日本ワインコラム
THE CELLAR ワイン特集北海道・余市 Domaine Yui
日本ワインコラム | 北海道・余市 Domaine Yui 子猫がじゃれ合っているようだ。時には、喧嘩か?と心配してしまう激しさで。 かと思えば、がしっと腕と組み、大通りに繰り出すデモ隊の仲間のようでもある。 そして時には、ひっそり部室でお互いの「好き」を持ち込んで、相手の趣味をたたえ合うティーネイジャーのようでもある。 2017年に北海道余市町に移住し、2020年秋に醸造免許を取得したドメーヌ・ユイの杉山哲哉・彩夫妻。真直ぐでちょっと青臭い。自分をよく見せようというそぶりはなく、常に直球勝負の2人はとても勇敢だ。 ▲ ワイナリーと畑は元々リンゴと梨畑だった場所にある。ワイナリーは築50年倉庫をリノベーションして造られたもの。農家からワイナリーへのリノベーションプロジェクトとして、2021年グッドデザイン賞を受賞しただけあり、スタイリッシュな佇まいだ。 「畑見て、ワイナリー見て、っていう一般的なインタビューにはしたくないんですよね」 はっきりとそう仰った。まずは畑やワイナリーを拝見しながら、ブドウ栽培やワイン醸造のこだわりについて話を伺う、というのが通常のインタビューの流れだが、杉山夫妻は違った。 ワインの話もするけど、自分達ってこういう人間なのですっていうのを知ってほしい。 そういう気持ちでグイグイ来られたので、いつもと違うスタイルでお届けしたい。 音楽や文学、映画をこよなく愛する文化人 関東圏出身の2人は、進学先の北海道大学で同じジャズ研究会のサークルに所属。彩さんがピアニスト、哲哉さんがドラマーだ。そして、先日開催された、余市町登地区を中心とするワイン・ブドウ園を巡る農園開放祭「ラフェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ 2023」では、ドメーヌ・ユイのブースで大学時代の仲間がJAZZ生演奏を披露したという!しかも哲哉さんもご自身のドラムセットを使って演奏したのだとか。「このキックの強い感じは哲哉だと一発で分かった」と彩さん。そのコメント、愛があるな~。笑 ▲ Domaine YuiのFacebookアカウントより。「イベントは参加者全員での乾杯でスタートしたんですが、会場全体がすっっっごく盛り上がって、熱気と一体感が最高でした!本当に楽しかった!」と目をキラキラ輝かせて説明してくれた。今年は参加できなかったのだが、行けばよかった…と後悔の念が広がる。 哲哉さんのことを「攻撃的で衝突を厭わず、ストレートで一貫している」と彩さんが評すれば、「闇が深くて陰鬱としているけど、開いた時には得も言われぬ熱情がある」と哲哉さんは彩さん像を説明する。随分性格が異なる2人のようだ。この性格は好きなものにも表れているそうで、哲哉さんのドラムのプレイスタイルが、高速でパワフルなトニー・ウィリアムズ風だとすれば、彩さんはどこかキレイだけど死にそうなところがあるビル・エヴァンズ風だと言う。好きな文学では、哲哉さんが絞り切れないといった風に「村上春樹からスタートした」と語ると、それを制するように、彩さんは「私は三島由紀夫」と断言した上で、「三島由紀夫の『豊饒の海』、特にその第一巻の『春の雪』が好き。夏目漱石の『夢十夜』も好きで、第一夜に出てくる、女性と死と月と花というモチーフがピノ・ノワールを思わせる。闇もありつつ、死にそうで、でもキレイ。破滅に向かう美を感じる」と。彩さんと話しているとアチラの世界に引きずられていきそうになる…。 ▲ 柔らかさの中に芯の強さを感じさせる彩さん。繊細さ故か、「人は好きなのになかなか近付けない。ハリネズミのジレンマ」だと仰る。なんてチャーミングなハリネズミだろう。 ▲ 意志の強さと、選ぶ言葉のキレの良さを感じさせられる哲哉さん。ご自身をワインに例えた際、カリフォルニアのジンファンデルorシャルドネ→オーストラリア、バロッサ・ヴァレーのシラーズ→南アのピノ・ノワールと変遷し、世界を周ってくれた。笑 因みに、映画だと「小津安二郎が好きだ」と哲哉さんがボソっと言ったら、「それは私でしょ!」とダメ出しを食らっていたので、文化面では、彩さんのテイストに哲哉さんがかなり影響を受けているようだ。 右脳と左脳が連動する2人 超が付く文化大好き人間の2人。天才肌の右脳系一筋で来たのかと思ったら、ロジックの左脳の強さも顔を出す。小さいころから絵を描くことが好きだったという哲哉さん。高校生の頃になると、絵だけで食べていくのは難しいと判断し、大学では建築学科で都市計画を学んでいたという。「建築も同じように食べていくのは厳しいんですけどね。苦笑」と言いつつ、卒業後は建築事務所で仕事していたそうだ。 一方の彩さん。ご両親や祖父母の代も学校の先生だったという家庭環境もあり、ご自身も学校の先生になることを夢見ていた少女時代を過ごす。そして大学では物理学科の理学部で実験に明け暮れていたそうだ。ゴリゴリの理系である。 超文系の身からすると、理系脳はかなり羨ましい。左脳を使って仕事をバリバリこなしつつ、右脳系もプロ級の腕前を誇るなんて。天は二物も三物も与えるようだ。...
北海道・余市 Domaine Yui
日本ワインコラム | 北海道・余市 Domaine Yui 子猫がじゃれ合っているようだ。時には、喧嘩か?と心配してしまう激しさで。 かと思えば、がしっと腕と組み、大通りに繰り出すデモ隊の仲間のようでもある。 そして時には、ひっそり部室でお互いの「好き」を持ち込んで、相手の趣味をたたえ合うティーネイジャーのようでもある。 2017年に北海道余市町に移住し、2020年秋に醸造免許を取得したドメーヌ・ユイの杉山哲哉・彩夫妻。真直ぐでちょっと青臭い。自分をよく見せようというそぶりはなく、常に直球勝負の2人はとても勇敢だ。 ▲ ワイナリーと畑は元々リンゴと梨畑だった場所にある。ワイナリーは築50年倉庫をリノベーションして造られたもの。農家からワイナリーへのリノベーションプロジェクトとして、2021年グッドデザイン賞を受賞しただけあり、スタイリッシュな佇まいだ。 「畑見て、ワイナリー見て、っていう一般的なインタビューにはしたくないんですよね」 はっきりとそう仰った。まずは畑やワイナリーを拝見しながら、ブドウ栽培やワイン醸造のこだわりについて話を伺う、というのが通常のインタビューの流れだが、杉山夫妻は違った。 ワインの話もするけど、自分達ってこういう人間なのですっていうのを知ってほしい。 そういう気持ちでグイグイ来られたので、いつもと違うスタイルでお届けしたい。 音楽や文学、映画をこよなく愛する文化人 関東圏出身の2人は、進学先の北海道大学で同じジャズ研究会のサークルに所属。彩さんがピアニスト、哲哉さんがドラマーだ。そして、先日開催された、余市町登地区を中心とするワイン・ブドウ園を巡る農園開放祭「ラフェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ 2023」では、ドメーヌ・ユイのブースで大学時代の仲間がJAZZ生演奏を披露したという!しかも哲哉さんもご自身のドラムセットを使って演奏したのだとか。「このキックの強い感じは哲哉だと一発で分かった」と彩さん。そのコメント、愛があるな~。笑 ▲ Domaine YuiのFacebookアカウントより。「イベントは参加者全員での乾杯でスタートしたんですが、会場全体がすっっっごく盛り上がって、熱気と一体感が最高でした!本当に楽しかった!」と目をキラキラ輝かせて説明してくれた。今年は参加できなかったのだが、行けばよかった…と後悔の念が広がる。 哲哉さんのことを「攻撃的で衝突を厭わず、ストレートで一貫している」と彩さんが評すれば、「闇が深くて陰鬱としているけど、開いた時には得も言われぬ熱情がある」と哲哉さんは彩さん像を説明する。随分性格が異なる2人のようだ。この性格は好きなものにも表れているそうで、哲哉さんのドラムのプレイスタイルが、高速でパワフルなトニー・ウィリアムズ風だとすれば、彩さんはどこかキレイだけど死にそうなところがあるビル・エヴァンズ風だと言う。好きな文学では、哲哉さんが絞り切れないといった風に「村上春樹からスタートした」と語ると、それを制するように、彩さんは「私は三島由紀夫」と断言した上で、「三島由紀夫の『豊饒の海』、特にその第一巻の『春の雪』が好き。夏目漱石の『夢十夜』も好きで、第一夜に出てくる、女性と死と月と花というモチーフがピノ・ノワールを思わせる。闇もありつつ、死にそうで、でもキレイ。破滅に向かう美を感じる」と。彩さんと話しているとアチラの世界に引きずられていきそうになる…。 ▲ 柔らかさの中に芯の強さを感じさせる彩さん。繊細さ故か、「人は好きなのになかなか近付けない。ハリネズミのジレンマ」だと仰る。なんてチャーミングなハリネズミだろう。 ▲ 意志の強さと、選ぶ言葉のキレの良さを感じさせられる哲哉さん。ご自身をワインに例えた際、カリフォルニアのジンファンデルorシャルドネ→オーストラリア、バロッサ・ヴァレーのシラーズ→南アのピノ・ノワールと変遷し、世界を周ってくれた。笑 因みに、映画だと「小津安二郎が好きだ」と哲哉さんがボソっと言ったら、「それは私でしょ!」とダメ出しを食らっていたので、文化面では、彩さんのテイストに哲哉さんがかなり影響を受けているようだ。 右脳と左脳が連動する2人 超が付く文化大好き人間の2人。天才肌の右脳系一筋で来たのかと思ったら、ロジックの左脳の強さも顔を出す。小さいころから絵を描くことが好きだったという哲哉さん。高校生の頃になると、絵だけで食べていくのは難しいと判断し、大学では建築学科で都市計画を学んでいたという。「建築も同じように食べていくのは厳しいんですけどね。苦笑」と言いつつ、卒業後は建築事務所で仕事していたそうだ。 一方の彩さん。ご両親や祖父母の代も学校の先生だったという家庭環境もあり、ご自身も学校の先生になることを夢見ていた少女時代を過ごす。そして大学では物理学科の理学部で実験に明け暮れていたそうだ。ゴリゴリの理系である。 超文系の身からすると、理系脳はかなり羨ましい。左脳を使って仕事をバリバリこなしつつ、右脳系もプロ級の腕前を誇るなんて。天は二物も三物も与えるようだ。...
山形ワインバル2023
日本ワインコラム | 山形ワインバル2023 10周年記念となった「山形ワインバル2023」が7月1日、山形県上山市の上山城周辺で開催された。上山産ブドウを使用したワインや、山形県内外の多種多様なワインが楽しめる東北最大級のワインイベントで、今年は初参加の10社を含む47ワイナリーが出店するという。 10周年記念だし、これは行くしかな~い!ということで、「ラ・フェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ2022」( →イベントの様子はこちらから )の時と同じメンバーで、意気揚々、参加してきた。どうやら鼻息荒く待ち構えていたのは我々だけではなかったようで、今回の参加者は過去最多の約3800人となったそうだ。 ▲ 山形ワインバル イベントサイトより。一度見ると忘れられないキャラクターだ。笑 イベント当日は、朝から沢山の人が「かみのやま温泉駅」に降り立った。東京駅から山形新幹線で約2時間半なので、朝に新幹線に乗ればイベントに十分間に合う。乗り換えも必要ないし、気軽に来られる距離が丁度いい! ▲どこを歩いても人!人!人! 去年は猛暑の中での開催だったそうだが、今年は時々雨がぱらつく曇り空。カラッと晴れた空も捨てがたいが、ワインを飲みながら色々と動き回るので、曇り空で気温が低い方が体力的にはありがたい。 それに曇り空も何のその。色んな人の話し声や笑い声が飛び交うにぎやかさ、出展者と参加者の熱気と気合で、アツイ会場になっているのだ。 花より団子な我々は、飲むこと&食べることに集中し過ぎて見落としていたのだが、浴衣の無料着付けサービスが用意されていて、浴衣姿の参加者をチラホラ目にした。浴衣の艶やかな色が涼を運んでくれ、お祭り感が増してワクワクする。みんな待ちに待っていたんだなぁと思わずにはいられない。 長く続いたアイドリング期間 今でこそ山形ワインの認知度は高く、山形ワインバルの来場者も多いが、この認知度を獲得するまでの道のりは、決して平たんではなかった。 さくらんぼを始めとする果物栽培が盛んな果物王国としても知られる山形県。ブドウ栽培も盛んで、生産量は全国3位。そして、その良質なブドウで造られるワインの生産量は全国4位と、日本ワインにおける重要な産地の一つだ。1870年代には山形県内でワイン造りが始まっていて、ワイン造りの歴史も長い。 その中で、上山市は蔵王連峰の裾野に広がる周囲を山で囲まれた盆地にあり、標高の高い場所に広がるブドウ畑は昼夜の寒暖差が大きく、比較的降雨量も少なく、水はけよく豊かな土壌で、ワイン用ブドウの栽培環境として非常に恵まれた場所だ。上山におけるワイン造りの歴史も長い。老舗「タケダワイナリー」は、明治初期より果樹栽培を開始し、1920年にワイン造りをスタートする。そして、1970年代には全国的にも先駆的に欧州系ワイン品種の栽培に着手、国内外でも高く評価されており、ご存知の方も多いだろう(→タケダワイナリーについてはこちらから )。 ▲ 町を散策していると遠くにブドウ畑が見える。 しかし、である。そこからが長かった。ワインバル開催10周年を記念して開催された「山形ワインバル前夜祭 セッション&グリーティング」で明かされたのだが、ワインバルがスタートした2014年の段階では、依然としてタケダワイナリーが上山で唯一のワイナリーだったそうだ。ポテンシャルの高い上山や山形でワイン造りを目指す人は存在したものの、行政のフォローが殆どなく、他県との競争に負けていたそうだ。今のこの盛り上がりからは信じられない姿である。 昔、非常に有名な醸造家がこの地でワイナリー建設を検討されていたが、結局諦めて他県に移動されたという話も出た…歴史にタラレバはないが、もしあの時…と考えずにはいられない。 上山の産地化に向けて一気呵成に動き出した 誰もがこのままでいいと思っていた訳ではないのだろう。ブドウの造り手やワイナリー、市内の温泉旅館のメンバーや観光物産協会を始めとする観光関係者、金融機関、そして行政等、関係者が集まり知恵を出し合い、様々な取組みを始めていく。2013年にかみのやまワインキックオフイベントを開催し、翌年2014年には「やまがたワインバルinかみのやま温泉」がスタート。2015年には「かみのやまワインの郷プロジェクト」が始動し、ワイン用ブドウの生産拡大や後継者の育成、ワイナリーの育成・誘致、ワインツーリズムやワイン飲食店の開店等、ワインを起点にした地域活性化に向けたワン・ストップでの支援体制を構築した。また、2016年には上山がワイン特区に認定され、産地化に向けた動きが加速し始めたのだ。 この10年でダダダダダダーっとこれまでの遅れを取り戻し、他の産地に負けない支援体制と盛り上がりを見せているという訳だ。その結果、現在上山にあるワイナリーの数は4軒にまで増え、ワイナリー開設を目指す人の流入が続いている他、ブドウ栽培の就農者も増えているという。 こうして、我々が「山形ワインバル」イベントを楽しめるのは、生産者と観光関係者や行政が本音をぶつけ合い、手を取り盛り上げてくれているからなのだ。有難い! 思い切り楽しもう!...
山形ワインバル2023
日本ワインコラム | 山形ワインバル2023 10周年記念となった「山形ワインバル2023」が7月1日、山形県上山市の上山城周辺で開催された。上山産ブドウを使用したワインや、山形県内外の多種多様なワインが楽しめる東北最大級のワインイベントで、今年は初参加の10社を含む47ワイナリーが出店するという。 10周年記念だし、これは行くしかな~い!ということで、「ラ・フェト・デ・ヴィニュロン・ア・ヨイチ2022」( →イベントの様子はこちらから )の時と同じメンバーで、意気揚々、参加してきた。どうやら鼻息荒く待ち構えていたのは我々だけではなかったようで、今回の参加者は過去最多の約3800人となったそうだ。 ▲ 山形ワインバル イベントサイトより。一度見ると忘れられないキャラクターだ。笑 イベント当日は、朝から沢山の人が「かみのやま温泉駅」に降り立った。東京駅から山形新幹線で約2時間半なので、朝に新幹線に乗ればイベントに十分間に合う。乗り換えも必要ないし、気軽に来られる距離が丁度いい! ▲どこを歩いても人!人!人! 去年は猛暑の中での開催だったそうだが、今年は時々雨がぱらつく曇り空。カラッと晴れた空も捨てがたいが、ワインを飲みながら色々と動き回るので、曇り空で気温が低い方が体力的にはありがたい。 それに曇り空も何のその。色んな人の話し声や笑い声が飛び交うにぎやかさ、出展者と参加者の熱気と気合で、アツイ会場になっているのだ。 花より団子な我々は、飲むこと&食べることに集中し過ぎて見落としていたのだが、浴衣の無料着付けサービスが用意されていて、浴衣姿の参加者をチラホラ目にした。浴衣の艶やかな色が涼を運んでくれ、お祭り感が増してワクワクする。みんな待ちに待っていたんだなぁと思わずにはいられない。 長く続いたアイドリング期間 今でこそ山形ワインの認知度は高く、山形ワインバルの来場者も多いが、この認知度を獲得するまでの道のりは、決して平たんではなかった。 さくらんぼを始めとする果物栽培が盛んな果物王国としても知られる山形県。ブドウ栽培も盛んで、生産量は全国3位。そして、その良質なブドウで造られるワインの生産量は全国4位と、日本ワインにおける重要な産地の一つだ。1870年代には山形県内でワイン造りが始まっていて、ワイン造りの歴史も長い。 その中で、上山市は蔵王連峰の裾野に広がる周囲を山で囲まれた盆地にあり、標高の高い場所に広がるブドウ畑は昼夜の寒暖差が大きく、比較的降雨量も少なく、水はけよく豊かな土壌で、ワイン用ブドウの栽培環境として非常に恵まれた場所だ。上山におけるワイン造りの歴史も長い。老舗「タケダワイナリー」は、明治初期より果樹栽培を開始し、1920年にワイン造りをスタートする。そして、1970年代には全国的にも先駆的に欧州系ワイン品種の栽培に着手、国内外でも高く評価されており、ご存知の方も多いだろう(→タケダワイナリーについてはこちらから )。 ▲ 町を散策していると遠くにブドウ畑が見える。 しかし、である。そこからが長かった。ワインバル開催10周年を記念して開催された「山形ワインバル前夜祭 セッション&グリーティング」で明かされたのだが、ワインバルがスタートした2014年の段階では、依然としてタケダワイナリーが上山で唯一のワイナリーだったそうだ。ポテンシャルの高い上山や山形でワイン造りを目指す人は存在したものの、行政のフォローが殆どなく、他県との競争に負けていたそうだ。今のこの盛り上がりからは信じられない姿である。 昔、非常に有名な醸造家がこの地でワイナリー建設を検討されていたが、結局諦めて他県に移動されたという話も出た…歴史にタラレバはないが、もしあの時…と考えずにはいられない。 上山の産地化に向けて一気呵成に動き出した 誰もがこのままでいいと思っていた訳ではないのだろう。ブドウの造り手やワイナリー、市内の温泉旅館のメンバーや観光物産協会を始めとする観光関係者、金融機関、そして行政等、関係者が集まり知恵を出し合い、様々な取組みを始めていく。2013年にかみのやまワインキックオフイベントを開催し、翌年2014年には「やまがたワインバルinかみのやま温泉」がスタート。2015年には「かみのやまワインの郷プロジェクト」が始動し、ワイン用ブドウの生産拡大や後継者の育成、ワイナリーの育成・誘致、ワインツーリズムやワイン飲食店の開店等、ワインを起点にした地域活性化に向けたワン・ストップでの支援体制を構築した。また、2016年には上山がワイン特区に認定され、産地化に向けた動きが加速し始めたのだ。 この10年でダダダダダダーっとこれまでの遅れを取り戻し、他の産地に負けない支援体制と盛り上がりを見せているという訳だ。その結果、現在上山にあるワイナリーの数は4軒にまで増え、ワイナリー開設を目指す人の流入が続いている他、ブドウ栽培の就農者も増えているという。 こうして、我々が「山形ワインバル」イベントを楽しめるのは、生産者と観光関係者や行政が本音をぶつけ合い、手を取り盛り上げてくれているからなのだ。有難い! 思い切り楽しもう!...
長野・ドメーヌ・コーセイ
日本ワインコラム | ドメーヌコーセイ 長野県塩尻市にやってきた。長野県のほぼ中央に位置し、北アルプスの3000m級の山を西に臨む松本盆地の南に位置し、一級河川「奈良井川」とその支流地域にある火山灰質の段丘で、信州桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアだ。標高が高く、昼夜の寒暖差もある一方、日照時間は長く、年間降雨量が少ないこの地はブドウ栽培に適しており、なんと1890年からワイン用ブドウ栽培が行われてきた、日本ワインの先進地だ。 ▲ ドメーヌ・コーセイの畑の一部。整然と並ぶブドウの木と後ろにそびえる山が美しい。 そんな日本ワインの歴史が詰まった塩尻市の片丘地区で、意外な人物が、意外なワインを造っておられる。 今回取材した味村さんだ。山梨大学・大学院でワインの勉強をし、1980年代にはフランスでワインを学び、シャトー・メルシャンという、長い歴史を持った「日本ワインの原点」ともいえる会社で長くワイン醸造の責任者として活躍されてきた。 そんな日本ワイン会の大御所と言える方が、定年を待たずに独立。2016年に塩尻市片丘地区でブドウ栽培を開始し、2019年にご自身の名前を付したワイナリーをオープンしたのだ。気にならない訳がない。その味村さんが選んだ道は、塩尻でのメルロに特化したワイン造り。 ▲ ワイナリーの前に立つ味村さん。D KOSEIと記された樽が味わい深い。 なぜ独立なのか?なぜ塩尻なのか?なぜメルロだけなのか?そこにはロマンティストとリアリストが共存する味村さんだからこそのワイン造りが見えてきた。。 ワインと共にある人生 ワイン以外の趣味はない。ワイン以外のお酒も飲まない。纏まった休みが取れたとしても、ワイン片手にゴロゴロできればそれで満足。 仕事も趣味もワインという味村さん。天職という言葉がこれほどピッタリな方もそうはいないだろう。幼少期は農家になりたくなかったそうなので、目論見が外れたとすれば、ワイン造りの中心に農作業があることくらいだろうか。 山口県岩国市のご出身。ご実家はお酒の業務用卸をされていたそうで、お酒は身近な存在だった。人生の転機は山梨大学および大学院でワインを勉強したこと。その転機をもたらしたのは味村さんの叔父だった。大学でドイツ語の教鞭をとる叔父の薦めで、ドイツ、モーゼルのリースリングを飲み、あまりの美味しさに感動し、ワインの道に進むことを決意したそうだ。以降、45年という長い歳月をワインと共に過ごされている。 ▲ 畑でにこやかに色々と説明して下さる味村さん。どんな質問にも嫌な顔一つせず、答えて下さる。 ▲ ふとした仕草が教授っぽい(笑)? 山梨大学院卒業後、味村さんはメルシャンに入社し研究所での業務をスタートする。1980年代後半にはフランス・ボルドー大学へ派遣され、その後パリ事務所でも勤務された。日本に戻ってからは、メルシャン勝沼工場で醸造責任者として、多数のワインを世に送り出してきた。メルシャンの「甲州きいろ香」という大ヒットした商品をご存知の方もおられるだろう。味村さんが醸造責任者として携わったものだ。 申し分のないアカデミックなバックグラウンドだけでなく、ビジネス面でも大成功を収めた方。軽々しくお話するのが憚られるくらい、巨匠感が凄い…にもかかわらず、味村さんは気さくで優しい。インタビューの合間も、こちらに質問を投げかけて下さり、相手を知ろうとされる姿がフラットで、話しているとついつい偉大な方だということを忘れて、昔からの知人のような感覚になってしまうのだ(おこがましくてスミマセン…)。 ドメーヌ・コーセイの設立~3つのなぜ~ その1:なぜ独立? そんな偉大で気さくな味村さんがメルシャンから独立したのは、定年を2年後に控えた時。人柄や実績に鑑みても社内で味村さんを慕う方は多かっただろうし、長く勤めた会社の居心地も良かっただろうと推測する。このまま2年間普通に勤め上げて、ちょっとゆっくりしようかな、と思うのが世の常、人の常ではないかと思うのだが、味村さんは違う。 「自分の思い描くものを造りたい。」 この思いから独立したと言う。ロマンティストの一面が見えないだろうか?いくら醸造責任者とは言え、やはり組織に属するということは組織の考えに沿ったモノ作りが基本だ。関係者が多くなればなるほど、自分の考えと合致しない点も増えるだろう。長く組織に属していると徐々に感覚が麻痺して、初期に感じたはずの違和感が消えていくことが多いが、味村さんは心の奥底に、「自分だったら…」という思いをずっと忘れずに持っておられたのだと思う。ピュアで真直ぐな気持ちが響く。 ▲ ワイナリーに並ぶドメーヌ・コーセイのワイン。...
長野・ドメーヌ・コーセイ
日本ワインコラム | ドメーヌコーセイ 長野県塩尻市にやってきた。長野県のほぼ中央に位置し、北アルプスの3000m級の山を西に臨む松本盆地の南に位置し、一級河川「奈良井川」とその支流地域にある火山灰質の段丘で、信州桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアだ。標高が高く、昼夜の寒暖差もある一方、日照時間は長く、年間降雨量が少ないこの地はブドウ栽培に適しており、なんと1890年からワイン用ブドウ栽培が行われてきた、日本ワインの先進地だ。 ▲ ドメーヌ・コーセイの畑の一部。整然と並ぶブドウの木と後ろにそびえる山が美しい。 そんな日本ワインの歴史が詰まった塩尻市の片丘地区で、意外な人物が、意外なワインを造っておられる。 今回取材した味村さんだ。山梨大学・大学院でワインの勉強をし、1980年代にはフランスでワインを学び、シャトー・メルシャンという、長い歴史を持った「日本ワインの原点」ともいえる会社で長くワイン醸造の責任者として活躍されてきた。 そんな日本ワイン会の大御所と言える方が、定年を待たずに独立。2016年に塩尻市片丘地区でブドウ栽培を開始し、2019年にご自身の名前を付したワイナリーをオープンしたのだ。気にならない訳がない。その味村さんが選んだ道は、塩尻でのメルロに特化したワイン造り。 ▲ ワイナリーの前に立つ味村さん。D KOSEIと記された樽が味わい深い。 なぜ独立なのか?なぜ塩尻なのか?なぜメルロだけなのか?そこにはロマンティストとリアリストが共存する味村さんだからこそのワイン造りが見えてきた。。 ワインと共にある人生 ワイン以外の趣味はない。ワイン以外のお酒も飲まない。纏まった休みが取れたとしても、ワイン片手にゴロゴロできればそれで満足。 仕事も趣味もワインという味村さん。天職という言葉がこれほどピッタリな方もそうはいないだろう。幼少期は農家になりたくなかったそうなので、目論見が外れたとすれば、ワイン造りの中心に農作業があることくらいだろうか。 山口県岩国市のご出身。ご実家はお酒の業務用卸をされていたそうで、お酒は身近な存在だった。人生の転機は山梨大学および大学院でワインを勉強したこと。その転機をもたらしたのは味村さんの叔父だった。大学でドイツ語の教鞭をとる叔父の薦めで、ドイツ、モーゼルのリースリングを飲み、あまりの美味しさに感動し、ワインの道に進むことを決意したそうだ。以降、45年という長い歳月をワインと共に過ごされている。 ▲ 畑でにこやかに色々と説明して下さる味村さん。どんな質問にも嫌な顔一つせず、答えて下さる。 ▲ ふとした仕草が教授っぽい(笑)? 山梨大学院卒業後、味村さんはメルシャンに入社し研究所での業務をスタートする。1980年代後半にはフランス・ボルドー大学へ派遣され、その後パリ事務所でも勤務された。日本に戻ってからは、メルシャン勝沼工場で醸造責任者として、多数のワインを世に送り出してきた。メルシャンの「甲州きいろ香」という大ヒットした商品をご存知の方もおられるだろう。味村さんが醸造責任者として携わったものだ。 申し分のないアカデミックなバックグラウンドだけでなく、ビジネス面でも大成功を収めた方。軽々しくお話するのが憚られるくらい、巨匠感が凄い…にもかかわらず、味村さんは気さくで優しい。インタビューの合間も、こちらに質問を投げかけて下さり、相手を知ろうとされる姿がフラットで、話しているとついつい偉大な方だということを忘れて、昔からの知人のような感覚になってしまうのだ(おこがましくてスミマセン…)。 ドメーヌ・コーセイの設立~3つのなぜ~ その1:なぜ独立? そんな偉大で気さくな味村さんがメルシャンから独立したのは、定年を2年後に控えた時。人柄や実績に鑑みても社内で味村さんを慕う方は多かっただろうし、長く勤めた会社の居心地も良かっただろうと推測する。このまま2年間普通に勤め上げて、ちょっとゆっくりしようかな、と思うのが世の常、人の常ではないかと思うのだが、味村さんは違う。 「自分の思い描くものを造りたい。」 この思いから独立したと言う。ロマンティストの一面が見えないだろうか?いくら醸造責任者とは言え、やはり組織に属するということは組織の考えに沿ったモノ作りが基本だ。関係者が多くなればなるほど、自分の考えと合致しない点も増えるだろう。長く組織に属していると徐々に感覚が麻痺して、初期に感じたはずの違和感が消えていくことが多いが、味村さんは心の奥底に、「自分だったら…」という思いをずっと忘れずに持っておられたのだと思う。ピュアで真直ぐな気持ちが響く。 ▲ ワイナリーに並ぶドメーヌ・コーセイのワイン。...
長野・ヴォータノワイン
日本ワインコラム | ヴォータノワイン 長野県塩尻市洗馬にあるヴォータノワイン。今回取材させて頂いた坪田さんが50歳を越えて始めたワイナリーで、苗字の「ツボタ」をモジったご自身のニックネーム「ボタ」から、「ボタのワイン」→「Bota no wine」→「Votano Wine」という名称にしたという、くすっと笑えるネーミングを持つところだ。 ▲ まさかVOTANO WINEは「ボタのワイン」という意味だったとは! ▲ 設計事務所のコンサルタントだったという経歴をお持ちで、ワイナリーの入り口も渋い仕上がりだ。 長野県内にはワインバレーが4つあるが、ヴォータノワインが所在する塩尻市は長野県のほぼ中央に位置し、日本ワインの先進地と言われる桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアにある。この地域は日照時間が長く、年間降雨量が少ない。また、ヴォータノワインの畑は標高720m、ワイナリーは770mと標高が高い場所に位置し、昼夜の寒暖差もある。まさに、ワイン用ブドウ栽培に適した場所だ。坪田さんがこの地で畑作りを開始したのが2002年。2007年には委託醸造を始め、そして2012年にワイナリーを開設した。この地でワイン造りを始めた背景やワインとの向き合い方には、坪田さんの人生観や様々な出会いが凝縮されていて、インタビューを終えた頃には、温泉に入った後のように心がぽかぽか芯から温められていた。 25年単位で人生設計する 東京の設計事務所でコンサルタントとして仕事をしていた40代の頃に考えていたことがあるそうだ。その当時、男性の平均寿命は75歳と言われていたこともあり、寿命を3分割して人生設計しようと方針を立てた。25歳までは勉強の時。25歳~50歳まではその勉強を活かす時期。50歳~75歳は更にそれを活かすかリスタートする時期だと。坪田さんはリスタートを選んだ。 ▲ 畑から視線を上に向けると見えた、青空に浮かぶ芸術的な雲。こんな景色を毎日拝めるなんて羨ましい。東京時代は一日100本近く吸っていたタバコは、今では全く吸わなくなったそう。ストレスフルな生活から卒業し、ブドウと向き合う生活を選んだことで健康な体も手に入れたとのこと。リスタートは正解だ! リスタートを選んだきっかけは、40歳前後に奥様と訪れたイタリアンレストランで飲んだバローロ。ずっと気になっていたレストランだったが、高級そうでなかなか入る決心がつかず、3年越しにようやくエイっと入店した。その時に飲んだバローロに感動。お酒好きのお二人はそれまでにも沢山ワインを飲んできたが、「今までのワインは一体何だったのか…!」と衝撃を受けたそうだ。以来、そのワインと比べてどうかという視点でワインを飲むようになり、イタリアにご夫婦で旅行した際は、同じバローロでも美味しいのもあればそうでもないものもあるという発見もした。 衝撃のバローロとの出会いを経て、50歳になったらワインの道に進みたいという希望を持つようになったが、奥様と協議し、お子様が就職するまで待つことに。52歳のタイミングで4人のお子様全員の就職が決まり、晴れてワインの方面に進むことにしたそうだ。 自分の理想を追い求めて 52歳になるのをじっと待っていた訳ではない。45歳頃から日本全国のワイナリーを巡る旅にも出て、イメージを膨らませてきた。北海道から順番に北から南に進む形で、自分が理想とするワインを造っているワイナリーを探し回ったそうだ。 そんな中、ある年のお正月休みを利用して、1月2日からワイナリー見学が可能となっていた栃木県足利市にある「ココ・ファーム・ワイナリー」(以下「ココ・ファーム」)を訪れた。その日は生憎の大雪。当時車の免許がなかった坪田夫妻は電車で訪れたが、車で来訪予定だった他のお客様は全員訪問をキャンセル。その結果、ワイナリーの案内係の方とゆっくり会話することができた。 ▲ ココ・ファーム・ワイナリーについての記事はこちら。 そして、その際テイスティングしたオーク・バレルの赤ワインにビビっときた。非常に美味しく、しかも2000円程度でお手頃価格だったのだ。この価格帯でこんなに美味しいものがあるのかと驚き、その訪問から2週間後に再訪問し、研修生として受け入れてもらいたいと直談判。何度か断られたが、説得を続け、受け入れらえることに。坪田さんの情熱が認められたのだろう。50歳過ぎでのリスタートの幕開けである。 自分が造りたいワインを見つける 当時のココ・ファームには、今や日本ワイン界の代表と評される「10Rワイナリー」のブルース・ガットラヴ氏が醸造責任者として、そして「ドメーヌ・タカヒコ」の曽我貴彦氏が栽培責任者として在籍していた。そんな2人からみっちりとブドウ栽培とワイン醸造のイロハを吸収した坪田さん。日本の最高峰の実地教育を受けたと言っても過言ではないだろう。この2人から教えてもらったことは、今でも心に留め、実践しているそうだ。 ◀ ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦氏。 ドメーヌ・タカヒコについての記事はこちら。>>>...
長野・ヴォータノワイン
日本ワインコラム | ヴォータノワイン 長野県塩尻市洗馬にあるヴォータノワイン。今回取材させて頂いた坪田さんが50歳を越えて始めたワイナリーで、苗字の「ツボタ」をモジったご自身のニックネーム「ボタ」から、「ボタのワイン」→「Bota no wine」→「Votano Wine」という名称にしたという、くすっと笑えるネーミングを持つところだ。 ▲ まさかVOTANO WINEは「ボタのワイン」という意味だったとは! ▲ 設計事務所のコンサルタントだったという経歴をお持ちで、ワイナリーの入り口も渋い仕上がりだ。 長野県内にはワインバレーが4つあるが、ヴォータノワインが所在する塩尻市は長野県のほぼ中央に位置し、日本ワインの先進地と言われる桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアにある。この地域は日照時間が長く、年間降雨量が少ない。また、ヴォータノワインの畑は標高720m、ワイナリーは770mと標高が高い場所に位置し、昼夜の寒暖差もある。まさに、ワイン用ブドウ栽培に適した場所だ。坪田さんがこの地で畑作りを開始したのが2002年。2007年には委託醸造を始め、そして2012年にワイナリーを開設した。この地でワイン造りを始めた背景やワインとの向き合い方には、坪田さんの人生観や様々な出会いが凝縮されていて、インタビューを終えた頃には、温泉に入った後のように心がぽかぽか芯から温められていた。 25年単位で人生設計する 東京の設計事務所でコンサルタントとして仕事をしていた40代の頃に考えていたことがあるそうだ。その当時、男性の平均寿命は75歳と言われていたこともあり、寿命を3分割して人生設計しようと方針を立てた。25歳までは勉強の時。25歳~50歳まではその勉強を活かす時期。50歳~75歳は更にそれを活かすかリスタートする時期だと。坪田さんはリスタートを選んだ。 ▲ 畑から視線を上に向けると見えた、青空に浮かぶ芸術的な雲。こんな景色を毎日拝めるなんて羨ましい。東京時代は一日100本近く吸っていたタバコは、今では全く吸わなくなったそう。ストレスフルな生活から卒業し、ブドウと向き合う生活を選んだことで健康な体も手に入れたとのこと。リスタートは正解だ! リスタートを選んだきっかけは、40歳前後に奥様と訪れたイタリアンレストランで飲んだバローロ。ずっと気になっていたレストランだったが、高級そうでなかなか入る決心がつかず、3年越しにようやくエイっと入店した。その時に飲んだバローロに感動。お酒好きのお二人はそれまでにも沢山ワインを飲んできたが、「今までのワインは一体何だったのか…!」と衝撃を受けたそうだ。以来、そのワインと比べてどうかという視点でワインを飲むようになり、イタリアにご夫婦で旅行した際は、同じバローロでも美味しいのもあればそうでもないものもあるという発見もした。 衝撃のバローロとの出会いを経て、50歳になったらワインの道に進みたいという希望を持つようになったが、奥様と協議し、お子様が就職するまで待つことに。52歳のタイミングで4人のお子様全員の就職が決まり、晴れてワインの方面に進むことにしたそうだ。 自分の理想を追い求めて 52歳になるのをじっと待っていた訳ではない。45歳頃から日本全国のワイナリーを巡る旅にも出て、イメージを膨らませてきた。北海道から順番に北から南に進む形で、自分が理想とするワインを造っているワイナリーを探し回ったそうだ。 そんな中、ある年のお正月休みを利用して、1月2日からワイナリー見学が可能となっていた栃木県足利市にある「ココ・ファーム・ワイナリー」(以下「ココ・ファーム」)を訪れた。その日は生憎の大雪。当時車の免許がなかった坪田夫妻は電車で訪れたが、車で来訪予定だった他のお客様は全員訪問をキャンセル。その結果、ワイナリーの案内係の方とゆっくり会話することができた。 ▲ ココ・ファーム・ワイナリーについての記事はこちら。 そして、その際テイスティングしたオーク・バレルの赤ワインにビビっときた。非常に美味しく、しかも2000円程度でお手頃価格だったのだ。この価格帯でこんなに美味しいものがあるのかと驚き、その訪問から2週間後に再訪問し、研修生として受け入れてもらいたいと直談判。何度か断られたが、説得を続け、受け入れらえることに。坪田さんの情熱が認められたのだろう。50歳過ぎでのリスタートの幕開けである。 自分が造りたいワインを見つける 当時のココ・ファームには、今や日本ワイン界の代表と評される「10Rワイナリー」のブルース・ガットラヴ氏が醸造責任者として、そして「ドメーヌ・タカヒコ」の曽我貴彦氏が栽培責任者として在籍していた。そんな2人からみっちりとブドウ栽培とワイン醸造のイロハを吸収した坪田さん。日本の最高峰の実地教育を受けたと言っても過言ではないだろう。この2人から教えてもらったことは、今でも心に留め、実践しているそうだ。 ◀ ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦氏。 ドメーヌ・タカヒコについての記事はこちら。>>>...
熊本・熊本ワイン
日本ワインコラム | 熊本ワイン 熊本県北部、山鹿市菊鹿町に居を構える熊本ワインファームの菊鹿ワイナリー。大分県と福岡県の県境に近く、阿蘇山の西側に位置する。1999年に創業した熊本ワインファームが菊鹿にワイナリーをオープンしたのは2018年。緑に囲まれた広大な敷地には、ブドウ畑とワイン醸造所の他に、試飲カウンターがあるワインショップやカフェ、ピザやパスタなどのテイクアウトやイートインスペースまで完備されていて、ゆったりと自然と楽しみながら時間を過ごすことができる。 ▲ 手前の赤い屋根にはテイクアウトやイートインスペースがあり、奥のシックな茶色とグレーの建物に醸造所とワインショップ、カフェがある。 ▲ カフェの様子。KIKUKA WINERYと透けて見える文字が素敵。 今回は、この場所で西村さんにお話しをお伺いした。西村さんは、2009年に熊本ワインファームが国際ワイン品評会「ジャパン・ワイン・チャレンジ」の新世界白ワイン部門で日本産初の最優秀賞を獲得したというニュースを聞き、同社に魅力を感じ入社を決意。以来、醸造家としてワインと向き合う日々を過ごされている。 ▲ すらっとした長身にくしゃっとした笑顔とホンワカとした口調が魅力的な西村さん。 サルビアの花が教えてくれた菊鹿町のポテンシャル ▲ サルビアの花。引用 >> HORTIのサイトから。 熊本ワインファームの最初のワイナリーは熊本市内にある熊本ワイナリー。ワイナリーはヒトもカネも必要となる事業だ。もちろんワイン造りにとって肝になるのはブドウ栽培。しかし、いきなり自分達だけでブドウ栽培とワイン醸造を両立させるのは難しい。そこで、ブドウ栽培に適した土地を発掘し、そこの農家さんに栽培をお願いしようと考えた。 県内にある様々な場所を探している中、菊鹿町を訪れた際にサルビアの花が咲いていたのを発見する。しかもとてもきれいな発色だったそう。それを見てピンとくる。これだけキレイに発色しているということは、昼夜の寒暖差があるからに違いない!ということは、ここはブドウ栽培にとってもいい環境に違いない…!と。 信じられない着眼点だ。キレイに咲いている花を見ても、だいたいは「あ~きれいだなぁ。癒されるなぁ。」くらいにしか思わないだろう。しかし、求めるブドウ栽培環境が常に頭の中にあったからこそ、見過ごしてしまってもおかしくない小さな気付きに意味を見出し、点と点が繋がるのだ。心が揺さぶられるストーリーだ。 20年かけて積み上げてきた実績 サルビアをヒントにブドウ栽培に理想的な環境を見つけた。九州地方の他の多くの場所同様、菊鹿も雨が多い。年間2000ミリ強の降雨量があり、雨対策は必須となるが、一方で、年間日照時間が2000時間を超えるので、ブドウの熟度は上がる。また、寒暖差によるブドウの着色や味わいの複雑さが得られるといるメリットもある。環境がよければ、直ぐにビジネスが好転するかというと、そう簡単な話ではない。そもそも、菊鹿町の農家は栗やたばこ、アスパラガスやイチゴといった作物の栽培経験はあっても、ブドウの栽培経験はなかった。そのため、試行錯誤の連続だった。土壌の排水性を上げるための暗渠や雨除けのレインカット、畝づくり、土壌改良等。契約農家の方々と研鑽を積み、二人三脚でブドウ栽培に精を出したのだ。 当初、3-4軒しかなかった契約農家の数は、今では30軒まで増えたそう。栽培面積で見ると50-60aだったのが9haまで拡大した。契約農家に任せっきりにしないで、一緒に頭をひねり、汗をかいて作業したからこそ、その姿勢に賛同する農家が増えていったのだろう。並行してワイン醸造技術も磨き続け、特に菊鹿産のシャルドネで造るワインには自信を持てるようになった。 ▲ 数々の賞を受賞している熊本ワイン。菊鹿のシャルドネには自信がある! ブドウにも人にも優しい環境づくり 熊本ワイナリーが出来て20年程経過した。ワイナリーが熊本市内にあることから、菊鹿で育ったブドウをワイナリーまで運ぶには車で1時間ほど要してしまう。やはり、より良いワインを造るために、栽培地に近い醸造所を。そういう思いから、2018年に2番目の醸造所となる菊鹿ワイナリーを設立することになった。また、20年間契約農家さんとがっちりブドウ栽培をやってきた経験もあったことから、このタイミングでワイナリーだけでなく、自社畑を併設することになったのだ。 現在の自社畑の広さは1.5ha。今後3~5年かけて同じ菊鹿町内で畑を拡張していきたい考えだ。 これまで契約農家と共に培ってきたブドウ栽培のノウハウがあるからこそ、 「人にもブドウにも優しい、持続可能な環境を整えた。省力化しつつ収量が取れる体制にした。」...
熊本・熊本ワイン
日本ワインコラム | 熊本ワイン 熊本県北部、山鹿市菊鹿町に居を構える熊本ワインファームの菊鹿ワイナリー。大分県と福岡県の県境に近く、阿蘇山の西側に位置する。1999年に創業した熊本ワインファームが菊鹿にワイナリーをオープンしたのは2018年。緑に囲まれた広大な敷地には、ブドウ畑とワイン醸造所の他に、試飲カウンターがあるワインショップやカフェ、ピザやパスタなどのテイクアウトやイートインスペースまで完備されていて、ゆったりと自然と楽しみながら時間を過ごすことができる。 ▲ 手前の赤い屋根にはテイクアウトやイートインスペースがあり、奥のシックな茶色とグレーの建物に醸造所とワインショップ、カフェがある。 ▲ カフェの様子。KIKUKA WINERYと透けて見える文字が素敵。 今回は、この場所で西村さんにお話しをお伺いした。西村さんは、2009年に熊本ワインファームが国際ワイン品評会「ジャパン・ワイン・チャレンジ」の新世界白ワイン部門で日本産初の最優秀賞を獲得したというニュースを聞き、同社に魅力を感じ入社を決意。以来、醸造家としてワインと向き合う日々を過ごされている。 ▲ すらっとした長身にくしゃっとした笑顔とホンワカとした口調が魅力的な西村さん。 サルビアの花が教えてくれた菊鹿町のポテンシャル ▲ サルビアの花。引用 >> HORTIのサイトから。 熊本ワインファームの最初のワイナリーは熊本市内にある熊本ワイナリー。ワイナリーはヒトもカネも必要となる事業だ。もちろんワイン造りにとって肝になるのはブドウ栽培。しかし、いきなり自分達だけでブドウ栽培とワイン醸造を両立させるのは難しい。そこで、ブドウ栽培に適した土地を発掘し、そこの農家さんに栽培をお願いしようと考えた。 県内にある様々な場所を探している中、菊鹿町を訪れた際にサルビアの花が咲いていたのを発見する。しかもとてもきれいな発色だったそう。それを見てピンとくる。これだけキレイに発色しているということは、昼夜の寒暖差があるからに違いない!ということは、ここはブドウ栽培にとってもいい環境に違いない…!と。 信じられない着眼点だ。キレイに咲いている花を見ても、だいたいは「あ~きれいだなぁ。癒されるなぁ。」くらいにしか思わないだろう。しかし、求めるブドウ栽培環境が常に頭の中にあったからこそ、見過ごしてしまってもおかしくない小さな気付きに意味を見出し、点と点が繋がるのだ。心が揺さぶられるストーリーだ。 20年かけて積み上げてきた実績 サルビアをヒントにブドウ栽培に理想的な環境を見つけた。九州地方の他の多くの場所同様、菊鹿も雨が多い。年間2000ミリ強の降雨量があり、雨対策は必須となるが、一方で、年間日照時間が2000時間を超えるので、ブドウの熟度は上がる。また、寒暖差によるブドウの着色や味わいの複雑さが得られるといるメリットもある。環境がよければ、直ぐにビジネスが好転するかというと、そう簡単な話ではない。そもそも、菊鹿町の農家は栗やたばこ、アスパラガスやイチゴといった作物の栽培経験はあっても、ブドウの栽培経験はなかった。そのため、試行錯誤の連続だった。土壌の排水性を上げるための暗渠や雨除けのレインカット、畝づくり、土壌改良等。契約農家の方々と研鑽を積み、二人三脚でブドウ栽培に精を出したのだ。 当初、3-4軒しかなかった契約農家の数は、今では30軒まで増えたそう。栽培面積で見ると50-60aだったのが9haまで拡大した。契約農家に任せっきりにしないで、一緒に頭をひねり、汗をかいて作業したからこそ、その姿勢に賛同する農家が増えていったのだろう。並行してワイン醸造技術も磨き続け、特に菊鹿産のシャルドネで造るワインには自信を持てるようになった。 ▲ 数々の賞を受賞している熊本ワイン。菊鹿のシャルドネには自信がある! ブドウにも人にも優しい環境づくり 熊本ワイナリーが出来て20年程経過した。ワイナリーが熊本市内にあることから、菊鹿で育ったブドウをワイナリーまで運ぶには車で1時間ほど要してしまう。やはり、より良いワインを造るために、栽培地に近い醸造所を。そういう思いから、2018年に2番目の醸造所となる菊鹿ワイナリーを設立することになった。また、20年間契約農家さんとがっちりブドウ栽培をやってきた経験もあったことから、このタイミングでワイナリーだけでなく、自社畑を併設することになったのだ。 現在の自社畑の広さは1.5ha。今後3~5年かけて同じ菊鹿町内で畑を拡張していきたい考えだ。 これまで契約農家と共に培ってきたブドウ栽培のノウハウがあるからこそ、 「人にもブドウにも優しい、持続可能な環境を整えた。省力化しつつ収量が取れる体制にした。」...
宮崎・都農ワイン
日本ワインコラム | 都農ワイン 宮崎空港に到着した。生憎の空模様だったが、空港から外にでるとヤシの木が並び、南国感が溢れている。 今回お邪魔した都農ワインは、宮崎空港から車で北に1時間弱程走らせた先の都農町にある。東に日向灘、西に尾鈴連山がある場所だ。西高東低の牧内台地にあるワイナリーは標高150-200mに位置し、4㎞先にあるという海も眺められる絶景ポイントでもある。ワイナリーで働くサーファー達が、海の状態を常にチェックしているそうで、時々いてもたってもいられず、お休みを取って海に繰り出してしまうほど。サーファーの聖地でもあるようだ。 そしてインタビューのお相手は、1994年の都農ワイン設立時点から、社長と二人三脚で苦楽を共にしてきた赤尾さん。ポニーテールにまとめられた髪と力強いまなざしがイタリア人男性のようで、色気が漂う御方です(ミーハーで申し訳ありません。苦笑)。 ▲ 都農ワイナリー入り口。アットホームな雰囲気が漂う。 ▲ 口調は穏やかで、時折クスっと静かに笑う赤尾さん。このただならぬ雰囲気にやられてしまう。 ワインは地酒であるべき 都農はワイン産地として決して恵まれているとは言えない。雨が多く、台風が頻発するこの地域は、「日本一不適地」と赤尾さんが評するほど、ブドウ栽培に不向きな土地だ。そんな場所であっても、海外メディアで高評価を受け、国内外の品評会でも数多くの賞を受賞している。何か秘密がありそうだ。 永友百二~ひとりの想いがきっかけに そもそも、なぜ、この地でワインが造られるようになったのか? 戦後間もない1953年前後まで時は遡る。尾鈴山から流れる名貫川付近には、ゴロタ石という丸い石が広がり、その上に火山灰土壌が堆積した畑が広がる。地が浅く水漏れが頻繁に起こる場所で稲作が行われていたこともあり、水を巡る争いも多かった。そんな中、永友百二という一人の農家が争いを抑えるべく、稲作に頼らない農業を目指し、19歳で梨の栽培を始めた。雨の多い都農で果樹栽培は不可能と言われ、「田んぼに木を植えるなんて」と周囲から非難もあったそうだが、研鑽を積み、全国梨品評会で一等を受賞するほどの実績を上げる。そして、終戦後はブドウ栽培にも着手。当時の文献に「ぶどう酒仕込み」の文字もあり、ワインも造られていたようだ。 温暖で冬が短い都農町でのブドウ栽培は、ブドウの萌芽も早く、お盆前には収穫されるという。なんとスイカの隣にブドウが並ぶらしい。目を疑いそうだ!いち早くブドウを出荷できるという特異性もあり高値でブドウが販売されたことから、ブドウ栽培は人気を呼び、多くの農家が後を追った。しかし、一方で、シーズンが過ぎるとブドウの価値がガクッと下がるという問題点も抱えていた。 ▲ 永友百二氏の名と志を受け継いだスパークリングワイン「Hyakuzi」。購入はこちらから。 ▲ 「Hyakuzi」のキャップシール張りの体験をさせて頂いた。変な仕上がりになっていないといいのだが… 地元のみんなで協力して この問題を解決する手立てはないか。あるブドウ農家が都農町長を務めた際、地元産のブドウを使ったワイナリー設立の構想がスタートする。地元の農家と都農町が一体となり、醸造用ブドウの栽培を開始、ついに1994年に第三セクターで都農ワインが誕生する。そして2年後にはワイナリーが創設され自社醸造が開始する。 この都農ワインの歴史の幕開けに最前線で関与していたのが、当時18歳の赤尾さんだ。19歳で梨の栽培を始めた永友百二氏と重ならないだろうか?赤尾さんは、地元の農業高校で食品化学を学んでいた。将来はすし職人になりたいと思っていたが、ワイナリー設立のための技術者募集を目にし、応募したそうだ。 「机の上で勉強する1年よりも、作業しながら勉強する1年の方が大事」 と仰る赤尾さん。ブドウ栽培とワイン醸造に携わってから、物凄いスピードで技術やノウハウを吸収・発展されたのだろう。ワイナリー設立から10年間ひたむきに、そしてがむしゃらにワイン造りに向き合ってきた。 それでも、悩みはあった。「どうしてわざわざ都農でワインを造るのですか?ワイン造りに適した場所は他にあるでしょう?」この問いに、真正面から答えられない自分がいたのだ。 ▲ 確かに雨も台風も多い都農。この地でブドウ栽培・ワイン造りに向き合う皆さんには頭が下がる思いだ。 迷いは晴れる~オーストラリアでの気付き 転機は2006年に訪れた。日本代表としてただ一人、オーストラリアのワイナリーへ3カ月間の研修に送られたのだ。多数の醸造家の中から、日本のワイン産地として名高い山梨や長野といった場所ではなく、日本一不適地と評される都農から赤尾さんが選ばれた。ただただ素晴らしいとしか言いようがないが、現場で学び、気付きを咀嚼し、仮説を立ててまた実践に移す。そういう独自性と真摯な姿勢が光っていたのではないだろうか。オーストラリアもワインの世界ではニュー・ワールドに位置し、オールド・ワールドの伝統と最先端の技術をうまく掛け合わせてワインを産出している地域だ。出会うべくして出会ったのだろうと思う。...
宮崎・都農ワイン
日本ワインコラム | 都農ワイン 宮崎空港に到着した。生憎の空模様だったが、空港から外にでるとヤシの木が並び、南国感が溢れている。 今回お邪魔した都農ワインは、宮崎空港から車で北に1時間弱程走らせた先の都農町にある。東に日向灘、西に尾鈴連山がある場所だ。西高東低の牧内台地にあるワイナリーは標高150-200mに位置し、4㎞先にあるという海も眺められる絶景ポイントでもある。ワイナリーで働くサーファー達が、海の状態を常にチェックしているそうで、時々いてもたってもいられず、お休みを取って海に繰り出してしまうほど。サーファーの聖地でもあるようだ。 そしてインタビューのお相手は、1994年の都農ワイン設立時点から、社長と二人三脚で苦楽を共にしてきた赤尾さん。ポニーテールにまとめられた髪と力強いまなざしがイタリア人男性のようで、色気が漂う御方です(ミーハーで申し訳ありません。苦笑)。 ▲ 都農ワイナリー入り口。アットホームな雰囲気が漂う。 ▲ 口調は穏やかで、時折クスっと静かに笑う赤尾さん。このただならぬ雰囲気にやられてしまう。 ワインは地酒であるべき 都農はワイン産地として決して恵まれているとは言えない。雨が多く、台風が頻発するこの地域は、「日本一不適地」と赤尾さんが評するほど、ブドウ栽培に不向きな土地だ。そんな場所であっても、海外メディアで高評価を受け、国内外の品評会でも数多くの賞を受賞している。何か秘密がありそうだ。 永友百二~ひとりの想いがきっかけに そもそも、なぜ、この地でワインが造られるようになったのか? 戦後間もない1953年前後まで時は遡る。尾鈴山から流れる名貫川付近には、ゴロタ石という丸い石が広がり、その上に火山灰土壌が堆積した畑が広がる。地が浅く水漏れが頻繁に起こる場所で稲作が行われていたこともあり、水を巡る争いも多かった。そんな中、永友百二という一人の農家が争いを抑えるべく、稲作に頼らない農業を目指し、19歳で梨の栽培を始めた。雨の多い都農で果樹栽培は不可能と言われ、「田んぼに木を植えるなんて」と周囲から非難もあったそうだが、研鑽を積み、全国梨品評会で一等を受賞するほどの実績を上げる。そして、終戦後はブドウ栽培にも着手。当時の文献に「ぶどう酒仕込み」の文字もあり、ワインも造られていたようだ。 温暖で冬が短い都農町でのブドウ栽培は、ブドウの萌芽も早く、お盆前には収穫されるという。なんとスイカの隣にブドウが並ぶらしい。目を疑いそうだ!いち早くブドウを出荷できるという特異性もあり高値でブドウが販売されたことから、ブドウ栽培は人気を呼び、多くの農家が後を追った。しかし、一方で、シーズンが過ぎるとブドウの価値がガクッと下がるという問題点も抱えていた。 ▲ 永友百二氏の名と志を受け継いだスパークリングワイン「Hyakuzi」。購入はこちらから。 ▲ 「Hyakuzi」のキャップシール張りの体験をさせて頂いた。変な仕上がりになっていないといいのだが… 地元のみんなで協力して この問題を解決する手立てはないか。あるブドウ農家が都農町長を務めた際、地元産のブドウを使ったワイナリー設立の構想がスタートする。地元の農家と都農町が一体となり、醸造用ブドウの栽培を開始、ついに1994年に第三セクターで都農ワインが誕生する。そして2年後にはワイナリーが創設され自社醸造が開始する。 この都農ワインの歴史の幕開けに最前線で関与していたのが、当時18歳の赤尾さんだ。19歳で梨の栽培を始めた永友百二氏と重ならないだろうか?赤尾さんは、地元の農業高校で食品化学を学んでいた。将来はすし職人になりたいと思っていたが、ワイナリー設立のための技術者募集を目にし、応募したそうだ。 「机の上で勉強する1年よりも、作業しながら勉強する1年の方が大事」 と仰る赤尾さん。ブドウ栽培とワイン醸造に携わってから、物凄いスピードで技術やノウハウを吸収・発展されたのだろう。ワイナリー設立から10年間ひたむきに、そしてがむしゃらにワイン造りに向き合ってきた。 それでも、悩みはあった。「どうしてわざわざ都農でワインを造るのですか?ワイン造りに適した場所は他にあるでしょう?」この問いに、真正面から答えられない自分がいたのだ。 ▲ 確かに雨も台風も多い都農。この地でブドウ栽培・ワイン造りに向き合う皆さんには頭が下がる思いだ。 迷いは晴れる~オーストラリアでの気付き 転機は2006年に訪れた。日本代表としてただ一人、オーストラリアのワイナリーへ3カ月間の研修に送られたのだ。多数の醸造家の中から、日本のワイン産地として名高い山梨や長野といった場所ではなく、日本一不適地と評される都農から赤尾さんが選ばれた。ただただ素晴らしいとしか言いようがないが、現場で学び、気付きを咀嚼し、仮説を立ててまた実践に移す。そういう独自性と真摯な姿勢が光っていたのではないだろうか。オーストラリアもワインの世界ではニュー・ワールドに位置し、オールド・ワールドの伝統と最先端の技術をうまく掛け合わせてワインを産出している地域だ。出会うべくして出会ったのだろうと思う。...