日本ワインコラム
THE CELLAR ワイン特集大分・安心院葡萄酒工房
日本ワインコラム | 安心院葡萄酒工房 大分県北部宇佐市にある安心院(読み:あじむ)葡萄酒工房。早朝、別府から大分道を通って向かったところ、前日から降り続く雨の影響で濃霧の中をひた走ることになった。幻想的とも言えるし、怖いとも言える…聞くところによると、この道路は日本一悪天候による通行止めが多い高速だそう! しかし一転、安心院葡萄酒工房に着いて暫くすると、お天気は回復。晴れ間まで見せてくれた。さすが瀬戸内式気候の場所。九州の中では雨も少なく、年間1500ミリ程度で、特に4-8月までの雨量が少ないそうだ。 ▲ 山に囲まれた自然の中にある、まさに「杜のワイナリー」の安心院葡萄酒工房。 ▲ ゲートをくぐると別世界に来たような感覚に包まれる。 今回はこの場所で、安心院葡萄酒工房立ち上げから現在までワイナリー全般の業務を行っておられる岩下さんにお話しをお伺いした。 ▲ お父様が命名されたという「理法」という素敵なお名前を持つ岩下さん。「お寺とは何の関係もありません」と仰っておられたが、穏やかで真面目、実直なお人柄にzenを感じずにはいられない。名は体を現すということだろうか。 勝負に出た!量も質もあきらめない 50年を超えるワイン造りの歴史 宇佐市は、瀬戸内式気候で降雨量が少なく、長い間、農業を行う上で干ばつが問題となっていた。1960年代になると、国による農地開発事業で灌漑設備が導入され、その中で300-400ha程度の生食用ブドウ団地ができる。 安心院町でブドウが収穫できるようになると、安心院葡萄酒工房の母体である三和酒類(株)は1971年にワインの製造免許を取得、ワイン造りをスタートする。三和酒類(株)は日本酒の会社だが、名前を聞いてピンと来る読者もおられるだろう。同社は「下町のナポレオン」こと、「いいちこ」のメーカーだ。いいちこの会社がワイン⁉と驚かれる方も多いとは思うが、驚くのは早い。三和酒類のワイン造りはいいちこ製造よりも歴史が長いのだ! いいちこ工場がある隣町でのワイン醸造が続いたが、畑に隣接する場所でワイン醸造を行うべく、2001年に現在の場所に安心院葡萄酒工房が設立される。並行して、メルロ、シャルドネ、といったワイン用ブドウ品種を契約農家に栽培してもらった。また、自社の試験圃場での栽培を試行錯誤して続け、ついに2011年には自社農園の下毛圃場での栽培がスタートする。 ▲ ワイナリー内では、安心院葡萄酒工房の歴史やワインの製造過程を学べる展示や映像が用意されている。 ブドウの供給減vsワイン需要拡大 安心院葡萄酒では現在、自社農園、契約農家、JAからの3種類のブドウをほぼ同量使用してワインを製造している。 ワイナリー設立当時はデラウェアとマスカット・ベーリーAの2種類でワインを製造していたが、ここ最近は同品種の入荷量が減ってきている。単価が高いシャインマスカットに栽培を切り替える農家が急増したことや農家の高齢化による廃業といった問題が重なり、ブドウ生産量が減少傾向にあるのだ。一方で同社ワインの人気はうなぎのぼり。引き合いは強いが生産量が追い付かないという状況が続いていた。 ワイナリー設立当初こそ外国産原料も活用していたが、2006年からは、安心院町産ブドウのみを使った高品質ワインの製造に軸足を変えている。原料となるブドウ不足の深刻化。品質を維持向上しながら生産量を増やすためには、自社畑の拡張に踏み切るしかない。大きな勝負に出たのだ。 ▲ ワイナリーに隣接する下毛圃場は、安心院葡萄酒工房の中で最も歴史の長い自社畑だ。 拡大を続ける自社ブドウ畑 2011年に始まった自社農園。最初は広さ5haの下毛圃場に3.8ha植栽された。次に2018年から2020年にかけて、広さ10haの矢津圃場に5ha植栽。更に、2021年からは広さ15haの大見尾圃場への植え付けが始まった。来年までに7.2ha植栽される予定だと言う。農地面積は、農園開始時から現在までに3倍、2023年には6倍まで増加する(植栽面積は、それぞれ2倍強、4倍強の拡大規模)。 (左と中央)2018年から植栽を始めた矢津圃場。レインガードの着脱だけでかなりの時間と労力を要することから、矢津圃場と大見尾圃場ではレインガードは通年取り付けたままにしているそう。納得せざるを得ない広さだ。 (右)現在植栽を続けている大見尾圃場。矢津圃場も広いと感じたが、大見尾圃場は更に広く、圧巻の景色が広がる。...
大分・安心院葡萄酒工房
日本ワインコラム | 安心院葡萄酒工房 大分県北部宇佐市にある安心院(読み:あじむ)葡萄酒工房。早朝、別府から大分道を通って向かったところ、前日から降り続く雨の影響で濃霧の中をひた走ることになった。幻想的とも言えるし、怖いとも言える…聞くところによると、この道路は日本一悪天候による通行止めが多い高速だそう! しかし一転、安心院葡萄酒工房に着いて暫くすると、お天気は回復。晴れ間まで見せてくれた。さすが瀬戸内式気候の場所。九州の中では雨も少なく、年間1500ミリ程度で、特に4-8月までの雨量が少ないそうだ。 ▲ 山に囲まれた自然の中にある、まさに「杜のワイナリー」の安心院葡萄酒工房。 ▲ ゲートをくぐると別世界に来たような感覚に包まれる。 今回はこの場所で、安心院葡萄酒工房立ち上げから現在までワイナリー全般の業務を行っておられる岩下さんにお話しをお伺いした。 ▲ お父様が命名されたという「理法」という素敵なお名前を持つ岩下さん。「お寺とは何の関係もありません」と仰っておられたが、穏やかで真面目、実直なお人柄にzenを感じずにはいられない。名は体を現すということだろうか。 勝負に出た!量も質もあきらめない 50年を超えるワイン造りの歴史 宇佐市は、瀬戸内式気候で降雨量が少なく、長い間、農業を行う上で干ばつが問題となっていた。1960年代になると、国による農地開発事業で灌漑設備が導入され、その中で300-400ha程度の生食用ブドウ団地ができる。 安心院町でブドウが収穫できるようになると、安心院葡萄酒工房の母体である三和酒類(株)は1971年にワインの製造免許を取得、ワイン造りをスタートする。三和酒類(株)は日本酒の会社だが、名前を聞いてピンと来る読者もおられるだろう。同社は「下町のナポレオン」こと、「いいちこ」のメーカーだ。いいちこの会社がワイン⁉と驚かれる方も多いとは思うが、驚くのは早い。三和酒類のワイン造りはいいちこ製造よりも歴史が長いのだ! いいちこ工場がある隣町でのワイン醸造が続いたが、畑に隣接する場所でワイン醸造を行うべく、2001年に現在の場所に安心院葡萄酒工房が設立される。並行して、メルロ、シャルドネ、といったワイン用ブドウ品種を契約農家に栽培してもらった。また、自社の試験圃場での栽培を試行錯誤して続け、ついに2011年には自社農園の下毛圃場での栽培がスタートする。 ▲ ワイナリー内では、安心院葡萄酒工房の歴史やワインの製造過程を学べる展示や映像が用意されている。 ブドウの供給減vsワイン需要拡大 安心院葡萄酒では現在、自社農園、契約農家、JAからの3種類のブドウをほぼ同量使用してワインを製造している。 ワイナリー設立当時はデラウェアとマスカット・ベーリーAの2種類でワインを製造していたが、ここ最近は同品種の入荷量が減ってきている。単価が高いシャインマスカットに栽培を切り替える農家が急増したことや農家の高齢化による廃業といった問題が重なり、ブドウ生産量が減少傾向にあるのだ。一方で同社ワインの人気はうなぎのぼり。引き合いは強いが生産量が追い付かないという状況が続いていた。 ワイナリー設立当初こそ外国産原料も活用していたが、2006年からは、安心院町産ブドウのみを使った高品質ワインの製造に軸足を変えている。原料となるブドウ不足の深刻化。品質を維持向上しながら生産量を増やすためには、自社畑の拡張に踏み切るしかない。大きな勝負に出たのだ。 ▲ ワイナリーに隣接する下毛圃場は、安心院葡萄酒工房の中で最も歴史の長い自社畑だ。 拡大を続ける自社ブドウ畑 2011年に始まった自社農園。最初は広さ5haの下毛圃場に3.8ha植栽された。次に2018年から2020年にかけて、広さ10haの矢津圃場に5ha植栽。更に、2021年からは広さ15haの大見尾圃場への植え付けが始まった。来年までに7.2ha植栽される予定だと言う。農地面積は、農園開始時から現在までに3倍、2023年には6倍まで増加する(植栽面積は、それぞれ2倍強、4倍強の拡大規模)。 (左と中央)2018年から植栽を始めた矢津圃場。レインガードの着脱だけでかなりの時間と労力を要することから、矢津圃場と大見尾圃場ではレインガードは通年取り付けたままにしているそう。納得せざるを得ない広さだ。 (右)現在植栽を続けている大見尾圃場。矢津圃場も広いと感じたが、大見尾圃場は更に広く、圧巻の景色が広がる。...
北海道・余市 木村農園
日本ワインコラム |北海道・余市 木村農園 日本のピノ・ノワールの第一人者。そう言っても過言ではない。今でこそ、余市町のピノ・ノワールの知名度は高いが、木村農園は、栽培が難しいとされるピノ・ノワールを黎明期からずっと育て続けてきた。その質の高さに魅了され、余市町でピノ・ノワールを栽培する農家やワイナリーが増加。今では余市の代表的な品種の一つとなり、国内外から熱い視線が送られている。今回は、その木村農園で先代と共にピノ・ノワールの栽培を続けてこられた木村幸司さんにお話しを伺った。 ▲ 木村農園3代目の木村幸司さん。 美しい畑を闊歩する 北海道西部、積丹半島の付け根に位置する余市町。余市湾を眺めるように、なだらかな丘陵地にブドウ畑が広がる。木村農園は余市湾から少し内陸に進んだ場所に位置する。穏やかな起伏が連続する畑は適度な傾斜があり、心地のよい風が常時吹き抜ける。丘に広がる一枚畑の広さは8.5ha。見渡す限りのブドウ畑が美しい。 ▲ 広大で美しい、圧巻の畑。 ▲ 毎日歩いておられるからか、木村さんは「そんな急斜面でもないですよ」と仰られたが、畑を登っていくと少し息が上がるようなスロープが続くところも。 暖流の対馬海流の影響で、道内では比較的温暖な気候を誇る余市町。この温暖な気候を活かし、明治時代から果樹の栽培が盛んな土地だ。木村農園は、木村さんのお祖父様の代からこの地でリンゴを中心に、サクランボ、梨、プラム、生食用ブドウの栽培を稼業としてきた。しかし、2代目となるお父様が農園を切り盛りしていた1970年代からリンゴ価格が暴落。この危機を乗り越えようと、近隣農家7人で一念発起し、ワイン用ブドウの栽培を開始した(→詳細はこちら「安藝農園」から)。木村農園には、隣の農家の藤本氏から「リンゴ、切れるか?」と声がかかったそうだ。農園がある場所は、土壌・気温・風の通り、どれをとっても果樹の栽培に適した場所。それはワイン用ブドウにとっても同じだった。畑は斜面にあるので冷気もたまらず、霜の被害もない。通常であれば、収穫後、ブドウの葉は落葉するが、畑の中には冬でも雪と共に青々とした葉を付け続ける木もあるというのだから驚きだ。 1984年、最初に植えたのはケルナー。続く1985年に植えたのがピノ・ノワール。当時広さ50aだった畑の6割を占めたケルナーは、今も古木として現役だ。また、当時植えた古木のピノ・ノワールも現存している。現在は、それらに加え、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを合わせた5種類を栽培している。育てたブドウは、千歳ワイナリー、ココ・ファーム・ワイナリーの2社を中心に提供し、残る小ロットをスポットで他のワイナリーに卸すこともあるそう。 ▲ ブドウが色付く姿に見惚れて足が止まってしまう。 恩義を決して忘れない 7軒でスタートした余市でのワイン用ブドウの栽培は、現在は50軒まで成長。北海道の中でも群を抜いてトップクラスの収穫量を誇る。また、2010年以前は1社だったワイナリーの数も、今は15軒まで増加。とは言え、小規模のワイナリーが多く、余市で生産されるブドウの多くは道外を含む他地域に卸されている。この現状を木村さんはどう思っているのか、率直に聞いてみた。やはり手塩にかけて育てたブドウなのだから、近くでワインになってほしいと思っているのだろうと思っていたが、意外にも「外に出るブドウも必要」と即答された。 インタビューを通じて感じてきたが、木村さんはとても義理堅い。常にワイナリーとの関係を第一に考えておられる。木村農園を含めた7軒がワイン用ブドウの試験栽培を始めたのが1983年。7軒が協力して最初に契約したのが、はこだてわいん。苗木を植え、3-4年で目標とする生産量をオーバーしたのだ。果樹栽培の経験があったとは言え、こんな短期間で目標を超えるとは・・・凄い技術力だし、何よりも気迫を感じる。嬉しい悲鳴ではあるものの、余ったブドウを何とかしなければならない。7軒それぞれが契約先を開拓する中、木村農園が契約することになったのが千歳ワイナリー(当時:中央葡萄酒)だった。千歳ワイナリーから栽培を頼まれたのはピノ・ノワールだったが、木村農園からお願いしてケルナーも合わせて契約してもらった。1990年代からずっと続く関係だ。 木村さんが先代から経営移譲されたのは2008年。その年は、今まででベストと言える高品質なピノ・ノワールを収穫できたこともあり、強く記憶に残っている。それまでは、需要はあるもののブドウの品質が追い付いていないという不安感があった。果たしてこれを売っていいのだろうか、と。日照量や積算温度が足りないことから未熟なブドウが多かった。1985年にピノ・ノワールを植えたのは、木村農園だけではない。他にも何軒かあったのだ。ピノ・ノワールは皮が薄く病気に弱い。また、他の品種に比べて、気温や土壌環境等の生育環境を選ぶこともあり、栽培が難しいと言われる品種だ。何軒かでスタートしたピノ・ノワールの栽培だったが、一軒また一軒と栽培を辞める農家が増え、木村農園だけが残ったのだ。植え始めて20年の歳月をかけて、漸く納得のいくものができた。その達成感、高揚感、安堵感・・・想像するだけで涙がでそうだ。 仲間が次々とピノ・ノワールから離れる一方、自分の手元にあるのは未熟なブドウという現実。どれだけ不安だっただろうか。その時、隣で伴奏してくれたのが千歳ワイナリーだった。本当の意味で苦楽を共にしているからこそ、強い絆がある。そして恩義もある。千歳ワイナリーでは、木村農園のピノ・ノワールとケルナーで造られるワインを、メインブランド「北ワイン」として販売している。同社が契約する農家は木村農園だけ。ここまで太い関係が築かれているのは、強い信頼関係があるからこそだ。 ▲ 千歳ワイナリーホームページより。KIMURA VINEYARDの文字がしっかりと刻まれるエチケット。 千歳ワイナリーとの二人三脚でピノ・ノワールとケルナーを世に出してきた木村農園。その品質の高さは徐々に周りの目に留まることになる。現在のもう一つの主な契約先であるココ・ファーム・ワイナリーがその一つだ。同社との契約ができてから、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを追加で植えるようになった。同社にはピノ・ノワールも卸している。ココ・ファーム・ワイナリーと契約を結ぶ前は、畑のスペースも余っていたこともあり、ワイナリー立ち上げを検討した時期があったそうだ。しかし、今は畑の90%は契約ブドウ。そのブドウの栽培だけで手一杯。木村さんを含め家族5人で管理しているとは言え、8.5haはかなり広大な土地だ。契約相手に対する恩義を忘れない。その為にもワイナリーに最高の品質のブドウを届けることを第一に考える。 「ワイナリーがいらないと言うまで作り続けたい」 そう仰った木村さん。プロとしての気概が伝わってくる。 ただ指をくわえて待っていた訳ではない~マサル・セレクションを取り入れる 20年かけてようやく納得のいくピノ・ノワールになったという木村さん。確かに地球温暖化の影響で、余市町も気温が上がり、ピノ・ノワールを育てる上で適温地になってきたという側面はある。しかし、高品質なピノ・ノワールが生まれる理由はそれだけではない。温暖化による影響よりも、木村さんが地道に続けてきたことこそが、品質向上にとっては重要な要素だったのだ。尚、同じタイミングに植え始めたケルナーにとっては、逆に今後は厳しい環境になることが想定される。これまで古くなってきた畑は補植して対応してきたが、改植も視野に入れているそうだ。...
北海道・余市 木村農園
日本ワインコラム |北海道・余市 木村農園 日本のピノ・ノワールの第一人者。そう言っても過言ではない。今でこそ、余市町のピノ・ノワールの知名度は高いが、木村農園は、栽培が難しいとされるピノ・ノワールを黎明期からずっと育て続けてきた。その質の高さに魅了され、余市町でピノ・ノワールを栽培する農家やワイナリーが増加。今では余市の代表的な品種の一つとなり、国内外から熱い視線が送られている。今回は、その木村農園で先代と共にピノ・ノワールの栽培を続けてこられた木村幸司さんにお話しを伺った。 ▲ 木村農園3代目の木村幸司さん。 美しい畑を闊歩する 北海道西部、積丹半島の付け根に位置する余市町。余市湾を眺めるように、なだらかな丘陵地にブドウ畑が広がる。木村農園は余市湾から少し内陸に進んだ場所に位置する。穏やかな起伏が連続する畑は適度な傾斜があり、心地のよい風が常時吹き抜ける。丘に広がる一枚畑の広さは8.5ha。見渡す限りのブドウ畑が美しい。 ▲ 広大で美しい、圧巻の畑。 ▲ 毎日歩いておられるからか、木村さんは「そんな急斜面でもないですよ」と仰られたが、畑を登っていくと少し息が上がるようなスロープが続くところも。 暖流の対馬海流の影響で、道内では比較的温暖な気候を誇る余市町。この温暖な気候を活かし、明治時代から果樹の栽培が盛んな土地だ。木村農園は、木村さんのお祖父様の代からこの地でリンゴを中心に、サクランボ、梨、プラム、生食用ブドウの栽培を稼業としてきた。しかし、2代目となるお父様が農園を切り盛りしていた1970年代からリンゴ価格が暴落。この危機を乗り越えようと、近隣農家7人で一念発起し、ワイン用ブドウの栽培を開始した(→詳細はこちら「安藝農園」から)。木村農園には、隣の農家の藤本氏から「リンゴ、切れるか?」と声がかかったそうだ。農園がある場所は、土壌・気温・風の通り、どれをとっても果樹の栽培に適した場所。それはワイン用ブドウにとっても同じだった。畑は斜面にあるので冷気もたまらず、霜の被害もない。通常であれば、収穫後、ブドウの葉は落葉するが、畑の中には冬でも雪と共に青々とした葉を付け続ける木もあるというのだから驚きだ。 1984年、最初に植えたのはケルナー。続く1985年に植えたのがピノ・ノワール。当時広さ50aだった畑の6割を占めたケルナーは、今も古木として現役だ。また、当時植えた古木のピノ・ノワールも現存している。現在は、それらに加え、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを合わせた5種類を栽培している。育てたブドウは、千歳ワイナリー、ココ・ファーム・ワイナリーの2社を中心に提供し、残る小ロットをスポットで他のワイナリーに卸すこともあるそう。 ▲ ブドウが色付く姿に見惚れて足が止まってしまう。 恩義を決して忘れない 7軒でスタートした余市でのワイン用ブドウの栽培は、現在は50軒まで成長。北海道の中でも群を抜いてトップクラスの収穫量を誇る。また、2010年以前は1社だったワイナリーの数も、今は15軒まで増加。とは言え、小規模のワイナリーが多く、余市で生産されるブドウの多くは道外を含む他地域に卸されている。この現状を木村さんはどう思っているのか、率直に聞いてみた。やはり手塩にかけて育てたブドウなのだから、近くでワインになってほしいと思っているのだろうと思っていたが、意外にも「外に出るブドウも必要」と即答された。 インタビューを通じて感じてきたが、木村さんはとても義理堅い。常にワイナリーとの関係を第一に考えておられる。木村農園を含めた7軒がワイン用ブドウの試験栽培を始めたのが1983年。7軒が協力して最初に契約したのが、はこだてわいん。苗木を植え、3-4年で目標とする生産量をオーバーしたのだ。果樹栽培の経験があったとは言え、こんな短期間で目標を超えるとは・・・凄い技術力だし、何よりも気迫を感じる。嬉しい悲鳴ではあるものの、余ったブドウを何とかしなければならない。7軒それぞれが契約先を開拓する中、木村農園が契約することになったのが千歳ワイナリー(当時:中央葡萄酒)だった。千歳ワイナリーから栽培を頼まれたのはピノ・ノワールだったが、木村農園からお願いしてケルナーも合わせて契約してもらった。1990年代からずっと続く関係だ。 木村さんが先代から経営移譲されたのは2008年。その年は、今まででベストと言える高品質なピノ・ノワールを収穫できたこともあり、強く記憶に残っている。それまでは、需要はあるもののブドウの品質が追い付いていないという不安感があった。果たしてこれを売っていいのだろうか、と。日照量や積算温度が足りないことから未熟なブドウが多かった。1985年にピノ・ノワールを植えたのは、木村農園だけではない。他にも何軒かあったのだ。ピノ・ノワールは皮が薄く病気に弱い。また、他の品種に比べて、気温や土壌環境等の生育環境を選ぶこともあり、栽培が難しいと言われる品種だ。何軒かでスタートしたピノ・ノワールの栽培だったが、一軒また一軒と栽培を辞める農家が増え、木村農園だけが残ったのだ。植え始めて20年の歳月をかけて、漸く納得のいくものができた。その達成感、高揚感、安堵感・・・想像するだけで涙がでそうだ。 仲間が次々とピノ・ノワールから離れる一方、自分の手元にあるのは未熟なブドウという現実。どれだけ不安だっただろうか。その時、隣で伴奏してくれたのが千歳ワイナリーだった。本当の意味で苦楽を共にしているからこそ、強い絆がある。そして恩義もある。千歳ワイナリーでは、木村農園のピノ・ノワールとケルナーで造られるワインを、メインブランド「北ワイン」として販売している。同社が契約する農家は木村農園だけ。ここまで太い関係が築かれているのは、強い信頼関係があるからこそだ。 ▲ 千歳ワイナリーホームページより。KIMURA VINEYARDの文字がしっかりと刻まれるエチケット。 千歳ワイナリーとの二人三脚でピノ・ノワールとケルナーを世に出してきた木村農園。その品質の高さは徐々に周りの目に留まることになる。現在のもう一つの主な契約先であるココ・ファーム・ワイナリーがその一つだ。同社との契約ができてから、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを追加で植えるようになった。同社にはピノ・ノワールも卸している。ココ・ファーム・ワイナリーと契約を結ぶ前は、畑のスペースも余っていたこともあり、ワイナリー立ち上げを検討した時期があったそうだ。しかし、今は畑の90%は契約ブドウ。そのブドウの栽培だけで手一杯。木村さんを含め家族5人で管理しているとは言え、8.5haはかなり広大な土地だ。契約相手に対する恩義を忘れない。その為にもワイナリーに最高の品質のブドウを届けることを第一に考える。 「ワイナリーがいらないと言うまで作り続けたい」 そう仰った木村さん。プロとしての気概が伝わってくる。 ただ指をくわえて待っていた訳ではない~マサル・セレクションを取り入れる 20年かけてようやく納得のいくピノ・ノワールになったという木村さん。確かに地球温暖化の影響で、余市町も気温が上がり、ピノ・ノワールを育てる上で適温地になってきたという側面はある。しかし、高品質なピノ・ノワールが生まれる理由はそれだけではない。温暖化による影響よりも、木村さんが地道に続けてきたことこそが、品質向上にとっては重要な要素だったのだ。尚、同じタイミングに植え始めたケルナーにとっては、逆に今後は厳しい環境になることが想定される。これまで古くなってきた畑は補植して対応してきたが、改植も視野に入れているそうだ。...
北海道・余市 中井観光農園
日本ワインコラム | 北海道・余市 中井観光農園 北海道余市町にある観光農園。道路から敷地に入ると売店があり、その奥に進むと様々な果樹が植わっている。美味しそうな果物だなぁ・・・と涎を我慢して畑を進むと、穏やかな丘に整然と並ぶブドウの木がパーっと広がる。そしてその先に見えるのが青い海と印象的なシリパ半島。吸い込まれるような景色だ。 ▲ (左)看板の後ろにはブドウ畑。そして、その奥の方には、シリパ岬と海が見える。, (右)中井観光農園の売店。中にはワインやジュース、ジャム、季節の果物等が販売されている。 今回お邪魔したのは、中井観光農園の中井淳さん。息子さんの瑞葵さんにもお話を伺った。余市のワイン産地としての歴史は40年程前に遡るが、中井さんのお父様は、余市でワイン用ブドウの栽培を大々的に手掛けた7人の内の1人だ。現在、ワイン用ブドウは5haの栽培面積にまで増え、リンゴやサクランボ等の果樹を含め、計8haの畑を管理されている。 先代達から受け継いだ畑を守り続けて 中井さんは4代目。代々続く果樹園には、リンゴやサクランボ、プルーン、梨、プラム、ネクタリン、生食用ブドウ等が植わっている。観光農園として運営していることもあり、小さな子供から大人までお客様が出入りする。特に夏から秋にかけては、たわわに実ったフルーツを収穫して頬張る人の姿が見られる場所だ。その場所にワイン用ブドウが植えられたのは、中井さんの先代から。1970年代頃からリンゴ価格の大暴落が起こり、余市の若手農家7人がワイン用ブドウに活路を見出したのだ(→詳細はこちら「安藝農園」から)。その歴史を物語る様に、畑には37~38年前に植えられたケルナーの古木もある。 ▲ 左から生食用ブドウ、梨、プルーン。生食用ブドウの「旅路」という名前に心がくすぐられる。 余市町は、暖流の対馬海流の影響もあり、道内では比較的温暖だ。この温暖な気候の恩恵を受け、古くから果樹栽培が行われてきた。比較的温暖とは言え、そこは北海道。冬は寒く雪深いので、ブドウの樹を凍害から守る必要がある。そこで、余市では、古くから雪の重さで枝が折れないようにブドウの植付け角度を斜めにする工夫がなされている。それだけではない。秋の収穫後、厳寒期を迎える前の短い期間に、木をワイヤーから外して地面に寝かしつける必要がある。ブドウの木の上に雪が積ることで、枝折れや雪布団による保温効果で凍害を防ぐのだ。寝かしつけたものは、春には起こさないといけない。そして剪定も待っている。広大な土地に植えられている木一本一本対応しなければならないのだ。その作業を想像するだけでクラクラする…。そこまで世話をしても、やはり雪の重さや凍害で被害を受ける木もある。また、年数を重ねたブドウは重くなるので、ブドウの木の上げ下ろし作業が輪をかけて辛くなる。これらを考慮し、ブドウの木が20年を超えるころから、計画的に植え替えを行うそうだ。定期的に対応したとしても10年、20年の単位で年数を要する作業である。こういう地道な作業を繰り返すことで、守られていく畑。頭が下がる思いだ。 (左)ブドウの植え付け角度が斜めになっている様子が分かる。, (右)色付いたブドウの房も立派! 農家としての矜持 中井さんの語り口は非常に穏やか。物腰は柔らかく、とても腰が低い方だ。「どうだ!凄いだろう!?」みたいなことは一切口にされず穏やかに語って下さるのだが、その影に隠れるようにして熟練の技みたいなものがチラチラと垣間見られるので、却って凄さを感じるのだ。ワイン用ブドウは、栽培を始めた当初から付き合いのあるはこだてわいんの他、ドメーヌ・タカヒコ、タキザワワイナリー等、現在は6社に卸している。畑はメーカー毎に管理。メーカーそれぞれに作りたいスタイルが異なるので、要望もまちまち。一つ一つ要望に応えて、栽培方法も収穫のタイミングも変えているそうだ。栽培品種もメーカーときちんと話し合う。現在、植えられている品種は、ケルナー、ミュラー・トゥルガウ、ソーヴィニョン・ブラン、ピノ・グリ、バッカス、ツヴァイゲルト・レーベ、ドルンフェルダー、ピノ・ノワールの8種類。気がかりなのは地球温暖化の影響だ。昨今は最高気温が更に上がり、最低気温は更に下がる傾向にあり、寒暖差が大きくなってきた。9月に入って30℃を超す気温はこれまでなかったが、この数年は劇的に変わってきている。そのため、これから植え替える品種は温暖化の影響を考えていかなければならない。ブドウの木は4~5年で一人前になる。いざ収穫というタイミングで、温暖化の影響で実のなりが悪いだなんて、笑えない話だ。野菜のようにまた植え直すということは決してできない。だから、 「品種選びは真剣勝負」 ときりっとした表情で仰る。 一方で、沢山の果樹を育てているからこその軽やかさがある。 「ブドウはまだいい。リンゴは一人前になるのに10年かかる。こっちの方が品種選びを間違えると大変なことになる」 と、余裕を感じさせる一言が続くのだ。それだけではない。リンゴ栽培に用いる技術をワイン用ブドウの栽培にも応用するという。色んなものを育てているからこそ得られる知識や技術があるのだ。リンゴ栽培の後にブドウを植えると、ブドウの成長に好影響を与えるが、ブドウの後にブドウを植えると連作障害を起こすそう。だから果樹の植え替えの場所にも心を配る。そして、果樹を植える前にしっかりと土壌改良も行う。土壌改良なしでも果樹は育つかもしれないが、果実の仕上がりが全く違うそうだ。土壌改良には資金力も労力も必要になるので、中には省く人もいる。しかし、中井さんは商品として提供するものに妥協は許さない。そういう強い信念を感じさせる。高い技術力を持って育てられる中井さんのブドウ。今でこそ、栽培農家の名前をラベルに表記するワイナリーは増えたが、中井観光農園のブドウを使ったワインは昔からラベルに表記されることが多かった。それだけ、ワイナリーからの信頼感も厚いということだろう。 ▲ ブドウ畑の隣にはリンゴの木が。リンゴ栽培の技術をブドウ栽培にも活かすという。沢山の果樹を育てているからこその知恵だ。 中井さんはポソっと仰った。 「周りに迷惑をかけないことを大事にしている。だから、自分のエゴを押し付けないようにしている」 と。できるようでできないことだ。 中井さん程のキャリアがあれば、ブドウを始めとする果樹栽培の知識や技量はトップクラスだ。これだけの経験を持っている人であれば、こうした方がいいと思うことも沢山あるだろう。多少、自分の要望を強く出して周りに協力を願ったって、誰も文句は言わないはずだ。だが、中井さんはそんなことはしない。ニコニコと笑顔を絶やさず、相手を立てる。周りに迷惑をかけないように、大変な作業も黙々と行う。中井さんは果樹を育てているだけではない。観光農園を運営するということは、子供から大人まで安全に過ごせるよう、施設の整備や農園の整備等、追加で対応が必要になるのだ。労力や気配りは半端ないはずだ。だけど、中井さんはそんな素振りを一切見せない。ニコニコとして、「いい景色でしょう~?」と嬉しそうに、畑とそこから見える海、岬を眺める。こういう方こそ強い人と評されるのではないか、と思う。「周りに迷惑をかけない」という軸を持って、他は柳のようにしなやか。だから折れない強さがある。そんな感じがする。...
北海道・余市 中井観光農園
日本ワインコラム | 北海道・余市 中井観光農園 北海道余市町にある観光農園。道路から敷地に入ると売店があり、その奥に進むと様々な果樹が植わっている。美味しそうな果物だなぁ・・・と涎を我慢して畑を進むと、穏やかな丘に整然と並ぶブドウの木がパーっと広がる。そしてその先に見えるのが青い海と印象的なシリパ半島。吸い込まれるような景色だ。 ▲ (左)看板の後ろにはブドウ畑。そして、その奥の方には、シリパ岬と海が見える。, (右)中井観光農園の売店。中にはワインやジュース、ジャム、季節の果物等が販売されている。 今回お邪魔したのは、中井観光農園の中井淳さん。息子さんの瑞葵さんにもお話を伺った。余市のワイン産地としての歴史は40年程前に遡るが、中井さんのお父様は、余市でワイン用ブドウの栽培を大々的に手掛けた7人の内の1人だ。現在、ワイン用ブドウは5haの栽培面積にまで増え、リンゴやサクランボ等の果樹を含め、計8haの畑を管理されている。 先代達から受け継いだ畑を守り続けて 中井さんは4代目。代々続く果樹園には、リンゴやサクランボ、プルーン、梨、プラム、ネクタリン、生食用ブドウ等が植わっている。観光農園として運営していることもあり、小さな子供から大人までお客様が出入りする。特に夏から秋にかけては、たわわに実ったフルーツを収穫して頬張る人の姿が見られる場所だ。その場所にワイン用ブドウが植えられたのは、中井さんの先代から。1970年代頃からリンゴ価格の大暴落が起こり、余市の若手農家7人がワイン用ブドウに活路を見出したのだ(→詳細はこちら「安藝農園」から)。その歴史を物語る様に、畑には37~38年前に植えられたケルナーの古木もある。 ▲ 左から生食用ブドウ、梨、プルーン。生食用ブドウの「旅路」という名前に心がくすぐられる。 余市町は、暖流の対馬海流の影響もあり、道内では比較的温暖だ。この温暖な気候の恩恵を受け、古くから果樹栽培が行われてきた。比較的温暖とは言え、そこは北海道。冬は寒く雪深いので、ブドウの樹を凍害から守る必要がある。そこで、余市では、古くから雪の重さで枝が折れないようにブドウの植付け角度を斜めにする工夫がなされている。それだけではない。秋の収穫後、厳寒期を迎える前の短い期間に、木をワイヤーから外して地面に寝かしつける必要がある。ブドウの木の上に雪が積ることで、枝折れや雪布団による保温効果で凍害を防ぐのだ。寝かしつけたものは、春には起こさないといけない。そして剪定も待っている。広大な土地に植えられている木一本一本対応しなければならないのだ。その作業を想像するだけでクラクラする…。そこまで世話をしても、やはり雪の重さや凍害で被害を受ける木もある。また、年数を重ねたブドウは重くなるので、ブドウの木の上げ下ろし作業が輪をかけて辛くなる。これらを考慮し、ブドウの木が20年を超えるころから、計画的に植え替えを行うそうだ。定期的に対応したとしても10年、20年の単位で年数を要する作業である。こういう地道な作業を繰り返すことで、守られていく畑。頭が下がる思いだ。 (左)ブドウの植え付け角度が斜めになっている様子が分かる。, (右)色付いたブドウの房も立派! 農家としての矜持 中井さんの語り口は非常に穏やか。物腰は柔らかく、とても腰が低い方だ。「どうだ!凄いだろう!?」みたいなことは一切口にされず穏やかに語って下さるのだが、その影に隠れるようにして熟練の技みたいなものがチラチラと垣間見られるので、却って凄さを感じるのだ。ワイン用ブドウは、栽培を始めた当初から付き合いのあるはこだてわいんの他、ドメーヌ・タカヒコ、タキザワワイナリー等、現在は6社に卸している。畑はメーカー毎に管理。メーカーそれぞれに作りたいスタイルが異なるので、要望もまちまち。一つ一つ要望に応えて、栽培方法も収穫のタイミングも変えているそうだ。栽培品種もメーカーときちんと話し合う。現在、植えられている品種は、ケルナー、ミュラー・トゥルガウ、ソーヴィニョン・ブラン、ピノ・グリ、バッカス、ツヴァイゲルト・レーベ、ドルンフェルダー、ピノ・ノワールの8種類。気がかりなのは地球温暖化の影響だ。昨今は最高気温が更に上がり、最低気温は更に下がる傾向にあり、寒暖差が大きくなってきた。9月に入って30℃を超す気温はこれまでなかったが、この数年は劇的に変わってきている。そのため、これから植え替える品種は温暖化の影響を考えていかなければならない。ブドウの木は4~5年で一人前になる。いざ収穫というタイミングで、温暖化の影響で実のなりが悪いだなんて、笑えない話だ。野菜のようにまた植え直すということは決してできない。だから、 「品種選びは真剣勝負」 ときりっとした表情で仰る。 一方で、沢山の果樹を育てているからこその軽やかさがある。 「ブドウはまだいい。リンゴは一人前になるのに10年かかる。こっちの方が品種選びを間違えると大変なことになる」 と、余裕を感じさせる一言が続くのだ。それだけではない。リンゴ栽培に用いる技術をワイン用ブドウの栽培にも応用するという。色んなものを育てているからこそ得られる知識や技術があるのだ。リンゴ栽培の後にブドウを植えると、ブドウの成長に好影響を与えるが、ブドウの後にブドウを植えると連作障害を起こすそう。だから果樹の植え替えの場所にも心を配る。そして、果樹を植える前にしっかりと土壌改良も行う。土壌改良なしでも果樹は育つかもしれないが、果実の仕上がりが全く違うそうだ。土壌改良には資金力も労力も必要になるので、中には省く人もいる。しかし、中井さんは商品として提供するものに妥協は許さない。そういう強い信念を感じさせる。高い技術力を持って育てられる中井さんのブドウ。今でこそ、栽培農家の名前をラベルに表記するワイナリーは増えたが、中井観光農園のブドウを使ったワインは昔からラベルに表記されることが多かった。それだけ、ワイナリーからの信頼感も厚いということだろう。 ▲ ブドウ畑の隣にはリンゴの木が。リンゴ栽培の技術をブドウ栽培にも活かすという。沢山の果樹を育てているからこその知恵だ。 中井さんはポソっと仰った。 「周りに迷惑をかけないことを大事にしている。だから、自分のエゴを押し付けないようにしている」 と。できるようでできないことだ。 中井さん程のキャリアがあれば、ブドウを始めとする果樹栽培の知識や技量はトップクラスだ。これだけの経験を持っている人であれば、こうした方がいいと思うことも沢山あるだろう。多少、自分の要望を強く出して周りに協力を願ったって、誰も文句は言わないはずだ。だが、中井さんはそんなことはしない。ニコニコと笑顔を絶やさず、相手を立てる。周りに迷惑をかけないように、大変な作業も黙々と行う。中井さんは果樹を育てているだけではない。観光農園を運営するということは、子供から大人まで安全に過ごせるよう、施設の整備や農園の整備等、追加で対応が必要になるのだ。労力や気配りは半端ないはずだ。だけど、中井さんはそんな素振りを一切見せない。ニコニコとして、「いい景色でしょう~?」と嬉しそうに、畑とそこから見える海、岬を眺める。こういう方こそ強い人と評されるのではないか、と思う。「周りに迷惑をかけない」という軸を持って、他は柳のようにしなやか。だから折れない強さがある。そんな感じがする。...
北海道・余市 安藝農園
日本ワインコラム | 北海道・余市 安藝農園 北海道余市町。ワイン・ラヴァーの誰もが認める日本有数のワイン産地である。新千歳空港から快速エアポートと普通電車を乗り継ぎ2時間弱。北海道の西側に位置し、積丹ブルーで有名な積丹半島の付け根にある余市町は、暖流の対馬海流の影響もあり、道内では比較的温暖で、古くから果樹栽培で有名な場所である。日本におけるワイン造りは約140年前から始まったと言われる中、余市町のワイン産地としての歴史は40年程と長くない。この短い期間で一気に日本ワイン産地のキラ星となったのだが、その一翼を担ったのが今回お邪魔した安藝農園さんだ。今回、5代目の安藝慎一さんと6代目の元伸さんにお話を伺った。 ▲ 右が5代目の慎一さん、左が6代目の元伸さん。なんとなく、佇まいが似ていると感じさせるお二人。 代々続く家族の物語 安藝農園は町に流れる余市川の右岸側にある登地区に位置するヴィンヤード。畑上空から見ると、余市町のシンボルのシリパ岬がくっきりと見える。畑から海に抜ける景色がなんとも美しい。 ▲ 訪問した朝は雨がぱらつく日だったが、それでもこの美しさ。深呼吸したくなる。 1899年、初代が四国の徳島県から北海道に移り住んだ。移住当初は穀物や除虫菊等の栽培をしていたが、その後はリンゴ栽培を中心に生計を立ててきたという。現在の畑がある場所に移り住んだのは3代目。 日露戦争の報奨金を元手に入手した、 「命と引き換えにして得た土地だ」 と5代目の慎一さんは仰る。6代目の元伸さんも、 「命をかけて戦争に行った3代目から代々守ってきた場所を、父の代で終わらしてはいけないと思い、家業を継ぐことを決めた」 と仰る。重みのある言葉だ。元伸さんは大学卒業後民間企業で2年間働いていたそうだ。仕事が休みの時は畑仕事を手伝ってきたが、10年前に6代目を継ぐ決心し戻ってきた。てっきりお父様の慎一さんから戻ってきてほしいと懇願されたのかと思ったら違った。慎一さん自身は、親を慕う気持ちから、幼少期には農家になることを決めていたそうだが、元伸さんにはその考えを押し付けなかった。 父親から言われても反発するだけだろうと考え、元伸さんの気持ちを尊重したのだ。その影でずっと元伸さんに継ぐよう言い続けたのは元伸さんのお祖父様にあたる4代目だった。お正月やお盆で帰省する孫に問いかけ続けたという。 子を思う父、その父を思う祖父・・・こうやって親子のストーリーが折り重なって互いを思いやる気持ちが強くなるのだろうなぁと気付かされる話である。 さて、代々リンゴ農家として生計を立てていたこの家族が、どうしてワイン用ブドウ栽培を始めたのか。その転機となったのは、慎一さんが4代目と共に農園を切り盛りしていた頃に遡る。余市町のリンゴ栽培は明治時代から続く主力産業だったが、他産地のリンゴが売れ始め、1970年代からは価格が暴落するようになる。このままでは食べていかれない・・・切実な問題を抱え、次の一手をどうするのか模索し続けていた。 その時歴史は動いた ― 余市の7人衆 ▲ 歴史を作った瞬間の話であっても、大袈裟に語ることなく、朴訥とした口調でお話される慎一さん。実直なお人柄が感じられる。 品質が落ちたという訳でもないのに、 手塩にかけて育てたリンゴの価格が下落の一途を辿る。 その恐怖は真綿で首を絞められるようなものだったのではないかと想像する。 何とかしなければならない。 その強い危機感が同じ気持ちの人達と繋がるきっかけとなったのだろう。 慎一さんは、近隣の他のリンゴ農家と共にワイン用ブドウの栽培に乗り出した。ワイン用ブドウを栽培するのは初めてだったが、余市町と隣の仁木町の農業試験地の責任者だった小賀野四郎さんが農家を集め、技術指導してくれたそうだ。慎一さんは何度も感謝の気持ちを述べられた。小賀野さんの指導を受けたのは慎一さんを含めた7人の若手農家達。その中にいた土野茂さんが7人を束ねる役割を果たしてくれたと懐かしそうに語られた。...
北海道・余市 安藝農園
日本ワインコラム | 北海道・余市 安藝農園 北海道余市町。ワイン・ラヴァーの誰もが認める日本有数のワイン産地である。新千歳空港から快速エアポートと普通電車を乗り継ぎ2時間弱。北海道の西側に位置し、積丹ブルーで有名な積丹半島の付け根にある余市町は、暖流の対馬海流の影響もあり、道内では比較的温暖で、古くから果樹栽培で有名な場所である。日本におけるワイン造りは約140年前から始まったと言われる中、余市町のワイン産地としての歴史は40年程と長くない。この短い期間で一気に日本ワイン産地のキラ星となったのだが、その一翼を担ったのが今回お邪魔した安藝農園さんだ。今回、5代目の安藝慎一さんと6代目の元伸さんにお話を伺った。 ▲ 右が5代目の慎一さん、左が6代目の元伸さん。なんとなく、佇まいが似ていると感じさせるお二人。 代々続く家族の物語 安藝農園は町に流れる余市川の右岸側にある登地区に位置するヴィンヤード。畑上空から見ると、余市町のシンボルのシリパ岬がくっきりと見える。畑から海に抜ける景色がなんとも美しい。 ▲ 訪問した朝は雨がぱらつく日だったが、それでもこの美しさ。深呼吸したくなる。 1899年、初代が四国の徳島県から北海道に移り住んだ。移住当初は穀物や除虫菊等の栽培をしていたが、その後はリンゴ栽培を中心に生計を立ててきたという。現在の畑がある場所に移り住んだのは3代目。 日露戦争の報奨金を元手に入手した、 「命と引き換えにして得た土地だ」 と5代目の慎一さんは仰る。6代目の元伸さんも、 「命をかけて戦争に行った3代目から代々守ってきた場所を、父の代で終わらしてはいけないと思い、家業を継ぐことを決めた」 と仰る。重みのある言葉だ。元伸さんは大学卒業後民間企業で2年間働いていたそうだ。仕事が休みの時は畑仕事を手伝ってきたが、10年前に6代目を継ぐ決心し戻ってきた。てっきりお父様の慎一さんから戻ってきてほしいと懇願されたのかと思ったら違った。慎一さん自身は、親を慕う気持ちから、幼少期には農家になることを決めていたそうだが、元伸さんにはその考えを押し付けなかった。 父親から言われても反発するだけだろうと考え、元伸さんの気持ちを尊重したのだ。その影でずっと元伸さんに継ぐよう言い続けたのは元伸さんのお祖父様にあたる4代目だった。お正月やお盆で帰省する孫に問いかけ続けたという。 子を思う父、その父を思う祖父・・・こうやって親子のストーリーが折り重なって互いを思いやる気持ちが強くなるのだろうなぁと気付かされる話である。 さて、代々リンゴ農家として生計を立てていたこの家族が、どうしてワイン用ブドウ栽培を始めたのか。その転機となったのは、慎一さんが4代目と共に農園を切り盛りしていた頃に遡る。余市町のリンゴ栽培は明治時代から続く主力産業だったが、他産地のリンゴが売れ始め、1970年代からは価格が暴落するようになる。このままでは食べていかれない・・・切実な問題を抱え、次の一手をどうするのか模索し続けていた。 その時歴史は動いた ― 余市の7人衆 ▲ 歴史を作った瞬間の話であっても、大袈裟に語ることなく、朴訥とした口調でお話される慎一さん。実直なお人柄が感じられる。 品質が落ちたという訳でもないのに、 手塩にかけて育てたリンゴの価格が下落の一途を辿る。 その恐怖は真綿で首を絞められるようなものだったのではないかと想像する。 何とかしなければならない。 その強い危機感が同じ気持ちの人達と繋がるきっかけとなったのだろう。 慎一さんは、近隣の他のリンゴ農家と共にワイン用ブドウの栽培に乗り出した。ワイン用ブドウを栽培するのは初めてだったが、余市町と隣の仁木町の農業試験地の責任者だった小賀野四郎さんが農家を集め、技術指導してくれたそうだ。慎一さんは何度も感謝の気持ちを述べられた。小賀野さんの指導を受けたのは慎一さんを含めた7人の若手農家達。その中にいた土野茂さんが7人を束ねる役割を果たしてくれたと懐かしそうに語られた。...
北海道・余市 ラフェト・デ・ヴィニュロン・ ア・ヨイチ2022
日本ワインコラム | ラフェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ 2022 「400枚のチケットが3分で完売!」と聞いたら、どこぞの人気アーティストのイベントか!?と思うだろう。が、そうではない。北海道余市町登地区を中心とするワイン・ブドウ園を巡る農園開放祭「ラ・フェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ2022」のチケット販売の記録だ。2015年から開催しているイベントで、コロナの影響で開催見送りが続いてきたが、今回、満を持して3年ぶりの開催となった。約30のヴィンヤードとワイナリーが1日限定で農園を開放し、人気のワインや限定物のワイン等を提供する。参加者は、生産者と直接話をしたり、畑や農園を歩きながら色んな種類のワインを試飲したりできるので、涎もののイベントなのだ。 ▲ 会場入口の様子。 のぼりが見えてくると「おぉー。来た~!」という気持ちが高まる。 ▲ ブースで受付け後、試飲用のグラスとマップをゲットして、いざ出陣となる。 急成長を遂げた余市町のワイン産業 こんなイベントが開催されるような地域なのだから、古くからワイン産業が盛んな土地と思われるかもしれないが、余市町で本格的にワイン用ブドウ栽培が始まったのは1983年。40年弱と歴史は浅い。北海道は北緯41-45度に位置し、ご存知の通り、冬は寒く雪深い。しかし、余市町は道内でも比較的温暖な気候で、古くから果樹栽培が盛んな場所だった。今回、イベントに参加していたヴィンヤードの中には、ワイン用ブドウのみならず、生食用ブドウやリンゴ、さくらんぼ、プルーン等を栽培しているところも沢山ある。イベントでは、ワインの他に、食べ物や果物を販売するブースも出展されていた。販売されていたプルーンを食べてみたのだが、本当に美味しくて、仰天ものだった!しっかり熟した果実はみずみずしさを残しつつ、凝縮された甘味が最高なのだ。今までのプルーンのイメージを超える甘味と凝縮感。恐るべし余市・・・ ▲ 摘み取られたばかりのプルーン。その中から選りすぐりの甘いプルーンを頂く。しっかり熟した後に摘み取られた果実がこんなにも美味しいとは!忘れられない味だ。 さて、ワイン用ブドウが栽培されるきっかけとなったのは、当時栽培の主流だったリンゴ価格の大暴落という、やむにやまれぬ理由からだ。このままでは路頭に迷う・・・という危機感から、何人かの農家が勝負に出たという。生食用ブドウの栽培経験を持つ農家もいるが、ワイン用ブドウ栽培の経験はゼロ。一つ一つ手探りで栽培方法を模索し、産地として育て上げていったのだ。今では、ワイン用ブドウの栽培農家は50軒以上、ワイナリーは余市町と隣の仁木町と合わせて20軒まで増えた。この成長ぶりは数値で見てみると圧巻だ。日本全国のワイン用ブドウ栽培面積で北海道の占める割合は37%、うち余市町が道内の31%を占めトップ。収穫量も北海道は全国の28%を占めるが、うち余市町は道内の48%を占めトップ。まさに、「北海道はでっかいどう」な規模感であり、余市町はその中で彗星如く現れたキラリと輝く産地なのだ。栽培されているのは、寒冷地向けの品種中心で、ケルナー、ツヴァイゲルトレーベ、ミュラー・トゥルガウといったドイツ系やオーストリア系の品種が多いが、ピノ・ノワールやピノ・グリ、ソーヴィニョン・ブランといった品種の栽培も増えてきている。温暖化の影響もあり、ピノ・ノワールの熟度も上がり、メルロまで育つようになってきているらしい。 ▲ 北海道はでっかいどう!!スケールの大きいワイン畑が広がる。 最高の景色に包まれて 9月4日(日)、イベント開催日の余市町は最高の天気だった。この時期の東京は、秋の気配を少し感じつつも日差しは強く、まとわりつく湿度で汗がたらぁーと流れる。しかし、この日の余市町はからっとした晴天。湿度も低く、日向を歩くと暑さを感じるが、木陰に入れば涼しい。同じ日本とは思えない程だ。 実は、話を聞いていると、過去には嵐のような大雨だったり、本州よりも暑い35℃以上の炎天下だったり、過酷な環境下での開催が続いていたそうだ。なので、主催者やヴィンヤード・ワイナリーの皆さんが、今年の天気こそが本来の余市の姿なのだ、と口を揃えて仰っていたのが印象的だ。こんな日に参加できたのは、日頃の行いが良いからだと信じたい(笑)。 ▲ (左)左側に見えるのがシリパ岬。海の地平線と空が重なり合う。あぁ絶景!! ▲ (右)ブドウもきれいに色付いて、収穫を待つばかりだ。 さて、今回、イベントが開催された一帯は、町に流れる余市川の右岸側にある余市町登地区。積丹半島の付け根にあたる場所に位置する。ブドウ畑がなだらかな丘陵地に広がり、畑からは余市湾と余市町のシンボル的存在のシリパ岬(シリパとはアイヌ語で、sir=山、pa=頭の意味)が見渡せる。紺碧の空の下に広がる畑の緑、そして、その奥には「積丹ブルー」と呼ばれる息を呑む美しさの青い海・・・視界を遮るものがなく、パノラマ・ビューを堪能できるのだ。そして、心地よい風が常に畑を通り抜け、ブドウの葉をゆらゆらと揺らす。あと1ヶ月半程で収穫を迎えるブドウは美しく色付き、ワインになる前から美味しいワインになるに違いないと確信させてくれる。 ▲ 余市観光協会HPより抜粋 マップを見て頂くと、個々のワイナリーやヴィンヤードが隣接しているのがお分かりになるだろう。コンパクトに纏まっているので、周りやすいのが嬉しい。 直線距離にすると2km強程度。脇道に逸れたとしても往復で-5-6㎞程度なので、ゴルフでカートを使って1ラウンドする時に歩く距離と同じくらいではないだろうか。...
北海道・余市 ラフェト・デ・ヴィニュロン・ ア・ヨイチ2022
日本ワインコラム | ラフェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ 2022 「400枚のチケットが3分で完売!」と聞いたら、どこぞの人気アーティストのイベントか!?と思うだろう。が、そうではない。北海道余市町登地区を中心とするワイン・ブドウ園を巡る農園開放祭「ラ・フェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ2022」のチケット販売の記録だ。2015年から開催しているイベントで、コロナの影響で開催見送りが続いてきたが、今回、満を持して3年ぶりの開催となった。約30のヴィンヤードとワイナリーが1日限定で農園を開放し、人気のワインや限定物のワイン等を提供する。参加者は、生産者と直接話をしたり、畑や農園を歩きながら色んな種類のワインを試飲したりできるので、涎もののイベントなのだ。 ▲ 会場入口の様子。 のぼりが見えてくると「おぉー。来た~!」という気持ちが高まる。 ▲ ブースで受付け後、試飲用のグラスとマップをゲットして、いざ出陣となる。 急成長を遂げた余市町のワイン産業 こんなイベントが開催されるような地域なのだから、古くからワイン産業が盛んな土地と思われるかもしれないが、余市町で本格的にワイン用ブドウ栽培が始まったのは1983年。40年弱と歴史は浅い。北海道は北緯41-45度に位置し、ご存知の通り、冬は寒く雪深い。しかし、余市町は道内でも比較的温暖な気候で、古くから果樹栽培が盛んな場所だった。今回、イベントに参加していたヴィンヤードの中には、ワイン用ブドウのみならず、生食用ブドウやリンゴ、さくらんぼ、プルーン等を栽培しているところも沢山ある。イベントでは、ワインの他に、食べ物や果物を販売するブースも出展されていた。販売されていたプルーンを食べてみたのだが、本当に美味しくて、仰天ものだった!しっかり熟した果実はみずみずしさを残しつつ、凝縮された甘味が最高なのだ。今までのプルーンのイメージを超える甘味と凝縮感。恐るべし余市・・・ ▲ 摘み取られたばかりのプルーン。その中から選りすぐりの甘いプルーンを頂く。しっかり熟した後に摘み取られた果実がこんなにも美味しいとは!忘れられない味だ。 さて、ワイン用ブドウが栽培されるきっかけとなったのは、当時栽培の主流だったリンゴ価格の大暴落という、やむにやまれぬ理由からだ。このままでは路頭に迷う・・・という危機感から、何人かの農家が勝負に出たという。生食用ブドウの栽培経験を持つ農家もいるが、ワイン用ブドウ栽培の経験はゼロ。一つ一つ手探りで栽培方法を模索し、産地として育て上げていったのだ。今では、ワイン用ブドウの栽培農家は50軒以上、ワイナリーは余市町と隣の仁木町と合わせて20軒まで増えた。この成長ぶりは数値で見てみると圧巻だ。日本全国のワイン用ブドウ栽培面積で北海道の占める割合は37%、うち余市町が道内の31%を占めトップ。収穫量も北海道は全国の28%を占めるが、うち余市町は道内の48%を占めトップ。まさに、「北海道はでっかいどう」な規模感であり、余市町はその中で彗星如く現れたキラリと輝く産地なのだ。栽培されているのは、寒冷地向けの品種中心で、ケルナー、ツヴァイゲルトレーベ、ミュラー・トゥルガウといったドイツ系やオーストリア系の品種が多いが、ピノ・ノワールやピノ・グリ、ソーヴィニョン・ブランといった品種の栽培も増えてきている。温暖化の影響もあり、ピノ・ノワールの熟度も上がり、メルロまで育つようになってきているらしい。 ▲ 北海道はでっかいどう!!スケールの大きいワイン畑が広がる。 最高の景色に包まれて 9月4日(日)、イベント開催日の余市町は最高の天気だった。この時期の東京は、秋の気配を少し感じつつも日差しは強く、まとわりつく湿度で汗がたらぁーと流れる。しかし、この日の余市町はからっとした晴天。湿度も低く、日向を歩くと暑さを感じるが、木陰に入れば涼しい。同じ日本とは思えない程だ。 実は、話を聞いていると、過去には嵐のような大雨だったり、本州よりも暑い35℃以上の炎天下だったり、過酷な環境下での開催が続いていたそうだ。なので、主催者やヴィンヤード・ワイナリーの皆さんが、今年の天気こそが本来の余市の姿なのだ、と口を揃えて仰っていたのが印象的だ。こんな日に参加できたのは、日頃の行いが良いからだと信じたい(笑)。 ▲ (左)左側に見えるのがシリパ岬。海の地平線と空が重なり合う。あぁ絶景!! ▲ (右)ブドウもきれいに色付いて、収穫を待つばかりだ。 さて、今回、イベントが開催された一帯は、町に流れる余市川の右岸側にある余市町登地区。積丹半島の付け根にあたる場所に位置する。ブドウ畑がなだらかな丘陵地に広がり、畑からは余市湾と余市町のシンボル的存在のシリパ岬(シリパとはアイヌ語で、sir=山、pa=頭の意味)が見渡せる。紺碧の空の下に広がる畑の緑、そして、その奥には「積丹ブルー」と呼ばれる息を呑む美しさの青い海・・・視界を遮るものがなく、パノラマ・ビューを堪能できるのだ。そして、心地よい風が常に畑を通り抜け、ブドウの葉をゆらゆらと揺らす。あと1ヶ月半程で収穫を迎えるブドウは美しく色付き、ワインになる前から美味しいワインになるに違いないと確信させてくれる。 ▲ 余市観光協会HPより抜粋 マップを見て頂くと、個々のワイナリーやヴィンヤードが隣接しているのがお分かりになるだろう。コンパクトに纏まっているので、周りやすいのが嬉しい。 直線距離にすると2km強程度。脇道に逸れたとしても往復で-5-6㎞程度なので、ゴルフでカートを使って1ラウンドする時に歩く距離と同じくらいではないだろうか。...
長野・シクロヴィンヤード
日本ワインコラム | 長野 496ワイナリー ボルドーにやってきた。のではないが、日本のボルドーと言われる場所にやってきた。東京から新幹線で約1時間半。信州が誇る一大ワイン産地、千曲川ワインバレーだ。千曲川の流域に広がる産地で、右岸と左岸で個性の異なるブドウ栽培が盛んな場所だ。今回訪れた496ワイナリーがあるのは左岸側。そこで飯島さんは奥様の祐子さんと共に2014年からワイン用ブドウの栽培を始め、2019年には自社ワイナリーを設立、ブドウと向き合う日々を過ごされている。 ▲ 訪れた日は生憎の雨。だけど、深緑色の縁取りが素敵なワイナリーと味のある看板を見ると、「着いたー!」とテンションが上がる。ワイナリーの周りに植えられたお花やオブジェも可愛らしい。 496=シクロ=Cyclo=自転車 ワイナリー名の496にはフランス語で自転車を意味する「シクロ」という意味合いが隠されている。実は、飯島さんはもともと自転車競技の選手。個人追い抜き種目のパシュートと呼ばれる競技では、マスターズ部門の世界記録を樹立したという信じられない経歴の持ち主だ。スポーツ選手でこれだけの経歴の持ち主であれば、引退後にスポーツ関連の職に就くことは容易だっただろうと想像する。しかし、飯島さんは40代後半で全く異なる分野のブドウ栽培&醸造家に転身する。このジャンプはどこから来るのだろう?と不思議に思っていた。 ▲ ワイナリーの中にはそれとなく、自転車に関するオブジェがワインと一緒にディスプレイされている。さりげない感じが逆に小粋だ。 飯島さんはきっぱりと仰る。「過去はどうでもいい。今を大事にしている」 と。選手時代には、自転車で地球15周分を走ったそうだ(驚愕!)。もはやそれがどんな距離なのか想像の域を超えているが、永遠とも思える距離を走りぬき、やりきったという感覚があるのだろう。 次は、何かモノを作って、人に喜んでもらいたいという強い思いがあったそうだ。では、何を作るのか?選手時代、海外に遠征に行った時に出されたワインは、「常に楽しい時のわき役」だったという。ワインは幸せの記憶に直結するもの。そして、ワインには「人を繋げる力がある」と言う。 みんなでボトルに入った液体を分け合いながら飲む。ワインの周りには人が集まる。それだけではない。ワインを目的に旅先を選ぶこともあり、ワインを通じた新しい出会いがある。他の農産物で、こんな形で人を結びつけるものはそうはない。ワインで人に喜んでもらいたい、幸せを感じてもらいたい、人との繋がりを大事にしたい。自転車の世界を経験したからこそ見つけられた次の世界だった。 飯島さんは、目標に向かってもくもくと打ち込むタイプだと祐子さんは仰る。これだ!と思ったものに対しては、迷いなく全エネルギーを注ぐ、猪突猛進型。ワインも自転車も長距離走。2つは全く違う畑のように見えるが、飯島さんの向き合い方は変わらない。365日、休みなく畑に出かけて行くそうだ。 畑との出会い — 流れに身を任せたら最高の場所だった 人に喜んでもらいたいという気持ちから始めたワインの道。出来上がったワインを飲んでもらわないと意味がない。お客様の多い関東圏から近い場所にワイナリーを設立したいと思った。 長野県は首都圏からのアクセスがいい。行政も誘致に積極的で、周りの農家達の風通しも良かった。千曲川ワインバレーは、日本有数の日照時間を誇り、降雨量が少なく、標高が高さによる昼夜の寒暖差があり、ブドウ栽培に恵まれた土地だ。ワイナリーの多くは右岸側にある。左岸よりも更に標高が高く、火山性の黒ボク土を土壌とするところが多い。一方の左岸は、右岸よりも標高が低く、粘土質の土壌を持つ。飯島さんも多くのワイナリー同様、移住当時は右岸で農地を探した。もう少しで契約となったが、所有者側の権利関係に不備があることが判明し、破談になったそうだ。そんな折、左岸の農家にお手伝いをしていた祐子さん経由で今の土地に巡りあった。 蓼科山の地下水+強粘土質土壌+寒暖差という好条件が揃うお米の名産地で、畑の目の前は田んぼが広がる。飯島さんの畑は斜面でお米を作ることができないことから田んぼにならず手付かずで残っていたという。 ▲ 畑の前には田んぼが広がる。新緑の稲と整列するブドウ畑のコントラストが美しい。ブドウ畑と田んぼという組み合わせは珍しいが、日本ならではの癒される景色だ。 当時、粘土質土壌の左岸は果樹不毛と言われていた。果樹の成長速度は遅く、一本当たりの収量も少なく経済性が悪い。一方、栄養分が豊富な粘土質土壌で収穫された果実の味わいは濃いという利点もあった。要は、栽培は大変だが、収穫されたものの質は高いということだ。畑は丘陵でなだらか斜面となっており、実際に畑に足を運ぶといい印象を持ったそうだ。飯島さんの畑は標高680mの台地の南東のヘリにある。実は同じ台地の北西のヘリには、老舗シャトー・メルシャンが自社管理圃場として設立し、高品質なブドウが栽培されていると有名な椀子ワイナリーがある。 北西のヘリで高品質なブドウが育つのであれば、朝から十分な日照を得ることができる南東向きのこの土地はもっと良いに違いないと踏んだ。確かに強教粘土質土壌ではあるが、斜面で水はけも良いのでブドウ栽培にとっては好条件だ。ワイン用ブドウを育てる上で最高の場所だと感じた。 ▲ 斜面に植わっているブドウの木。真直ぐと整列する様が本当に美しい。畝も南北に整備されていて、ムラなく太陽の恵みを長時間受けることが可能だ。 飯島さんは過去に固執しないと言ったが、祐子さんも「行ってみてダメなら遮断されるはず。それが運命。」という考えの持ち主だ。お二人は、「目に見えない導きによって流れていく」という考えを共有している。最初の畑の契約がうまくいかなかったのはそういう運命。今の畑に出会ったのも運命。流れに抗わず、今できることに目一杯力を注ぐことで新たな流れが生まれてくるのだ。 右岸の方が左岸よりも標高が高いなら、寒暖差も右岸の方があると思われる読者も多いだろう。しかし、実は左岸の方が寒暖差はあるのだ。右岸にあるワイナリーの多くは標高800mを超えるが、ゆるやかな南西向きの斜面に畑があり、西日を受けた畑は夜の間も熱が残る。一方、左岸にある飯島さんの畑は南東向きで、西日が少なく、朝は放射冷却の影響でぐんと冷え込む。そのため、5月~6月の頭まで遅霜のリスクがある。リスクはあるが、リターンは大きい。まず、日中は標高が低い分、右岸に比べて2-3℃温度が高くなり、ブドウが熟して糖度が上がる。そして、夜は気温が下がり、ワインに必要不可欠な適度な酸を維持することが可能なのだ。ブドウ栽培環境は抜群にいいと胸を張る。...
長野・シクロヴィンヤード
日本ワインコラム | 長野 496ワイナリー ボルドーにやってきた。のではないが、日本のボルドーと言われる場所にやってきた。東京から新幹線で約1時間半。信州が誇る一大ワイン産地、千曲川ワインバレーだ。千曲川の流域に広がる産地で、右岸と左岸で個性の異なるブドウ栽培が盛んな場所だ。今回訪れた496ワイナリーがあるのは左岸側。そこで飯島さんは奥様の祐子さんと共に2014年からワイン用ブドウの栽培を始め、2019年には自社ワイナリーを設立、ブドウと向き合う日々を過ごされている。 ▲ 訪れた日は生憎の雨。だけど、深緑色の縁取りが素敵なワイナリーと味のある看板を見ると、「着いたー!」とテンションが上がる。ワイナリーの周りに植えられたお花やオブジェも可愛らしい。 496=シクロ=Cyclo=自転車 ワイナリー名の496にはフランス語で自転車を意味する「シクロ」という意味合いが隠されている。実は、飯島さんはもともと自転車競技の選手。個人追い抜き種目のパシュートと呼ばれる競技では、マスターズ部門の世界記録を樹立したという信じられない経歴の持ち主だ。スポーツ選手でこれだけの経歴の持ち主であれば、引退後にスポーツ関連の職に就くことは容易だっただろうと想像する。しかし、飯島さんは40代後半で全く異なる分野のブドウ栽培&醸造家に転身する。このジャンプはどこから来るのだろう?と不思議に思っていた。 ▲ ワイナリーの中にはそれとなく、自転車に関するオブジェがワインと一緒にディスプレイされている。さりげない感じが逆に小粋だ。 飯島さんはきっぱりと仰る。「過去はどうでもいい。今を大事にしている」 と。選手時代には、自転車で地球15周分を走ったそうだ(驚愕!)。もはやそれがどんな距離なのか想像の域を超えているが、永遠とも思える距離を走りぬき、やりきったという感覚があるのだろう。 次は、何かモノを作って、人に喜んでもらいたいという強い思いがあったそうだ。では、何を作るのか?選手時代、海外に遠征に行った時に出されたワインは、「常に楽しい時のわき役」だったという。ワインは幸せの記憶に直結するもの。そして、ワインには「人を繋げる力がある」と言う。 みんなでボトルに入った液体を分け合いながら飲む。ワインの周りには人が集まる。それだけではない。ワインを目的に旅先を選ぶこともあり、ワインを通じた新しい出会いがある。他の農産物で、こんな形で人を結びつけるものはそうはない。ワインで人に喜んでもらいたい、幸せを感じてもらいたい、人との繋がりを大事にしたい。自転車の世界を経験したからこそ見つけられた次の世界だった。 飯島さんは、目標に向かってもくもくと打ち込むタイプだと祐子さんは仰る。これだ!と思ったものに対しては、迷いなく全エネルギーを注ぐ、猪突猛進型。ワインも自転車も長距離走。2つは全く違う畑のように見えるが、飯島さんの向き合い方は変わらない。365日、休みなく畑に出かけて行くそうだ。 畑との出会い — 流れに身を任せたら最高の場所だった 人に喜んでもらいたいという気持ちから始めたワインの道。出来上がったワインを飲んでもらわないと意味がない。お客様の多い関東圏から近い場所にワイナリーを設立したいと思った。 長野県は首都圏からのアクセスがいい。行政も誘致に積極的で、周りの農家達の風通しも良かった。千曲川ワインバレーは、日本有数の日照時間を誇り、降雨量が少なく、標高が高さによる昼夜の寒暖差があり、ブドウ栽培に恵まれた土地だ。ワイナリーの多くは右岸側にある。左岸よりも更に標高が高く、火山性の黒ボク土を土壌とするところが多い。一方の左岸は、右岸よりも標高が低く、粘土質の土壌を持つ。飯島さんも多くのワイナリー同様、移住当時は右岸で農地を探した。もう少しで契約となったが、所有者側の権利関係に不備があることが判明し、破談になったそうだ。そんな折、左岸の農家にお手伝いをしていた祐子さん経由で今の土地に巡りあった。 蓼科山の地下水+強粘土質土壌+寒暖差という好条件が揃うお米の名産地で、畑の目の前は田んぼが広がる。飯島さんの畑は斜面でお米を作ることができないことから田んぼにならず手付かずで残っていたという。 ▲ 畑の前には田んぼが広がる。新緑の稲と整列するブドウ畑のコントラストが美しい。ブドウ畑と田んぼという組み合わせは珍しいが、日本ならではの癒される景色だ。 当時、粘土質土壌の左岸は果樹不毛と言われていた。果樹の成長速度は遅く、一本当たりの収量も少なく経済性が悪い。一方、栄養分が豊富な粘土質土壌で収穫された果実の味わいは濃いという利点もあった。要は、栽培は大変だが、収穫されたものの質は高いということだ。畑は丘陵でなだらか斜面となっており、実際に畑に足を運ぶといい印象を持ったそうだ。飯島さんの畑は標高680mの台地の南東のヘリにある。実は同じ台地の北西のヘリには、老舗シャトー・メルシャンが自社管理圃場として設立し、高品質なブドウが栽培されていると有名な椀子ワイナリーがある。 北西のヘリで高品質なブドウが育つのであれば、朝から十分な日照を得ることができる南東向きのこの土地はもっと良いに違いないと踏んだ。確かに強教粘土質土壌ではあるが、斜面で水はけも良いのでブドウ栽培にとっては好条件だ。ワイン用ブドウを育てる上で最高の場所だと感じた。 ▲ 斜面に植わっているブドウの木。真直ぐと整列する様が本当に美しい。畝も南北に整備されていて、ムラなく太陽の恵みを長時間受けることが可能だ。 飯島さんは過去に固執しないと言ったが、祐子さんも「行ってみてダメなら遮断されるはず。それが運命。」という考えの持ち主だ。お二人は、「目に見えない導きによって流れていく」という考えを共有している。最初の畑の契約がうまくいかなかったのはそういう運命。今の畑に出会ったのも運命。流れに抗わず、今できることに目一杯力を注ぐことで新たな流れが生まれてくるのだ。 右岸の方が左岸よりも標高が高いなら、寒暖差も右岸の方があると思われる読者も多いだろう。しかし、実は左岸の方が寒暖差はあるのだ。右岸にあるワイナリーの多くは標高800mを超えるが、ゆるやかな南西向きの斜面に畑があり、西日を受けた畑は夜の間も熱が残る。一方、左岸にある飯島さんの畑は南東向きで、西日が少なく、朝は放射冷却の影響でぐんと冷え込む。そのため、5月~6月の頭まで遅霜のリスクがある。リスクはあるが、リターンは大きい。まず、日中は標高が低い分、右岸に比べて2-3℃温度が高くなり、ブドウが熟して糖度が上がる。そして、夜は気温が下がり、ワインに必要不可欠な適度な酸を維持することが可能なのだ。ブドウ栽培環境は抜群にいいと胸を張る。...