日本ワインコラム | 長野・楠わいなりー
「それまで(前職を辞めるまで)の人生は、あまり充実したものでなかったし、後悔が多くありました。」
東北大学工学部。それも同学府が誇る金属工学科(「トンペー」の理系は少なからず、「金研」を不遇な青春の心の支えに生きている)を卒業したのち、航空機リースなどの商社マンとして、シンガポール駐在を含めおよそ20年間のキャリアを形成してきた楠茂幸さん。筆者の視点からすれば、「やっぱ金属だな。」というのは冗談で、多少の後悔なんてものは気にならないのではと訝しむほど、それは華麗な人生であるように思われる。勝手な想像は誠に良くないけれど。
ともあれ、楠さんはビジネスクラスから腰を上げ、スーツを脱ぎ捨て、故郷の長野県須坂市で葡萄栽培を始めた。
「須坂に戻り、父が亡くなってから2年間はアデレードで醸造栽培を勉強しました。どうせ学ぶなら、最高峰の教育を受けたいと思いまして。」
学舎として選んだのは、オーストラリアが誇る最高学府の一つアデレード大学。ノーベル賞受賞者を多数輩出する凄い大学、なんていうと筆者の水溜りほどもない教養レベルが知れるようだが、南オーストラリアのワイン産業の発展に大きく寄与したのがこの大学の葡萄栽培醸造学部である。 終始物静かな大学教授のように、理知的にインタビューに応えてくださった楠さんだが、ある種アカデミア的な背景・視点や彼のもつ雰囲気は、楠わいなりーの公式HP>>プロフィール>>「栽培について」・「醸造について」に、ブワァーっと表現されているので、是非ご一読ください。読了の果てに、このコラムは存在意義を失うのだけど。
とりあえず、短い講義とも言える構成になっているので、マニア諸兄は是非。
さて、長野県須坂市、千曲川に向かって西向きの扇状地の上に楠わいなりーは位置している。長野といえば、メルロやシャルドネ。 大手酒造メーカーによって、それらの栽培が広く伝搬していた中で、楠さんはアデレードで得た知見を元に自身で地域の最適解を模索した。
単に積算温度を見るのではなくて、グラッド・ストーンの“BEDD”ですね、それを計算したら、世界の銘醸地と比べても遜色ない値であることがわかりました。ある種、全国どこでも葡萄を造ることはできるのですが、(この土地が)日本における葡萄栽培の最適地である、ということだと思います。
一般的な有効積算温度は、植物の生育に有効な最低温度(だいたい10℃)を排除して積算するが、
BEDD(:Biologically effective days degrees)
は、最高温度(この場合19℃)を設定して、それ以上の気温を19℃として積算して得られる値。さらに、それは気候、地理的条件、日照時間の長さ、日中の温度範囲、温度-生長、などによって補正される。植物の生長に必要な酵素反応が、差し支えなく起こる温度帯を考慮している指数なのだが、まぁ要するに、人間も暑すぎたら何もしたくなくなるし、寒すぎたら布団から出たくなくなる。というようなお話、のはずである。
グラッド・ストーンという人が、土地における最適品種を導くために導入した指数だそうで、須坂市の値はフランス・ボルドーの値に非常に近い。
楠わいなりーのラインナップの中でも、特徴的な1本がある。「日滝原」と名付けられたそのワインは、セミヨンとソーヴィニヨン・ブランのブレンド。日本ではあまり多く見かけないボルドーブレンドの白ワインだ。
「ずっとワインを勉強していたときに考えていたことがあって、それはどう言ったワインが日本食に合うのか、です。その中で、お寿司とかお刺身とかフレッシュ海産物に合うワインとして到達した結論が、セミヨン、ソーヴィニヨン・ブランのブレンドでした。他にセミヨンを栽培しているところは少ないですし、ソーヴィニヨン・ブランに関しても、比較的早いほうでした。シャルドネやメルロは、既に長野県では確立されていましたから、そう言った自分の好みも(品種選びに)反映されています。」
「基本的には自分の好きなワイン」の品種を選んできたという楠さん。もちろんピノ・ノワールやカベルネ・ソーヴィニヨン、シャルドネなどの品質も出色だが、「日滝原」は、彼の好みと科学的な知見が見事に融合したものとして、非常に印象的だ。果実の円みと凛とした酸、柔硬を併せ持った品質は、その選択の正しさを物語ってくれているように思われる。
自身で土地や葡萄にあった最適解を導く姿勢は、その剪定方法にも顕著に見て取れる。
楠さんの畑では欧州で一般的な仕立ては全く見受けられない。先のBEDDが示す最適な品種である、メルロやカベルネ・ソーヴィニヨン、ソーヴィニヨン・ブランなどと言った欧州系品種のみが扱われているが、あえて棚で仕立てられているものが多く、また垣根仕立てに関しては、筆者自身もあまり見たことがないほどに背の高い仕立てが採用されている。
所謂スマートダイソンで仕立てています。
所謂も何も。「吸引力の衰えないただひとつのル○バ」みたいな物欲を掻き立てる名前だが、少なくとも筆者にとっては、それもまた初めて見るプティ・イノベーションだった。
スマートダイソンでは、所謂「芽かき」というプロセスを経ず、新梢は1本ずつ上下垂直に伸ばされる。芽かきという作業は、全ての枝を上へ伸ばすときに、枝と枝とが「密」になって光合成や風通しの妨げにならないよう、予め芽の数を減らしておく作業をさす。一般的に、葡萄の枝は上に外に伸びることにエネルギーを使おうとするので、芽かきを経た欧州式の仕立てだと各枝が太く力強く生育する。
が、これは土地が痩せて乾燥した地域だからこそ最適なのであって、日本の肥沃な土壌と豊富な水分量では、枝が力強く生育しすぎ、その結果、余計な房ができるなど葡萄の品質に貢献しない。(おおよそ)そう言った考に基づいて、楠さんはスマートダイソンを採用している。芽かきの代わりに、枝を1本ずつ上下に伸ばすことで、各枝のソーシャル・ディスタンスは保たれ、かつ、枝毎の力強さもコントロールできるのだ。
テクニカルな話はできるだけ避けたいのだが、楠さん自身の背景に基づいたそれぞれの選択は、やはり非常に興味深い。更なる深淵へ足を踏み入れたい向きは、私のコラムがアリンコに見えるほどのボリュームで詳細が語られている前述の公式HPへGO。
ワイン造りにおいて、自身で習得した知見、ノウハウでワインを作りあげる姿勢の強かさが印象的な楠さんだが、ワイナリー設立にあたっては自身の能力だけでは立ち行かない状況にあった。
オーストラリアから帰ってきて、苗を植えたのが2004年、ワイナリーを作ったのが2011年なんですね。それまでも生食用の巨峰を作って販売するなどコツコツやっていたのですが、ワイナリーを作る頃には自己資金がなくなっていたわけです。これではいつまで経ってもワイナリーができないと。そんなときに、それまでは自分ひとりの力でやろうと思っていたのですが、人の力を借りようと思いました。
行き詰まったと言っていい、ワイナリー設立の目標の中で、楠さんは自身の考え方をシフト。株式会社を設立し出資を募ると、50人ほどから4000万円を超える金額が集まった。以降も、「教えてくれれば出したのに」、「もうちょっと出したい」という方が次々と現れ、結果5回にわたって増資を繰り返し、9000万円を超える資本金を有する会社となった。須坂市の中でも、トップ水準の金額なのだそうだ。
家族、親戚、知人やワイン会などの活動を通して出逢った人が多いのですが、ここでワイナリーを作りたいと言ったときに、じゃあやってみろと、応援してくださる方がたくさんいらっしゃいました。
2004年からワイナリーの設立までの7年間。勿論ご出身の地域ではあるからお知り合いも多いのだろうが、そのような短い期間でそこまでの支援者を、長年ワイン造りに携わってきたような経歴とは違う、まさに新人たる楠さんが得られたという事実に我々は驚くばかりだ。「そんなに集まるもんですか。私なら300円ですかね。」なんてくだらない言葉が飛び出すほどに呆気に取られていた。それに加えて、その出資条件も非常に特殊な内容だ。
ワイナリーはそんなにすぐに儲かりません。なので、「当分配当はありません。」それに加えて、自分で株式の50%のシェアを持つのは難しいので、出資条件として「議決権はありません」と。それって「単にお金ください」と言っているのと同じなのですけど、そういう特殊な株式でも、それだけ多くの方が出資してくださったことは、驚きでしたし、非常にありがたかったです。
「人とのつながり」それに類する言葉はインタビューを通して、サイエンティフィックなタームとある種同様に、あまり多くを語らない楠さんの口からも大切な場面で発せられていたように思う。エキセントリックなワイナリー設立は、そこから現在造られるワインの品質・実力によって、その妥当性が確かに示されている。でも、わからない。ただすごいということしか・・・。
そんな楠さんの素朴ながら重厚さを感じさせる、かつての決意を最後に据える。
「ワイン造りをするかどうか迷った時期もあります。深夜に興奮してそんなことを思っているんじゃないかと自分を疑ったりしました。そんなときに、例えば20年後に友達なんかと一緒に外で食事をして、美味しい日本ワインを飲みながら、「日本ワインも美味しくなったけど、私も20年前に、ワインを造ろうと思っていたことがあってね。あの頃は先見の明があったんだよ。」なんて言っている自分を想像したら、やっぱりそれは後悔の塊でしかないと思いました。どこまでできるかわからないけれど、できるところまでやってみようと。」
その決意から、20年の時が経とうとしている。
奥ゆかしい楠さんは、「よくやったでしょ?」なんて冗談でもおっしゃらないが、かつての想像の中の「美味しい日本ワイン」、それが20年の時を経て楠わいなりーの1本となっていることは、疑う余地がない。少なくとも私はそう感じでいる。
取材を終えて、青葉山に幽閉された青春時代を少しだけ共有するものとして、杜の都が産んだ日本ワイン界のスターの存在を勝手に誇らしい思いを抱いている。私も俄然ワインをつくりたくなってきた。
やるか...山崎ワ...あるな。
※当サイトの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。また、まとめサイト等への引用を厳禁いたします。