日本ワインコラム

THE CELLAR ワイン特集
長野・ドメーヌ・コーセイ

長野・ドメーヌ・コーセイ

日本ワインコラム | ドメーヌコーセイ 長野県塩尻市にやってきた。長野県のほぼ中央に位置し、北アルプスの3000m級の山を西に臨む松本盆地の南に位置し、一級河川「奈良井川」とその支流地域にある火山灰質の段丘で、信州桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアだ。標高が高く、昼夜の寒暖差もある一方、日照時間は長く、年間降雨量が少ないこの地はブドウ栽培に適しており、なんと1890年からワイン用ブドウ栽培が行われてきた、日本ワインの先進地だ。 ▲ ドメーヌ・コーセイの畑の一部。整然と並ぶブドウの木と後ろにそびえる山が美しい。 そんな日本ワインの歴史が詰まった塩尻市の片丘地区で、意外な人物が、意外なワインを造っておられる。 今回取材した味村さんだ。山梨大学・大学院でワインの勉強をし、1980年代にはフランスでワインを学び、シャトー・メルシャンという、長い歴史を持った「日本ワインの原点」ともいえる会社で長くワイン醸造の責任者として活躍されてきた。 そんな日本ワイン会の大御所と言える方が、定年を待たずに独立。2016年に塩尻市片丘地区でブドウ栽培を開始し、2019年にご自身の名前を付したワイナリーをオープンしたのだ。気にならない訳がない。その味村さんが選んだ道は、塩尻でのメルロに特化したワイン造り。 ▲ ワイナリーの前に立つ味村さん。D KOSEIと記された樽が味わい深い。 なぜ独立なのか?なぜ塩尻なのか?なぜメルロだけなのか?そこにはロマンティストとリアリストが共存する味村さんだからこそのワイン造りが見えてきた。。 ワインと共にある人生 ワイン以外の趣味はない。ワイン以外のお酒も飲まない。纏まった休みが取れたとしても、ワイン片手にゴロゴロできればそれで満足。 仕事も趣味もワインという味村さん。天職という言葉がこれほどピッタリな方もそうはいないだろう。幼少期は農家になりたくなかったそうなので、目論見が外れたとすれば、ワイン造りの中心に農作業があることくらいだろうか。 山口県岩国市のご出身。ご実家はお酒の業務用卸をされていたそうで、お酒は身近な存在だった。人生の転機は山梨大学および大学院でワインを勉強したこと。その転機をもたらしたのは味村さんの叔父だった。大学でドイツ語の教鞭をとる叔父の薦めで、ドイツ、モーゼルのリースリングを飲み、あまりの美味しさに感動し、ワインの道に進むことを決意したそうだ。以降、45年という長い歳月をワインと共に過ごされている。 ▲ 畑でにこやかに色々と説明して下さる味村さん。どんな質問にも嫌な顔一つせず、答えて下さる。 ▲ ふとした仕草が教授っぽい(笑)? 山梨大学院卒業後、味村さんはメルシャンに入社し研究所での業務をスタートする。1980年代後半にはフランス・ボルドー大学へ派遣され、その後パリ事務所でも勤務された。日本に戻ってからは、メルシャン勝沼工場で醸造責任者として、多数のワインを世に送り出してきた。メルシャンの「甲州きいろ香」という大ヒットした商品をご存知の方もおられるだろう。味村さんが醸造責任者として携わったものだ。 申し分のないアカデミックなバックグラウンドだけでなく、ビジネス面でも大成功を収めた方。軽々しくお話するのが憚られるくらい、巨匠感が凄い…にもかかわらず、味村さんは気さくで優しい。インタビューの合間も、こちらに質問を投げかけて下さり、相手を知ろうとされる姿がフラットで、話しているとついつい偉大な方だということを忘れて、昔からの知人のような感覚になってしまうのだ(おこがましくてスミマセン…)。 ドメーヌ・コーセイの設立~3つのなぜ~ その1:なぜ独立? そんな偉大で気さくな味村さんがメルシャンから独立したのは、定年を2年後に控えた時。人柄や実績に鑑みても社内で味村さんを慕う方は多かっただろうし、長く勤めた会社の居心地も良かっただろうと推測する。このまま2年間普通に勤め上げて、ちょっとゆっくりしようかな、と思うのが世の常、人の常ではないかと思うのだが、味村さんは違う。 「自分の思い描くものを造りたい。」 この思いから独立したと言う。ロマンティストの一面が見えないだろうか?いくら醸造責任者とは言え、やはり組織に属するということは組織の考えに沿ったモノ作りが基本だ。関係者が多くなればなるほど、自分の考えと合致しない点も増えるだろう。長く組織に属していると徐々に感覚が麻痺して、初期に感じたはずの違和感が消えていくことが多いが、味村さんは心の奥底に、「自分だったら…」という思いをずっと忘れずに持っておられたのだと思う。ピュアで真直ぐな気持ちが響く。 ▲ ワイナリーに並ぶドメーヌ・コーセイのワイン。...

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長野・ドメーヌ・コーセイ

日本ワインコラム | ドメーヌコーセイ 長野県塩尻市にやってきた。長野県のほぼ中央に位置し、北アルプスの3000m級の山を西に臨む松本盆地の南に位置し、一級河川「奈良井川」とその支流地域にある火山灰質の段丘で、信州桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアだ。標高が高く、昼夜の寒暖差もある一方、日照時間は長く、年間降雨量が少ないこの地はブドウ栽培に適しており、なんと1890年からワイン用ブドウ栽培が行われてきた、日本ワインの先進地だ。 ▲ ドメーヌ・コーセイの畑の一部。整然と並ぶブドウの木と後ろにそびえる山が美しい。 そんな日本ワインの歴史が詰まった塩尻市の片丘地区で、意外な人物が、意外なワインを造っておられる。 今回取材した味村さんだ。山梨大学・大学院でワインの勉強をし、1980年代にはフランスでワインを学び、シャトー・メルシャンという、長い歴史を持った「日本ワインの原点」ともいえる会社で長くワイン醸造の責任者として活躍されてきた。 そんな日本ワイン会の大御所と言える方が、定年を待たずに独立。2016年に塩尻市片丘地区でブドウ栽培を開始し、2019年にご自身の名前を付したワイナリーをオープンしたのだ。気にならない訳がない。その味村さんが選んだ道は、塩尻でのメルロに特化したワイン造り。 ▲ ワイナリーの前に立つ味村さん。D KOSEIと記された樽が味わい深い。 なぜ独立なのか?なぜ塩尻なのか?なぜメルロだけなのか?そこにはロマンティストとリアリストが共存する味村さんだからこそのワイン造りが見えてきた。。 ワインと共にある人生 ワイン以外の趣味はない。ワイン以外のお酒も飲まない。纏まった休みが取れたとしても、ワイン片手にゴロゴロできればそれで満足。 仕事も趣味もワインという味村さん。天職という言葉がこれほどピッタリな方もそうはいないだろう。幼少期は農家になりたくなかったそうなので、目論見が外れたとすれば、ワイン造りの中心に農作業があることくらいだろうか。 山口県岩国市のご出身。ご実家はお酒の業務用卸をされていたそうで、お酒は身近な存在だった。人生の転機は山梨大学および大学院でワインを勉強したこと。その転機をもたらしたのは味村さんの叔父だった。大学でドイツ語の教鞭をとる叔父の薦めで、ドイツ、モーゼルのリースリングを飲み、あまりの美味しさに感動し、ワインの道に進むことを決意したそうだ。以降、45年という長い歳月をワインと共に過ごされている。 ▲ 畑でにこやかに色々と説明して下さる味村さん。どんな質問にも嫌な顔一つせず、答えて下さる。 ▲ ふとした仕草が教授っぽい(笑)? 山梨大学院卒業後、味村さんはメルシャンに入社し研究所での業務をスタートする。1980年代後半にはフランス・ボルドー大学へ派遣され、その後パリ事務所でも勤務された。日本に戻ってからは、メルシャン勝沼工場で醸造責任者として、多数のワインを世に送り出してきた。メルシャンの「甲州きいろ香」という大ヒットした商品をご存知の方もおられるだろう。味村さんが醸造責任者として携わったものだ。 申し分のないアカデミックなバックグラウンドだけでなく、ビジネス面でも大成功を収めた方。軽々しくお話するのが憚られるくらい、巨匠感が凄い…にもかかわらず、味村さんは気さくで優しい。インタビューの合間も、こちらに質問を投げかけて下さり、相手を知ろうとされる姿がフラットで、話しているとついつい偉大な方だということを忘れて、昔からの知人のような感覚になってしまうのだ(おこがましくてスミマセン…)。 ドメーヌ・コーセイの設立~3つのなぜ~ その1:なぜ独立? そんな偉大で気さくな味村さんがメルシャンから独立したのは、定年を2年後に控えた時。人柄や実績に鑑みても社内で味村さんを慕う方は多かっただろうし、長く勤めた会社の居心地も良かっただろうと推測する。このまま2年間普通に勤め上げて、ちょっとゆっくりしようかな、と思うのが世の常、人の常ではないかと思うのだが、味村さんは違う。 「自分の思い描くものを造りたい。」 この思いから独立したと言う。ロマンティストの一面が見えないだろうか?いくら醸造責任者とは言え、やはり組織に属するということは組織の考えに沿ったモノ作りが基本だ。関係者が多くなればなるほど、自分の考えと合致しない点も増えるだろう。長く組織に属していると徐々に感覚が麻痺して、初期に感じたはずの違和感が消えていくことが多いが、味村さんは心の奥底に、「自分だったら…」という思いをずっと忘れずに持っておられたのだと思う。ピュアで真直ぐな気持ちが響く。 ▲ ワイナリーに並ぶドメーヌ・コーセイのワイン。...

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長野・ヴォータノワイン

長野・ヴォータノワイン

日本ワインコラム | ヴォータノワイン 長野県塩尻市洗馬にあるヴォータノワイン。今回取材させて頂いた坪田さんが50歳を越えて始めたワイナリーで、苗字の「ツボタ」をモジったご自身のニックネーム「ボタ」から、「ボタのワイン」→「Bota no wine」→「Votano Wine」という名称にしたという、くすっと笑えるネーミングを持つところだ。 ▲ まさかVOTANO WINEは「ボタのワイン」という意味だったとは! ▲ 設計事務所のコンサルタントだったという経歴をお持ちで、ワイナリーの入り口も渋い仕上がりだ。 長野県内にはワインバレーが4つあるが、ヴォータノワインが所在する塩尻市は長野県のほぼ中央に位置し、日本ワインの先進地と言われる桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアにある。この地域は日照時間が長く、年間降雨量が少ない。また、ヴォータノワインの畑は標高720m、ワイナリーは770mと標高が高い場所に位置し、昼夜の寒暖差もある。まさに、ワイン用ブドウ栽培に適した場所だ。坪田さんがこの地で畑作りを開始したのが2002年。2007年には委託醸造を始め、そして2012年にワイナリーを開設した。この地でワイン造りを始めた背景やワインとの向き合い方には、坪田さんの人生観や様々な出会いが凝縮されていて、インタビューを終えた頃には、温泉に入った後のように心がぽかぽか芯から温められていた。 25年単位で人生設計する 東京の設計事務所でコンサルタントとして仕事をしていた40代の頃に考えていたことがあるそうだ。その当時、男性の平均寿命は75歳と言われていたこともあり、寿命を3分割して人生設計しようと方針を立てた。25歳までは勉強の時。25歳~50歳まではその勉強を活かす時期。50歳~75歳は更にそれを活かすかリスタートする時期だと。坪田さんはリスタートを選んだ。 ▲ 畑から視線を上に向けると見えた、青空に浮かぶ芸術的な雲。こんな景色を毎日拝めるなんて羨ましい。東京時代は一日100本近く吸っていたタバコは、今では全く吸わなくなったそう。ストレスフルな生活から卒業し、ブドウと向き合う生活を選んだことで健康な体も手に入れたとのこと。リスタートは正解だ! リスタートを選んだきっかけは、40歳前後に奥様と訪れたイタリアンレストランで飲んだバローロ。ずっと気になっていたレストランだったが、高級そうでなかなか入る決心がつかず、3年越しにようやくエイっと入店した。その時に飲んだバローロに感動。お酒好きのお二人はそれまでにも沢山ワインを飲んできたが、「今までのワインは一体何だったのか…!」と衝撃を受けたそうだ。以来、そのワインと比べてどうかという視点でワインを飲むようになり、イタリアにご夫婦で旅行した際は、同じバローロでも美味しいのもあればそうでもないものもあるという発見もした。 衝撃のバローロとの出会いを経て、50歳になったらワインの道に進みたいという希望を持つようになったが、奥様と協議し、お子様が就職するまで待つことに。52歳のタイミングで4人のお子様全員の就職が決まり、晴れてワインの方面に進むことにしたそうだ。 自分の理想を追い求めて 52歳になるのをじっと待っていた訳ではない。45歳頃から日本全国のワイナリーを巡る旅にも出て、イメージを膨らませてきた。北海道から順番に北から南に進む形で、自分が理想とするワインを造っているワイナリーを探し回ったそうだ。 そんな中、ある年のお正月休みを利用して、1月2日からワイナリー見学が可能となっていた栃木県足利市にある「ココ・ファーム・ワイナリー」(以下「ココ・ファーム」)を訪れた。その日は生憎の大雪。当時車の免許がなかった坪田夫妻は電車で訪れたが、車で来訪予定だった他のお客様は全員訪問をキャンセル。その結果、ワイナリーの案内係の方とゆっくり会話することができた。 ▲ ココ・ファーム・ワイナリーについての記事はこちら。 そして、その際テイスティングしたオーク・バレルの赤ワインにビビっときた。非常に美味しく、しかも2000円程度でお手頃価格だったのだ。この価格帯でこんなに美味しいものがあるのかと驚き、その訪問から2週間後に再訪問し、研修生として受け入れてもらいたいと直談判。何度か断られたが、説得を続け、受け入れらえることに。坪田さんの情熱が認められたのだろう。50歳過ぎでのリスタートの幕開けである。 自分が造りたいワインを見つける 当時のココ・ファームには、今や日本ワイン界の代表と評される「10Rワイナリー」のブルース・ガットラヴ氏が醸造責任者として、そして「ドメーヌ・タカヒコ」の曽我貴彦氏が栽培責任者として在籍していた。そんな2人からみっちりとブドウ栽培とワイン醸造のイロハを吸収した坪田さん。日本の最高峰の実地教育を受けたと言っても過言ではないだろう。この2人から教えてもらったことは、今でも心に留め、実践しているそうだ。 ◀ ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦氏。 ドメーヌ・タカヒコについての記事はこちら。>>>...

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長野・ヴォータノワイン

日本ワインコラム | ヴォータノワイン 長野県塩尻市洗馬にあるヴォータノワイン。今回取材させて頂いた坪田さんが50歳を越えて始めたワイナリーで、苗字の「ツボタ」をモジったご自身のニックネーム「ボタ」から、「ボタのワイン」→「Bota no wine」→「Votano Wine」という名称にしたという、くすっと笑えるネーミングを持つところだ。 ▲ まさかVOTANO WINEは「ボタのワイン」という意味だったとは! ▲ 設計事務所のコンサルタントだったという経歴をお持ちで、ワイナリーの入り口も渋い仕上がりだ。 長野県内にはワインバレーが4つあるが、ヴォータノワインが所在する塩尻市は長野県のほぼ中央に位置し、日本ワインの先進地と言われる桔梗ヶ原ワインバレーと称されるエリアにある。この地域は日照時間が長く、年間降雨量が少ない。また、ヴォータノワインの畑は標高720m、ワイナリーは770mと標高が高い場所に位置し、昼夜の寒暖差もある。まさに、ワイン用ブドウ栽培に適した場所だ。坪田さんがこの地で畑作りを開始したのが2002年。2007年には委託醸造を始め、そして2012年にワイナリーを開設した。この地でワイン造りを始めた背景やワインとの向き合い方には、坪田さんの人生観や様々な出会いが凝縮されていて、インタビューを終えた頃には、温泉に入った後のように心がぽかぽか芯から温められていた。 25年単位で人生設計する 東京の設計事務所でコンサルタントとして仕事をしていた40代の頃に考えていたことがあるそうだ。その当時、男性の平均寿命は75歳と言われていたこともあり、寿命を3分割して人生設計しようと方針を立てた。25歳までは勉強の時。25歳~50歳まではその勉強を活かす時期。50歳~75歳は更にそれを活かすかリスタートする時期だと。坪田さんはリスタートを選んだ。 ▲ 畑から視線を上に向けると見えた、青空に浮かぶ芸術的な雲。こんな景色を毎日拝めるなんて羨ましい。東京時代は一日100本近く吸っていたタバコは、今では全く吸わなくなったそう。ストレスフルな生活から卒業し、ブドウと向き合う生活を選んだことで健康な体も手に入れたとのこと。リスタートは正解だ! リスタートを選んだきっかけは、40歳前後に奥様と訪れたイタリアンレストランで飲んだバローロ。ずっと気になっていたレストランだったが、高級そうでなかなか入る決心がつかず、3年越しにようやくエイっと入店した。その時に飲んだバローロに感動。お酒好きのお二人はそれまでにも沢山ワインを飲んできたが、「今までのワインは一体何だったのか…!」と衝撃を受けたそうだ。以来、そのワインと比べてどうかという視点でワインを飲むようになり、イタリアにご夫婦で旅行した際は、同じバローロでも美味しいのもあればそうでもないものもあるという発見もした。 衝撃のバローロとの出会いを経て、50歳になったらワインの道に進みたいという希望を持つようになったが、奥様と協議し、お子様が就職するまで待つことに。52歳のタイミングで4人のお子様全員の就職が決まり、晴れてワインの方面に進むことにしたそうだ。 自分の理想を追い求めて 52歳になるのをじっと待っていた訳ではない。45歳頃から日本全国のワイナリーを巡る旅にも出て、イメージを膨らませてきた。北海道から順番に北から南に進む形で、自分が理想とするワインを造っているワイナリーを探し回ったそうだ。 そんな中、ある年のお正月休みを利用して、1月2日からワイナリー見学が可能となっていた栃木県足利市にある「ココ・ファーム・ワイナリー」(以下「ココ・ファーム」)を訪れた。その日は生憎の大雪。当時車の免許がなかった坪田夫妻は電車で訪れたが、車で来訪予定だった他のお客様は全員訪問をキャンセル。その結果、ワイナリーの案内係の方とゆっくり会話することができた。 ▲ ココ・ファーム・ワイナリーについての記事はこちら。 そして、その際テイスティングしたオーク・バレルの赤ワインにビビっときた。非常に美味しく、しかも2000円程度でお手頃価格だったのだ。この価格帯でこんなに美味しいものがあるのかと驚き、その訪問から2週間後に再訪問し、研修生として受け入れてもらいたいと直談判。何度か断られたが、説得を続け、受け入れらえることに。坪田さんの情熱が認められたのだろう。50歳過ぎでのリスタートの幕開けである。 自分が造りたいワインを見つける 当時のココ・ファームには、今や日本ワイン界の代表と評される「10Rワイナリー」のブルース・ガットラヴ氏が醸造責任者として、そして「ドメーヌ・タカヒコ」の曽我貴彦氏が栽培責任者として在籍していた。そんな2人からみっちりとブドウ栽培とワイン醸造のイロハを吸収した坪田さん。日本の最高峰の実地教育を受けたと言っても過言ではないだろう。この2人から教えてもらったことは、今でも心に留め、実践しているそうだ。 ◀ ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦氏。 ドメーヌ・タカヒコについての記事はこちら。>>>...

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熊本・熊本ワイン

熊本・熊本ワイン

日本ワインコラム | 熊本ワイン 熊本県北部、山鹿市菊鹿町に居を構える熊本ワインファームの菊鹿ワイナリー。大分県と福岡県の県境に近く、阿蘇山の西側に位置する。1999年に創業した熊本ワインファームが菊鹿にワイナリーをオープンしたのは2018年。緑に囲まれた広大な敷地には、ブドウ畑とワイン醸造所の他に、試飲カウンターがあるワインショップやカフェ、ピザやパスタなどのテイクアウトやイートインスペースまで完備されていて、ゆったりと自然と楽しみながら時間を過ごすことができる。 ▲ 手前の赤い屋根にはテイクアウトやイートインスペースがあり、奥のシックな茶色とグレーの建物に醸造所とワインショップ、カフェがある。 ▲ カフェの様子。KIKUKA WINERYと透けて見える文字が素敵。 今回は、この場所で西村さんにお話しをお伺いした。西村さんは、2009年に熊本ワインファームが国際ワイン品評会「ジャパン・ワイン・チャレンジ」の新世界白ワイン部門で日本産初の最優秀賞を獲得したというニュースを聞き、同社に魅力を感じ入社を決意。以来、醸造家としてワインと向き合う日々を過ごされている。 ▲ すらっとした長身にくしゃっとした笑顔とホンワカとした口調が魅力的な西村さん。 サルビアの花が教えてくれた菊鹿町のポテンシャル ▲ サルビアの花。引用 >> HORTIのサイトから。 熊本ワインファームの最初のワイナリーは熊本市内にある熊本ワイナリー。ワイナリーはヒトもカネも必要となる事業だ。もちろんワイン造りにとって肝になるのはブドウ栽培。しかし、いきなり自分達だけでブドウ栽培とワイン醸造を両立させるのは難しい。そこで、ブドウ栽培に適した土地を発掘し、そこの農家さんに栽培をお願いしようと考えた。 県内にある様々な場所を探している中、菊鹿町を訪れた際にサルビアの花が咲いていたのを発見する。しかもとてもきれいな発色だったそう。それを見てピンとくる。これだけキレイに発色しているということは、昼夜の寒暖差があるからに違いない!ということは、ここはブドウ栽培にとってもいい環境に違いない…!と。 信じられない着眼点だ。キレイに咲いている花を見ても、だいたいは「あ~きれいだなぁ。癒されるなぁ。」くらいにしか思わないだろう。しかし、求めるブドウ栽培環境が常に頭の中にあったからこそ、見過ごしてしまってもおかしくない小さな気付きに意味を見出し、点と点が繋がるのだ。心が揺さぶられるストーリーだ。 20年かけて積み上げてきた実績 サルビアをヒントにブドウ栽培に理想的な環境を見つけた。九州地方の他の多くの場所同様、菊鹿も雨が多い。年間2000ミリ強の降雨量があり、雨対策は必須となるが、一方で、年間日照時間が2000時間を超えるので、ブドウの熟度は上がる。また、寒暖差によるブドウの着色や味わいの複雑さが得られるといるメリットもある。環境がよければ、直ぐにビジネスが好転するかというと、そう簡単な話ではない。そもそも、菊鹿町の農家は栗やたばこ、アスパラガスやイチゴといった作物の栽培経験はあっても、ブドウの栽培経験はなかった。そのため、試行錯誤の連続だった。土壌の排水性を上げるための暗渠や雨除けのレインカット、畝づくり、土壌改良等。契約農家の方々と研鑽を積み、二人三脚でブドウ栽培に精を出したのだ。 当初、3-4軒しかなかった契約農家の数は、今では30軒まで増えたそう。栽培面積で見ると50-60aだったのが9haまで拡大した。契約農家に任せっきりにしないで、一緒に頭をひねり、汗をかいて作業したからこそ、その姿勢に賛同する農家が増えていったのだろう。並行してワイン醸造技術も磨き続け、特に菊鹿産のシャルドネで造るワインには自信を持てるようになった。 ▲ 数々の賞を受賞している熊本ワイン。菊鹿のシャルドネには自信がある! ブドウにも人にも優しい環境づくり 熊本ワイナリーが出来て20年程経過した。ワイナリーが熊本市内にあることから、菊鹿で育ったブドウをワイナリーまで運ぶには車で1時間ほど要してしまう。やはり、より良いワインを造るために、栽培地に近い醸造所を。そういう思いから、2018年に2番目の醸造所となる菊鹿ワイナリーを設立することになった。また、20年間契約農家さんとがっちりブドウ栽培をやってきた経験もあったことから、このタイミングでワイナリーだけでなく、自社畑を併設することになったのだ。 現在の自社畑の広さは1.5ha。今後3~5年かけて同じ菊鹿町内で畑を拡張していきたい考えだ。 これまで契約農家と共に培ってきたブドウ栽培のノウハウがあるからこそ、 「人にもブドウにも優しい、持続可能な環境を整えた。省力化しつつ収量が取れる体制にした。」...

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日本ワインコラム | 熊本ワイン 熊本県北部、山鹿市菊鹿町に居を構える熊本ワインファームの菊鹿ワイナリー。大分県と福岡県の県境に近く、阿蘇山の西側に位置する。1999年に創業した熊本ワインファームが菊鹿にワイナリーをオープンしたのは2018年。緑に囲まれた広大な敷地には、ブドウ畑とワイン醸造所の他に、試飲カウンターがあるワインショップやカフェ、ピザやパスタなどのテイクアウトやイートインスペースまで完備されていて、ゆったりと自然と楽しみながら時間を過ごすことができる。 ▲ 手前の赤い屋根にはテイクアウトやイートインスペースがあり、奥のシックな茶色とグレーの建物に醸造所とワインショップ、カフェがある。 ▲ カフェの様子。KIKUKA WINERYと透けて見える文字が素敵。 今回は、この場所で西村さんにお話しをお伺いした。西村さんは、2009年に熊本ワインファームが国際ワイン品評会「ジャパン・ワイン・チャレンジ」の新世界白ワイン部門で日本産初の最優秀賞を獲得したというニュースを聞き、同社に魅力を感じ入社を決意。以来、醸造家としてワインと向き合う日々を過ごされている。 ▲ すらっとした長身にくしゃっとした笑顔とホンワカとした口調が魅力的な西村さん。 サルビアの花が教えてくれた菊鹿町のポテンシャル ▲ サルビアの花。引用 >> HORTIのサイトから。 熊本ワインファームの最初のワイナリーは熊本市内にある熊本ワイナリー。ワイナリーはヒトもカネも必要となる事業だ。もちろんワイン造りにとって肝になるのはブドウ栽培。しかし、いきなり自分達だけでブドウ栽培とワイン醸造を両立させるのは難しい。そこで、ブドウ栽培に適した土地を発掘し、そこの農家さんに栽培をお願いしようと考えた。 県内にある様々な場所を探している中、菊鹿町を訪れた際にサルビアの花が咲いていたのを発見する。しかもとてもきれいな発色だったそう。それを見てピンとくる。これだけキレイに発色しているということは、昼夜の寒暖差があるからに違いない!ということは、ここはブドウ栽培にとってもいい環境に違いない…!と。 信じられない着眼点だ。キレイに咲いている花を見ても、だいたいは「あ~きれいだなぁ。癒されるなぁ。」くらいにしか思わないだろう。しかし、求めるブドウ栽培環境が常に頭の中にあったからこそ、見過ごしてしまってもおかしくない小さな気付きに意味を見出し、点と点が繋がるのだ。心が揺さぶられるストーリーだ。 20年かけて積み上げてきた実績 サルビアをヒントにブドウ栽培に理想的な環境を見つけた。九州地方の他の多くの場所同様、菊鹿も雨が多い。年間2000ミリ強の降雨量があり、雨対策は必須となるが、一方で、年間日照時間が2000時間を超えるので、ブドウの熟度は上がる。また、寒暖差によるブドウの着色や味わいの複雑さが得られるといるメリットもある。環境がよければ、直ぐにビジネスが好転するかというと、そう簡単な話ではない。そもそも、菊鹿町の農家は栗やたばこ、アスパラガスやイチゴといった作物の栽培経験はあっても、ブドウの栽培経験はなかった。そのため、試行錯誤の連続だった。土壌の排水性を上げるための暗渠や雨除けのレインカット、畝づくり、土壌改良等。契約農家の方々と研鑽を積み、二人三脚でブドウ栽培に精を出したのだ。 当初、3-4軒しかなかった契約農家の数は、今では30軒まで増えたそう。栽培面積で見ると50-60aだったのが9haまで拡大した。契約農家に任せっきりにしないで、一緒に頭をひねり、汗をかいて作業したからこそ、その姿勢に賛同する農家が増えていったのだろう。並行してワイン醸造技術も磨き続け、特に菊鹿産のシャルドネで造るワインには自信を持てるようになった。 ▲ 数々の賞を受賞している熊本ワイン。菊鹿のシャルドネには自信がある! ブドウにも人にも優しい環境づくり 熊本ワイナリーが出来て20年程経過した。ワイナリーが熊本市内にあることから、菊鹿で育ったブドウをワイナリーまで運ぶには車で1時間ほど要してしまう。やはり、より良いワインを造るために、栽培地に近い醸造所を。そういう思いから、2018年に2番目の醸造所となる菊鹿ワイナリーを設立することになった。また、20年間契約農家さんとがっちりブドウ栽培をやってきた経験もあったことから、このタイミングでワイナリーだけでなく、自社畑を併設することになったのだ。 現在の自社畑の広さは1.5ha。今後3~5年かけて同じ菊鹿町内で畑を拡張していきたい考えだ。 これまで契約農家と共に培ってきたブドウ栽培のノウハウがあるからこそ、 「人にもブドウにも優しい、持続可能な環境を整えた。省力化しつつ収量が取れる体制にした。」...

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宮崎・都農ワイン

宮崎・都農ワイン

日本ワインコラム | 都農ワイン 宮崎空港に到着した。生憎の空模様だったが、空港から外にでるとヤシの木が並び、南国感が溢れている。 今回お邪魔した都農ワインは、宮崎空港から車で北に1時間弱程走らせた先の都農町にある。東に日向灘、西に尾鈴連山がある場所だ。西高東低の牧内台地にあるワイナリーは標高150-200mに位置し、4㎞先にあるという海も眺められる絶景ポイントでもある。ワイナリーで働くサーファー達が、海の状態を常にチェックしているそうで、時々いてもたってもいられず、お休みを取って海に繰り出してしまうほど。サーファーの聖地でもあるようだ。 そしてインタビューのお相手は、1994年の都農ワイン設立時点から、社長と二人三脚で苦楽を共にしてきた赤尾さん。ポニーテールにまとめられた髪と力強いまなざしがイタリア人男性のようで、色気が漂う御方です(ミーハーで申し訳ありません。苦笑)。 ▲ 都農ワイナリー入り口。アットホームな雰囲気が漂う。 ▲ 口調は穏やかで、時折クスっと静かに笑う赤尾さん。このただならぬ雰囲気にやられてしまう。 ワインは地酒であるべき 都農はワイン産地として決して恵まれているとは言えない。雨が多く、台風が頻発するこの地域は、「日本一不適地」と赤尾さんが評するほど、ブドウ栽培に不向きな土地だ。そんな場所であっても、海外メディアで高評価を受け、国内外の品評会でも数多くの賞を受賞している。何か秘密がありそうだ。 永友百二~ひとりの想いがきっかけに そもそも、なぜ、この地でワインが造られるようになったのか? 戦後間もない1953年前後まで時は遡る。尾鈴山から流れる名貫川付近には、ゴロタ石という丸い石が広がり、その上に火山灰土壌が堆積した畑が広がる。地が浅く水漏れが頻繁に起こる場所で稲作が行われていたこともあり、水を巡る争いも多かった。そんな中、永友百二という一人の農家が争いを抑えるべく、稲作に頼らない農業を目指し、19歳で梨の栽培を始めた。雨の多い都農で果樹栽培は不可能と言われ、「田んぼに木を植えるなんて」と周囲から非難もあったそうだが、研鑽を積み、全国梨品評会で一等を受賞するほどの実績を上げる。そして、終戦後はブドウ栽培にも着手。当時の文献に「ぶどう酒仕込み」の文字もあり、ワインも造られていたようだ。 温暖で冬が短い都農町でのブドウ栽培は、ブドウの萌芽も早く、お盆前には収穫されるという。なんとスイカの隣にブドウが並ぶらしい。目を疑いそうだ!いち早くブドウを出荷できるという特異性もあり高値でブドウが販売されたことから、ブドウ栽培は人気を呼び、多くの農家が後を追った。しかし、一方で、シーズンが過ぎるとブドウの価値がガクッと下がるという問題点も抱えていた。 ▲ 永友百二氏の名と志を受け継いだスパークリングワイン「Hyakuzi」。購入はこちらから。 ▲ 「Hyakuzi」のキャップシール張りの体験をさせて頂いた。変な仕上がりになっていないといいのだが… 地元のみんなで協力して この問題を解決する手立てはないか。あるブドウ農家が都農町長を務めた際、地元産のブドウを使ったワイナリー設立の構想がスタートする。地元の農家と都農町が一体となり、醸造用ブドウの栽培を開始、ついに1994年に第三セクターで都農ワインが誕生する。そして2年後にはワイナリーが創設され自社醸造が開始する。 この都農ワインの歴史の幕開けに最前線で関与していたのが、当時18歳の赤尾さんだ。19歳で梨の栽培を始めた永友百二氏と重ならないだろうか?赤尾さんは、地元の農業高校で食品化学を学んでいた。将来はすし職人になりたいと思っていたが、ワイナリー設立のための技術者募集を目にし、応募したそうだ。 「机の上で勉強する1年よりも、作業しながら勉強する1年の方が大事」 と仰る赤尾さん。ブドウ栽培とワイン醸造に携わってから、物凄いスピードで技術やノウハウを吸収・発展されたのだろう。ワイナリー設立から10年間ひたむきに、そしてがむしゃらにワイン造りに向き合ってきた。 それでも、悩みはあった。「どうしてわざわざ都農でワインを造るのですか?ワイン造りに適した場所は他にあるでしょう?」この問いに、真正面から答えられない自分がいたのだ。 ▲ 確かに雨も台風も多い都農。この地でブドウ栽培・ワイン造りに向き合う皆さんには頭が下がる思いだ。 迷いは晴れる~オーストラリアでの気付き 転機は2006年に訪れた。日本代表としてただ一人、オーストラリアのワイナリーへ3カ月間の研修に送られたのだ。多数の醸造家の中から、日本のワイン産地として名高い山梨や長野といった場所ではなく、日本一不適地と評される都農から赤尾さんが選ばれた。ただただ素晴らしいとしか言いようがないが、現場で学び、気付きを咀嚼し、仮説を立ててまた実践に移す。そういう独自性と真摯な姿勢が光っていたのではないだろうか。オーストラリアもワインの世界ではニュー・ワールドに位置し、オールド・ワールドの伝統と最先端の技術をうまく掛け合わせてワインを産出している地域だ。出会うべくして出会ったのだろうと思う。...

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日本ワインコラム | 都農ワイン 宮崎空港に到着した。生憎の空模様だったが、空港から外にでるとヤシの木が並び、南国感が溢れている。 今回お邪魔した都農ワインは、宮崎空港から車で北に1時間弱程走らせた先の都農町にある。東に日向灘、西に尾鈴連山がある場所だ。西高東低の牧内台地にあるワイナリーは標高150-200mに位置し、4㎞先にあるという海も眺められる絶景ポイントでもある。ワイナリーで働くサーファー達が、海の状態を常にチェックしているそうで、時々いてもたってもいられず、お休みを取って海に繰り出してしまうほど。サーファーの聖地でもあるようだ。 そしてインタビューのお相手は、1994年の都農ワイン設立時点から、社長と二人三脚で苦楽を共にしてきた赤尾さん。ポニーテールにまとめられた髪と力強いまなざしがイタリア人男性のようで、色気が漂う御方です(ミーハーで申し訳ありません。苦笑)。 ▲ 都農ワイナリー入り口。アットホームな雰囲気が漂う。 ▲ 口調は穏やかで、時折クスっと静かに笑う赤尾さん。このただならぬ雰囲気にやられてしまう。 ワインは地酒であるべき 都農はワイン産地として決して恵まれているとは言えない。雨が多く、台風が頻発するこの地域は、「日本一不適地」と赤尾さんが評するほど、ブドウ栽培に不向きな土地だ。そんな場所であっても、海外メディアで高評価を受け、国内外の品評会でも数多くの賞を受賞している。何か秘密がありそうだ。 永友百二~ひとりの想いがきっかけに そもそも、なぜ、この地でワインが造られるようになったのか? 戦後間もない1953年前後まで時は遡る。尾鈴山から流れる名貫川付近には、ゴロタ石という丸い石が広がり、その上に火山灰土壌が堆積した畑が広がる。地が浅く水漏れが頻繁に起こる場所で稲作が行われていたこともあり、水を巡る争いも多かった。そんな中、永友百二という一人の農家が争いを抑えるべく、稲作に頼らない農業を目指し、19歳で梨の栽培を始めた。雨の多い都農で果樹栽培は不可能と言われ、「田んぼに木を植えるなんて」と周囲から非難もあったそうだが、研鑽を積み、全国梨品評会で一等を受賞するほどの実績を上げる。そして、終戦後はブドウ栽培にも着手。当時の文献に「ぶどう酒仕込み」の文字もあり、ワインも造られていたようだ。 温暖で冬が短い都農町でのブドウ栽培は、ブドウの萌芽も早く、お盆前には収穫されるという。なんとスイカの隣にブドウが並ぶらしい。目を疑いそうだ!いち早くブドウを出荷できるという特異性もあり高値でブドウが販売されたことから、ブドウ栽培は人気を呼び、多くの農家が後を追った。しかし、一方で、シーズンが過ぎるとブドウの価値がガクッと下がるという問題点も抱えていた。 ▲ 永友百二氏の名と志を受け継いだスパークリングワイン「Hyakuzi」。購入はこちらから。 ▲ 「Hyakuzi」のキャップシール張りの体験をさせて頂いた。変な仕上がりになっていないといいのだが… 地元のみんなで協力して この問題を解決する手立てはないか。あるブドウ農家が都農町長を務めた際、地元産のブドウを使ったワイナリー設立の構想がスタートする。地元の農家と都農町が一体となり、醸造用ブドウの栽培を開始、ついに1994年に第三セクターで都農ワインが誕生する。そして2年後にはワイナリーが創設され自社醸造が開始する。 この都農ワインの歴史の幕開けに最前線で関与していたのが、当時18歳の赤尾さんだ。19歳で梨の栽培を始めた永友百二氏と重ならないだろうか?赤尾さんは、地元の農業高校で食品化学を学んでいた。将来はすし職人になりたいと思っていたが、ワイナリー設立のための技術者募集を目にし、応募したそうだ。 「机の上で勉強する1年よりも、作業しながら勉強する1年の方が大事」 と仰る赤尾さん。ブドウ栽培とワイン醸造に携わってから、物凄いスピードで技術やノウハウを吸収・発展されたのだろう。ワイナリー設立から10年間ひたむきに、そしてがむしゃらにワイン造りに向き合ってきた。 それでも、悩みはあった。「どうしてわざわざ都農でワインを造るのですか?ワイン造りに適した場所は他にあるでしょう?」この問いに、真正面から答えられない自分がいたのだ。 ▲ 確かに雨も台風も多い都農。この地でブドウ栽培・ワイン造りに向き合う皆さんには頭が下がる思いだ。 迷いは晴れる~オーストラリアでの気付き 転機は2006年に訪れた。日本代表としてただ一人、オーストラリアのワイナリーへ3カ月間の研修に送られたのだ。多数の醸造家の中から、日本のワイン産地として名高い山梨や長野といった場所ではなく、日本一不適地と評される都農から赤尾さんが選ばれた。ただただ素晴らしいとしか言いようがないが、現場で学び、気付きを咀嚼し、仮説を立ててまた実践に移す。そういう独自性と真摯な姿勢が光っていたのではないだろうか。オーストラリアもワインの世界ではニュー・ワールドに位置し、オールド・ワールドの伝統と最先端の技術をうまく掛け合わせてワインを産出している地域だ。出会うべくして出会ったのだろうと思う。...

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大分・安心院葡萄酒工房

大分・安心院葡萄酒工房

  日本ワインコラム | 安心院葡萄酒工房 大分県北部宇佐市にある安心院(読み:あじむ)葡萄酒工房。早朝、別府から大分道を通って向かったところ、前日から降り続く雨の影響で濃霧の中をひた走ることになった。幻想的とも言えるし、怖いとも言える…聞くところによると、この道路は日本一悪天候による通行止めが多い高速だそう! しかし一転、安心院葡萄酒工房に着いて暫くすると、お天気は回復。晴れ間まで見せてくれた。さすが瀬戸内式気候の場所。九州の中では雨も少なく、年間1500ミリ程度で、特に4-8月までの雨量が少ないそうだ。 ▲ 山に囲まれた自然の中にある、まさに「杜のワイナリー」の安心院葡萄酒工房。 ▲ ゲートをくぐると別世界に来たような感覚に包まれる。 今回はこの場所で、安心院葡萄酒工房立ち上げから現在までワイナリー全般の業務を行っておられる岩下さんにお話しをお伺いした。 ▲ お父様が命名されたという「理法」という素敵なお名前を持つ岩下さん。「お寺とは何の関係もありません」と仰っておられたが、穏やかで真面目、実直なお人柄にzenを感じずにはいられない。名は体を現すということだろうか。 勝負に出た!量も質もあきらめない 50年を超えるワイン造りの歴史 宇佐市は、瀬戸内式気候で降雨量が少なく、長い間、農業を行う上で干ばつが問題となっていた。1960年代になると、国による農地開発事業で灌漑設備が導入され、その中で300-400ha程度の生食用ブドウ団地ができる。 安心院町でブドウが収穫できるようになると、安心院葡萄酒工房の母体である三和酒類(株)は1971年にワインの製造免許を取得、ワイン造りをスタートする。三和酒類(株)は日本酒の会社だが、名前を聞いてピンと来る読者もおられるだろう。同社は「下町のナポレオン」こと、「いいちこ」のメーカーだ。いいちこの会社がワイン⁉と驚かれる方も多いとは思うが、驚くのは早い。三和酒類のワイン造りはいいちこ製造よりも歴史が長いのだ! いいちこ工場がある隣町でのワイン醸造が続いたが、畑に隣接する場所でワイン醸造を行うべく、2001年に現在の場所に安心院葡萄酒工房が設立される。並行して、メルロ、シャルドネ、といったワイン用ブドウ品種を契約農家に栽培してもらった。また、自社の試験圃場での栽培を試行錯誤して続け、ついに2011年には自社農園の下毛圃場での栽培がスタートする。 ▲ ワイナリー内では、安心院葡萄酒工房の歴史やワインの製造過程を学べる展示や映像が用意されている。 ブドウの供給減vsワイン需要拡大 安心院葡萄酒では現在、自社農園、契約農家、JAからの3種類のブドウをほぼ同量使用してワインを製造している。 ワイナリー設立当時はデラウェアとマスカット・ベーリーAの2種類でワインを製造していたが、ここ最近は同品種の入荷量が減ってきている。単価が高いシャインマスカットに栽培を切り替える農家が急増したことや農家の高齢化による廃業といった問題が重なり、ブドウ生産量が減少傾向にあるのだ。一方で同社ワインの人気はうなぎのぼり。引き合いは強いが生産量が追い付かないという状況が続いていた。 ワイナリー設立当初こそ外国産原料も活用していたが、2006年からは、安心院町産ブドウのみを使った高品質ワインの製造に軸足を変えている。原料となるブドウ不足の深刻化。品質を維持向上しながら生産量を増やすためには、自社畑の拡張に踏み切るしかない。大きな勝負に出たのだ。 ▲ ワイナリーに隣接する下毛圃場は、安心院葡萄酒工房の中で最も歴史の長い自社畑だ。 拡大を続ける自社ブドウ畑 2011年に始まった自社農園。最初は広さ5haの下毛圃場に3.8ha植栽された。次に2018年から2020年にかけて、広さ10haの矢津圃場に5ha植栽。更に、2021年からは広さ15haの大見尾圃場への植え付けが始まった。来年までに7.2ha植栽される予定だと言う。農地面積は、農園開始時から現在までに3倍、2023年には6倍まで増加する(植栽面積は、それぞれ2倍強、4倍強の拡大規模)。 (左と中央)2018年から植栽を始めた矢津圃場。レインガードの着脱だけでかなりの時間と労力を要することから、矢津圃場と大見尾圃場ではレインガードは通年取り付けたままにしているそう。納得せざるを得ない広さだ。 (右)現在植栽を続けている大見尾圃場。矢津圃場も広いと感じたが、大見尾圃場は更に広く、圧巻の景色が広がる。...

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大分・安心院葡萄酒工房

  日本ワインコラム | 安心院葡萄酒工房 大分県北部宇佐市にある安心院(読み:あじむ)葡萄酒工房。早朝、別府から大分道を通って向かったところ、前日から降り続く雨の影響で濃霧の中をひた走ることになった。幻想的とも言えるし、怖いとも言える…聞くところによると、この道路は日本一悪天候による通行止めが多い高速だそう! しかし一転、安心院葡萄酒工房に着いて暫くすると、お天気は回復。晴れ間まで見せてくれた。さすが瀬戸内式気候の場所。九州の中では雨も少なく、年間1500ミリ程度で、特に4-8月までの雨量が少ないそうだ。 ▲ 山に囲まれた自然の中にある、まさに「杜のワイナリー」の安心院葡萄酒工房。 ▲ ゲートをくぐると別世界に来たような感覚に包まれる。 今回はこの場所で、安心院葡萄酒工房立ち上げから現在までワイナリー全般の業務を行っておられる岩下さんにお話しをお伺いした。 ▲ お父様が命名されたという「理法」という素敵なお名前を持つ岩下さん。「お寺とは何の関係もありません」と仰っておられたが、穏やかで真面目、実直なお人柄にzenを感じずにはいられない。名は体を現すということだろうか。 勝負に出た!量も質もあきらめない 50年を超えるワイン造りの歴史 宇佐市は、瀬戸内式気候で降雨量が少なく、長い間、農業を行う上で干ばつが問題となっていた。1960年代になると、国による農地開発事業で灌漑設備が導入され、その中で300-400ha程度の生食用ブドウ団地ができる。 安心院町でブドウが収穫できるようになると、安心院葡萄酒工房の母体である三和酒類(株)は1971年にワインの製造免許を取得、ワイン造りをスタートする。三和酒類(株)は日本酒の会社だが、名前を聞いてピンと来る読者もおられるだろう。同社は「下町のナポレオン」こと、「いいちこ」のメーカーだ。いいちこの会社がワイン⁉と驚かれる方も多いとは思うが、驚くのは早い。三和酒類のワイン造りはいいちこ製造よりも歴史が長いのだ! いいちこ工場がある隣町でのワイン醸造が続いたが、畑に隣接する場所でワイン醸造を行うべく、2001年に現在の場所に安心院葡萄酒工房が設立される。並行して、メルロ、シャルドネ、といったワイン用ブドウ品種を契約農家に栽培してもらった。また、自社の試験圃場での栽培を試行錯誤して続け、ついに2011年には自社農園の下毛圃場での栽培がスタートする。 ▲ ワイナリー内では、安心院葡萄酒工房の歴史やワインの製造過程を学べる展示や映像が用意されている。 ブドウの供給減vsワイン需要拡大 安心院葡萄酒では現在、自社農園、契約農家、JAからの3種類のブドウをほぼ同量使用してワインを製造している。 ワイナリー設立当時はデラウェアとマスカット・ベーリーAの2種類でワインを製造していたが、ここ最近は同品種の入荷量が減ってきている。単価が高いシャインマスカットに栽培を切り替える農家が急増したことや農家の高齢化による廃業といった問題が重なり、ブドウ生産量が減少傾向にあるのだ。一方で同社ワインの人気はうなぎのぼり。引き合いは強いが生産量が追い付かないという状況が続いていた。 ワイナリー設立当初こそ外国産原料も活用していたが、2006年からは、安心院町産ブドウのみを使った高品質ワインの製造に軸足を変えている。原料となるブドウ不足の深刻化。品質を維持向上しながら生産量を増やすためには、自社畑の拡張に踏み切るしかない。大きな勝負に出たのだ。 ▲ ワイナリーに隣接する下毛圃場は、安心院葡萄酒工房の中で最も歴史の長い自社畑だ。 拡大を続ける自社ブドウ畑 2011年に始まった自社農園。最初は広さ5haの下毛圃場に3.8ha植栽された。次に2018年から2020年にかけて、広さ10haの矢津圃場に5ha植栽。更に、2021年からは広さ15haの大見尾圃場への植え付けが始まった。来年までに7.2ha植栽される予定だと言う。農地面積は、農園開始時から現在までに3倍、2023年には6倍まで増加する(植栽面積は、それぞれ2倍強、4倍強の拡大規模)。 (左と中央)2018年から植栽を始めた矢津圃場。レインガードの着脱だけでかなりの時間と労力を要することから、矢津圃場と大見尾圃場ではレインガードは通年取り付けたままにしているそう。納得せざるを得ない広さだ。 (右)現在植栽を続けている大見尾圃場。矢津圃場も広いと感じたが、大見尾圃場は更に広く、圧巻の景色が広がる。...

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北海道・余市 木村農園

北海道・余市 木村農園

  日本ワインコラム |北海道・余市  木村農園 日本のピノ・ノワールの第一人者。そう言っても過言ではない。今でこそ、余市町のピノ・ノワールの知名度は高いが、木村農園は、栽培が難しいとされるピノ・ノワールを黎明期からずっと育て続けてきた。その質の高さに魅了され、余市町でピノ・ノワールを栽培する農家やワイナリーが増加。今では余市の代表的な品種の一つとなり、国内外から熱い視線が送られている。今回は、その木村農園で先代と共にピノ・ノワールの栽培を続けてこられた木村幸司さんにお話しを伺った。 ▲ 木村農園3代目の木村幸司さん。 美しい畑を闊歩する 北海道西部、積丹半島の付け根に位置する余市町。余市湾を眺めるように、なだらかな丘陵地にブドウ畑が広がる。木村農園は余市湾から少し内陸に進んだ場所に位置する。穏やかな起伏が連続する畑は適度な傾斜があり、心地のよい風が常時吹き抜ける。丘に広がる一枚畑の広さは8.5ha。見渡す限りのブドウ畑が美しい。 ▲ 広大で美しい、圧巻の畑。 ▲ 毎日歩いておられるからか、木村さんは「そんな急斜面でもないですよ」と仰られたが、畑を登っていくと少し息が上がるようなスロープが続くところも。 暖流の対馬海流の影響で、道内では比較的温暖な気候を誇る余市町。この温暖な気候を活かし、明治時代から果樹の栽培が盛んな土地だ。木村農園は、木村さんのお祖父様の代からこの地でリンゴを中心に、サクランボ、梨、プラム、生食用ブドウの栽培を稼業としてきた。しかし、2代目となるお父様が農園を切り盛りしていた1970年代からリンゴ価格が暴落。この危機を乗り越えようと、近隣農家7人で一念発起し、ワイン用ブドウの栽培を開始した(→詳細はこちら「安藝農園」から)。木村農園には、隣の農家の藤本氏から「リンゴ、切れるか?」と声がかかったそうだ。農園がある場所は、土壌・気温・風の通り、どれをとっても果樹の栽培に適した場所。それはワイン用ブドウにとっても同じだった。畑は斜面にあるので冷気もたまらず、霜の被害もない。通常であれば、収穫後、ブドウの葉は落葉するが、畑の中には冬でも雪と共に青々とした葉を付け続ける木もあるというのだから驚きだ。 1984年、最初に植えたのはケルナー。続く1985年に植えたのがピノ・ノワール。当時広さ50aだった畑の6割を占めたケルナーは、今も古木として現役だ。また、当時植えた古木のピノ・ノワールも現存している。現在は、それらに加え、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを合わせた5種類を栽培している。育てたブドウは、千歳ワイナリー、ココ・ファーム・ワイナリーの2社を中心に提供し、残る小ロットをスポットで他のワイナリーに卸すこともあるそう。 ▲ ブドウが色付く姿に見惚れて足が止まってしまう。 恩義を決して忘れない 7軒でスタートした余市でのワイン用ブドウの栽培は、現在は50軒まで成長。北海道の中でも群を抜いてトップクラスの収穫量を誇る。また、2010年以前は1社だったワイナリーの数も、今は15軒まで増加。とは言え、小規模のワイナリーが多く、余市で生産されるブドウの多くは道外を含む他地域に卸されている。この現状を木村さんはどう思っているのか、率直に聞いてみた。やはり手塩にかけて育てたブドウなのだから、近くでワインになってほしいと思っているのだろうと思っていたが、意外にも「外に出るブドウも必要」と即答された。 インタビューを通じて感じてきたが、木村さんはとても義理堅い。常にワイナリーとの関係を第一に考えておられる。木村農園を含めた7軒がワイン用ブドウの試験栽培を始めたのが1983年。7軒が協力して最初に契約したのが、はこだてわいん。苗木を植え、3-4年で目標とする生産量をオーバーしたのだ。果樹栽培の経験があったとは言え、こんな短期間で目標を超えるとは・・・凄い技術力だし、何よりも気迫を感じる。嬉しい悲鳴ではあるものの、余ったブドウを何とかしなければならない。7軒それぞれが契約先を開拓する中、木村農園が契約することになったのが千歳ワイナリー(当時:中央葡萄酒)だった。千歳ワイナリーから栽培を頼まれたのはピノ・ノワールだったが、木村農園からお願いしてケルナーも合わせて契約してもらった。1990年代からずっと続く関係だ。 木村さんが先代から経営移譲されたのは2008年。その年は、今まででベストと言える高品質なピノ・ノワールを収穫できたこともあり、強く記憶に残っている。それまでは、需要はあるもののブドウの品質が追い付いていないという不安感があった。果たしてこれを売っていいのだろうか、と。日照量や積算温度が足りないことから未熟なブドウが多かった。1985年にピノ・ノワールを植えたのは、木村農園だけではない。他にも何軒かあったのだ。ピノ・ノワールは皮が薄く病気に弱い。また、他の品種に比べて、気温や土壌環境等の生育環境を選ぶこともあり、栽培が難しいと言われる品種だ。何軒かでスタートしたピノ・ノワールの栽培だったが、一軒また一軒と栽培を辞める農家が増え、木村農園だけが残ったのだ。植え始めて20年の歳月をかけて、漸く納得のいくものができた。その達成感、高揚感、安堵感・・・想像するだけで涙がでそうだ。 仲間が次々とピノ・ノワールから離れる一方、自分の手元にあるのは未熟なブドウという現実。どれだけ不安だっただろうか。その時、隣で伴奏してくれたのが千歳ワイナリーだった。本当の意味で苦楽を共にしているからこそ、強い絆がある。そして恩義もある。千歳ワイナリーでは、木村農園のピノ・ノワールとケルナーで造られるワインを、メインブランド「北ワイン」として販売している。同社が契約する農家は木村農園だけ。ここまで太い関係が築かれているのは、強い信頼関係があるからこそだ。 ▲ 千歳ワイナリーホームページより。KIMURA VINEYARDの文字がしっかりと刻まれるエチケット。 千歳ワイナリーとの二人三脚でピノ・ノワールとケルナーを世に出してきた木村農園。その品質の高さは徐々に周りの目に留まることになる。現在のもう一つの主な契約先であるココ・ファーム・ワイナリーがその一つだ。同社との契約ができてから、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを追加で植えるようになった。同社にはピノ・ノワールも卸している。ココ・ファーム・ワイナリーと契約を結ぶ前は、畑のスペースも余っていたこともあり、ワイナリー立ち上げを検討した時期があったそうだ。しかし、今は畑の90%は契約ブドウ。そのブドウの栽培だけで手一杯。木村さんを含め家族5人で管理しているとは言え、8.5haはかなり広大な土地だ。契約相手に対する恩義を忘れない。その為にもワイナリーに最高の品質のブドウを届けることを第一に考える。 「ワイナリーがいらないと言うまで作り続けたい」 そう仰った木村さん。プロとしての気概が伝わってくる。 ただ指をくわえて待っていた訳ではない~マサル・セレクションを取り入れる 20年かけてようやく納得のいくピノ・ノワールになったという木村さん。確かに地球温暖化の影響で、余市町も気温が上がり、ピノ・ノワールを育てる上で適温地になってきたという側面はある。しかし、高品質なピノ・ノワールが生まれる理由はそれだけではない。温暖化による影響よりも、木村さんが地道に続けてきたことこそが、品質向上にとっては重要な要素だったのだ。尚、同じタイミングに植え始めたケルナーにとっては、逆に今後は厳しい環境になることが想定される。これまで古くなってきた畑は補植して対応してきたが、改植も視野に入れているそうだ。...

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北海道・余市 木村農園

  日本ワインコラム |北海道・余市  木村農園 日本のピノ・ノワールの第一人者。そう言っても過言ではない。今でこそ、余市町のピノ・ノワールの知名度は高いが、木村農園は、栽培が難しいとされるピノ・ノワールを黎明期からずっと育て続けてきた。その質の高さに魅了され、余市町でピノ・ノワールを栽培する農家やワイナリーが増加。今では余市の代表的な品種の一つとなり、国内外から熱い視線が送られている。今回は、その木村農園で先代と共にピノ・ノワールの栽培を続けてこられた木村幸司さんにお話しを伺った。 ▲ 木村農園3代目の木村幸司さん。 美しい畑を闊歩する 北海道西部、積丹半島の付け根に位置する余市町。余市湾を眺めるように、なだらかな丘陵地にブドウ畑が広がる。木村農園は余市湾から少し内陸に進んだ場所に位置する。穏やかな起伏が連続する畑は適度な傾斜があり、心地のよい風が常時吹き抜ける。丘に広がる一枚畑の広さは8.5ha。見渡す限りのブドウ畑が美しい。 ▲ 広大で美しい、圧巻の畑。 ▲ 毎日歩いておられるからか、木村さんは「そんな急斜面でもないですよ」と仰られたが、畑を登っていくと少し息が上がるようなスロープが続くところも。 暖流の対馬海流の影響で、道内では比較的温暖な気候を誇る余市町。この温暖な気候を活かし、明治時代から果樹の栽培が盛んな土地だ。木村農園は、木村さんのお祖父様の代からこの地でリンゴを中心に、サクランボ、梨、プラム、生食用ブドウの栽培を稼業としてきた。しかし、2代目となるお父様が農園を切り盛りしていた1970年代からリンゴ価格が暴落。この危機を乗り越えようと、近隣農家7人で一念発起し、ワイン用ブドウの栽培を開始した(→詳細はこちら「安藝農園」から)。木村農園には、隣の農家の藤本氏から「リンゴ、切れるか?」と声がかかったそうだ。農園がある場所は、土壌・気温・風の通り、どれをとっても果樹の栽培に適した場所。それはワイン用ブドウにとっても同じだった。畑は斜面にあるので冷気もたまらず、霜の被害もない。通常であれば、収穫後、ブドウの葉は落葉するが、畑の中には冬でも雪と共に青々とした葉を付け続ける木もあるというのだから驚きだ。 1984年、最初に植えたのはケルナー。続く1985年に植えたのがピノ・ノワール。当時広さ50aだった畑の6割を占めたケルナーは、今も古木として現役だ。また、当時植えた古木のピノ・ノワールも現存している。現在は、それらに加え、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを合わせた5種類を栽培している。育てたブドウは、千歳ワイナリー、ココ・ファーム・ワイナリーの2社を中心に提供し、残る小ロットをスポットで他のワイナリーに卸すこともあるそう。 ▲ ブドウが色付く姿に見惚れて足が止まってしまう。 恩義を決して忘れない 7軒でスタートした余市でのワイン用ブドウの栽培は、現在は50軒まで成長。北海道の中でも群を抜いてトップクラスの収穫量を誇る。また、2010年以前は1社だったワイナリーの数も、今は15軒まで増加。とは言え、小規模のワイナリーが多く、余市で生産されるブドウの多くは道外を含む他地域に卸されている。この現状を木村さんはどう思っているのか、率直に聞いてみた。やはり手塩にかけて育てたブドウなのだから、近くでワインになってほしいと思っているのだろうと思っていたが、意外にも「外に出るブドウも必要」と即答された。 インタビューを通じて感じてきたが、木村さんはとても義理堅い。常にワイナリーとの関係を第一に考えておられる。木村農園を含めた7軒がワイン用ブドウの試験栽培を始めたのが1983年。7軒が協力して最初に契約したのが、はこだてわいん。苗木を植え、3-4年で目標とする生産量をオーバーしたのだ。果樹栽培の経験があったとは言え、こんな短期間で目標を超えるとは・・・凄い技術力だし、何よりも気迫を感じる。嬉しい悲鳴ではあるものの、余ったブドウを何とかしなければならない。7軒それぞれが契約先を開拓する中、木村農園が契約することになったのが千歳ワイナリー(当時:中央葡萄酒)だった。千歳ワイナリーから栽培を頼まれたのはピノ・ノワールだったが、木村農園からお願いしてケルナーも合わせて契約してもらった。1990年代からずっと続く関係だ。 木村さんが先代から経営移譲されたのは2008年。その年は、今まででベストと言える高品質なピノ・ノワールを収穫できたこともあり、強く記憶に残っている。それまでは、需要はあるもののブドウの品質が追い付いていないという不安感があった。果たしてこれを売っていいのだろうか、と。日照量や積算温度が足りないことから未熟なブドウが多かった。1985年にピノ・ノワールを植えたのは、木村農園だけではない。他にも何軒かあったのだ。ピノ・ノワールは皮が薄く病気に弱い。また、他の品種に比べて、気温や土壌環境等の生育環境を選ぶこともあり、栽培が難しいと言われる品種だ。何軒かでスタートしたピノ・ノワールの栽培だったが、一軒また一軒と栽培を辞める農家が増え、木村農園だけが残ったのだ。植え始めて20年の歳月をかけて、漸く納得のいくものができた。その達成感、高揚感、安堵感・・・想像するだけで涙がでそうだ。 仲間が次々とピノ・ノワールから離れる一方、自分の手元にあるのは未熟なブドウという現実。どれだけ不安だっただろうか。その時、隣で伴奏してくれたのが千歳ワイナリーだった。本当の意味で苦楽を共にしているからこそ、強い絆がある。そして恩義もある。千歳ワイナリーでは、木村農園のピノ・ノワールとケルナーで造られるワインを、メインブランド「北ワイン」として販売している。同社が契約する農家は木村農園だけ。ここまで太い関係が築かれているのは、強い信頼関係があるからこそだ。 ▲ 千歳ワイナリーホームページより。KIMURA VINEYARDの文字がしっかりと刻まれるエチケット。 千歳ワイナリーとの二人三脚でピノ・ノワールとケルナーを世に出してきた木村農園。その品質の高さは徐々に周りの目に留まることになる。現在のもう一つの主な契約先であるココ・ファーム・ワイナリーがその一つだ。同社との契約ができてから、シャルドネ、ピノ・グリ、ムニエを追加で植えるようになった。同社にはピノ・ノワールも卸している。ココ・ファーム・ワイナリーと契約を結ぶ前は、畑のスペースも余っていたこともあり、ワイナリー立ち上げを検討した時期があったそうだ。しかし、今は畑の90%は契約ブドウ。そのブドウの栽培だけで手一杯。木村さんを含め家族5人で管理しているとは言え、8.5haはかなり広大な土地だ。契約相手に対する恩義を忘れない。その為にもワイナリーに最高の品質のブドウを届けることを第一に考える。 「ワイナリーがいらないと言うまで作り続けたい」 そう仰った木村さん。プロとしての気概が伝わってくる。 ただ指をくわえて待っていた訳ではない~マサル・セレクションを取り入れる 20年かけてようやく納得のいくピノ・ノワールになったという木村さん。確かに地球温暖化の影響で、余市町も気温が上がり、ピノ・ノワールを育てる上で適温地になってきたという側面はある。しかし、高品質なピノ・ノワールが生まれる理由はそれだけではない。温暖化による影響よりも、木村さんが地道に続けてきたことこそが、品質向上にとっては重要な要素だったのだ。尚、同じタイミングに植え始めたケルナーにとっては、逆に今後は厳しい環境になることが想定される。これまで古くなってきた畑は補植して対応してきたが、改植も視野に入れているそうだ。...

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