーを代表するキュベに数えられるこの品種は、ワイナリーの長い歴史を象徴する存在となっている。明治初期より、上山の地で商品作物の栽培を始めた武田家。それは「飲む、打つ、買う」と放蕩息子の三冠王だった庄屋の長男が、勘当されることに端を発する。何とも想定外。
そんな武田家がワイン製造に着手したのは3代目武田重三郎さんの代だ。
当時の物流技術から、商品作物の流通に限界を感じた重三郎さんが、日持ちのする加工品として目をつけたのがワインだった。 当時既にワインの製造を行っていた「酒井ワイナリー」をお手本として、1920年に果実酒醸造免許を取得し、「金星ブドウ酒」を発売した。重三郎さんは、その後農園を拡大、ワイン製造事業を強化していった。 その中で植えられたのが、MBA老師だった。
4代目の重信さんは、欧州へ渡り、そこでワイン醸造のノウハウや最新の設備を自分の脚で見て購入、輸入し、ワイン製造事業の拡大と土壌改良、そして欧州品種の栽培促進に着手した。 その中で、MBA老師の植え替えの提案もあったそうだが、食い下がったのが5代目の岸平典子さんだ。
樹齢が上がってもしっかりと果実をつけ続けるこの品種の地域への適性と、高樹齢であることの価値を主張し押し切った。 国内外でも非常に珍しいマスカット・ベーリーAの古木は、典子さんによってそのポテンシャルを引き出され、現在も唯一無二のワインとして、ボトリングされ続けている。
仕込み時期の訪問とあって「いつも忙しいのに、その10倍忙しい」ご様子であった岸平典子さん。2005年から、栽培・醸造責任者兼代表取締役社長を務める、タケダワイナリーの揺るがぬリーダーだ。 小柄で穏やかな佇まいを他所に、ワインに対する強い情熱を持つ彼女は、タケダワイナリーに多くの変革をもたらしてきた。そのルーツの一つには、20代で経験したフランスへの留学がある。
フランス映画が好きですね。それが高じて、フランスに渡航することを目論んでいたくらいで。
高校、大学と演劇部に所属し、文学や演劇、映画を愛する「文学少女」であった典子さん。ワイン醸造の勉強なら、フランスへの留学も許してもらえるだろう。そんな思いを実らせて、フランスへ発ち、20代の4年間をワインと共に過ごした。栽培・醸造の先端技術を学びながらも、自分の将来に具体的なヴィジョンを描いてはいなかった当初。そんな中で、数々の偉大な生産者との出会いが、典子さんの進む道を変える。
当初は特に何か将来の設計とかがあったわけではなかったのですが、実際その土地に根ざしてワイン造りをする方々に出会って『あ、これは私の一生の仕事にしよう』って思いました。 サンソニエール、二コラジョリー、まだ当時健在だったジョルジュ・ルーミエさんとか、そういう方々にあって刺激を受けてそう思ったのが最初の転機です。
ロワール地方におけるビオディナミ農法の二大巨塔、マルク・アンジェリとニコラ・ジョリー、そしてシャンボール・ミュジニーのトップ生産者ジョルジュ・ルーミエ。 あまりのビックネームに、状況を思い浮かべるのも困難であるが、当時まだ突飛で先進的だった彼らの思想や、彼らの造るワインの味わいが、典子さんのワイン造りに及ぼした影響は計り知れない。
帰国後は、実家のワイナリーにて父と兄の元、醸造と栽培に従事する日々が続いた。そんな中、次なる転機は、典子さんが渡仏する前にフランスで3年間ワインの製造を学び、家業を継ごうとしていた兄・伸一さんの急逝だった。
それまでは(タケダワイナリーで)栽培と醸造だけをやっていればよかったのですが、会社を背負わなければいけないとなった時に、自分のワイン造りに対しての関わり方とか姿勢、物の見方が変わりました。 それまでは『自分がやりたい、つくりたいものをつくる』という事が重要だと思っていましたが、今はそうではなく『継承されていく物づくりや、広い視野で消費者の顔を見て物をつくる』という事の大切さが 見えてきたような気がします。
広い視野でのワイン造り。それを構成するものの一つが徹底した選果作業と言えるだろう。
自社栽培、契約農家栽培と原料を問わず、腐敗果、未熟果、病気のついた果実を細やかに除外していく。
湿潤な気候の日本の土地で、欧州では先端的である化学薬品に依存しない醸造や、野生酵母での健全な発酵を実現するためには、この細やかな選果のプロセスは欠かせないが、 典子さんが主導する選果の検問は極めて厳しく、全体の20%にも上る収穫が不適合なものとして弾かれる。
一見、栽培農家のブドウを自己中心的にジャッジする狭量な視野のようにも見えるが、それが見当外れだということを、旧蔵王スターの驚異的な品質向上が証明してくれた。 当時1,200円という破格で販売されていたこのワインは、契約農家からのブドウで生産される、タケダワイナリーのベーシックライン。
選果に否定的だった先代が醸造栽培を取り仕切る中で、 典子さんが細やかな選別を経て手掛けた1タンクだけが別格の味わいを示した。 その雑味のないクリアな味わい、曇りのない透き通った質感は、確実に選果の重要性を物語り、先代を納得させるに至った。以降、先代に代わって醸造を一手に担った典子さんは、蔵王スターの品質を大きく底上げした。
また、その後にリリースされた亜硫酸を使用しない「サン・スフル」などは、消費者までを見据えた広い視野から生まれ、原料の厳格な品質管理があってこそ実現し、契約農家の収穫に大きな付加価値を与える ワイン造りの一つの結実と言える。
2020年に100周年を迎えるタケダワイナリーで、自身も栽培醸造責任者兼代表取締役社長としてキャリアを重ねてきた典子さん。常に山形県産ワインを、ひいては日本ワインを牽引してきた存在であるが、 その目は常に謙虚に先を見据えている。
ただ山形でどのような品種でワイン造りをしていくのかという道筋については、ついてきたと感じています。例えばマスカットベーリーA関しては古木の可能性を引き出せてきたと思います。 今までは蔵王スターに混ぜて使用していた事もあったのですが、樹齢が上がってそれを表現出来るようになりました。あとはカベルネ、メルロ、シャルドネについても山形で栽培する可能性が見えるような ワインは造れるようになってきています。ただそれをどういう風にブラッシュアップしていくのかにについては、まだまだ課題だらけですね。日本でのブドウ栽培、ワイン造りは私たちでもたかだか100年しかないので、 まだまだ出来る事は沢山あるように思います。今の課題は『香り』中心に考えています。次のステップはその香りの魅力を更に引き出せるような味わいだと思っています。
チェ・ゲバラ、アラファト、ネルソン・マンデラ、といった世界を変革する人物が活躍した動乱の時代に幼少~青年期を過ごし、自身の「小さい頃の夢」にも「革命家」を挙げた典子さん。
100年の歴史を持つタケダワイナリーに、多くの変革をもたらしてきた彼女が、今後どのような「進化」を遂げていくのか、私達は目を離すべきではないだろう。
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