日本ワインコラム | 大阪 カタシモワイナリー
大阪府柏原市に降り立った。柏原市は大阪府の中央東部に位置し、市の東側は信貴生駒山系を隔てて奈良県と接し、西側には大阪平野が続く。山地から低地へと高低差に富んだ地形が特徴の街だ。
今回お邪魔したカタシモワイナリーは、柏原市にある堅下(カタシモ)という土地で、100年以上に亘ってワインを造り続けている老舗だ。
「よぉー来てくれたなぁ!!!まぁ、はよ上がりぃやぁ!!」と威勢よく迎えて下さったのが、インタビューに応じてくれた4代目の高井利洋さん。隣には、5代目で娘さんの高井麻記子さんが、「どうぞ!どうぞ!!」と言いながらチャキチャキと動き回っておられる。 取材前のリサーチで記事を読む中うすうす感じてはいたが、お2人ともパワー全開だ。1言えば10どころか100返ってくるという感じで、ポンポン話が飛んでくる。そして必ずオチなり笑いがあるのだ。恐るべし河内親子。
酸いも甘いも経験して
「わし、嫌々ワイナリー継いだんや。」
「そんなんゆうたら、私かてそうですやん。」
インタビューののっけからパンチの強い親子だ(失礼な物言いでスミマセン!)。
4代目の高井さんは、神戸で別のお仕事をされていたが、1976年、2代目のお祖父様が亡くなられたタイミングで家業を継ぐことを決心(5代目も東京でIT関連のお仕事をされていたが、ワイナリーを継いだ)。2代目が亡くなったタイミングで、3代目のお父様が畑を売ってマンションにしようと考えていることを知り、このままでは慣れ親しんだブドウ畑の風景が消えてしまうという危機感があった。
日本ワインの草創期:売れない日々
継いだ当時のカタシモワイナリーは、一升瓶を使った赤ワインと白ワインをそれぞれ1種類造っているだけという規模感。日本全国を見渡してもまだ12、3軒程しかワイナリーは存在しておらず(今は400軒以上)、日本ワイン産業の草創期と言える時代だろう。2年後の1978年、松竹劇場で行われた「河内ワイン」という題材の公演に併せ、カタシモワイナリーが「河内ワイン」を赤・白・ロゼそれぞれフルボトルとハーフボトルで販売(所謂「河内ワイン」の生みの親はカタシモワイナリーなのだ)。知名度は上がったが、ワインは売れない。酒屋を周ったり、東京のデパートに遠征したりしても、埃にまみれたワインが戻ってくる。
友人がソムリエを務めるホテルでワインを置いてもらったこともある。当時日本ワインの主流だった甘口はNGという友人のアドバイスに従い、辛口のシャルドネと甲州(堅下本ブドウ)を託したが、1ヶ月で3本しか売れず、惨敗。本場ヨーロッパのワインには太刀打ちできない。悔しい現実を突きつけられた。
ワインとして仕込めなかったブドウは、種があっても生食用のブドウとして大企業に持ち込み販売もした。「私ら、押し売り得意なんですぅ。」と明るく語っていたが、その必死さ、辛酸を舐めた悔しさが伝わってくる。
デラウェアと向き合う中での不退転の決意
デラウェアは北米原産ラブルスカ種の生食用ブドウ。
当初、カタシモワイナリーの畑では植えていなかったそうだ。とはいえ、現在、大阪府が栽培するブドウの80%はデラウェアで、その生産量は全国第3位を誇る程、多く栽培されている品種である。安価で大量。付近では「くずブドウ」と言われる扱いだった。
高井さんの幼少期は近所で54軒がワインを造っていたそうだが、住民の高齢化が進む中、ワイン醸造所がマンションに変わったり、畑が耕作放棄地になったりする姿を見てきた。慣れ親しんだブドウ畑が消えていく姿が悲しく、高井さんは高齢化した農家からデラウェア畑を預かるようになる。
今でこそ、デラウェアで造られるワインは珍しくないが、当時、デラウェアで美味しいワインを造ることは技術的に非常に難しかった。近隣の農家の中にはサントリーの赤玉ポートワインの原料として卸すところもあったようだが、地域には大量のデラウェアが残った。何とかしてデラウェアを使ったワインを造って産業を盛り上げたいと考えるようになった。なぜなら、柏原のワイン産業の存続=自社の存続だから。両者は同じ船に乗っているのだ。
転んでも最後に立ち上がればいい
技術的にデラウェアでスティルワインを造るのが難しいのであればと、最初に取り組んだのはジュース造り。ワイナリーだからこそできる収穫後即絞りによるブドウ本来の香りや風味が楽しめる一本に仕上がった。
その次に取り組んだものが面白い。
なんとブランデー(白ブドウの果汁を蒸留したお酒)である。1990年頃から研究を重ね、2001年に製造販売、2021年にはサンフランシスコ・ワールド・スピリッツ・コンペティションで金賞を受賞。日本のブランデーでは唯一の受賞である。今まで誰もやったことのないことをやってのけてしまう。そこには悩みや葛藤もあっただろうが、高井さんはさらっとしか語らない。
その次にリリースしたのが、スパークリングワイン「たこシャン」だ。
こちらも1990年頃から研究を重ねてきたものだ。まずネーミングがニクイ!たこ焼きに合うスパークリングワイン。気軽に本格的な瓶内二次発酵のスパークリングワインを楽しんでもらいたいという気持ちが前面に現れている。
そして最後にデラウェアを使ったスティルワインの製造に繋がるのだ。ジュース、ブランデー、スパークリングワインで培った技術とノウハウをもとに2000年頃から研究開発を進めたようだ。今は、この他にもデラウェアを使ったノンアルコールワインも販売している。
手元に大量にあるデラウェアをなんとかしなければ、と始めたデラウェアとの戦いだが、果実だけでなく果皮も余すことなく使い切って商品化。様々な賞も獲得し、お客さんからの支持も熱い。とことんデラウェアと向き合った結果だ。
最近の若いもんはこれと思ったらそれしかせぇへんけど、色んなことせなあかん!
そうして初めて分かるんや。
という言葉。説得力が半端ない。120%うなずくしかないのだ。辛酸を舐め続け、漸く兆しが見えたのが、1998年頃の赤ワインブームが起こってから。ワイナリーを一般顧客向けに開放し、個人客が増えることで利益が出るようになってきた。苦労の連続を思い出し、高井さんは今の日本ワインブームが信じられないと言う。
25(歳)でワイン始めて、気付いたら70(歳)やぞぉ!!!
とツッコミを入れた5代目麻記子さんの言葉が、月日の長さと時の流れの早さを物語る。
嫌々始めたかもしれないが、あっという間の年月。柏原の大地にブドウ畑を切り開いた初代。100年以上前にワイン造りを始めた2代目。50年前に全く安定しない瓶で甘口の瓶内二次発酵のスパークリングワインを造った3代目。糖分をかなり残して瓶内二次発酵していたそうで、瓶内にガスが大量に発生して頻繁に蓋が飛んでいたようだ。
「そんなこと怖ぁてよぉやらん。」と5代目。
4代目も
「夏になるとポンポン音がよぉしよった。」と笑う。
先代達のことを2人して「キチガイや!」と一蹴した後、高井家には「ハチャメチャの精神」が備わっていると言った。あぁ、これは「ワイナリーの血」なるものではないかと思った。「やってやろやないか!」という反骨精神と「面白そうやな!」という好奇心があってこその「ハチャメチャの精神」。それが「血」として脈々と高井家に受け継がれているように思えてならない。
何よりも実験を重んじる
前述のデラウェアとの向き合い方で気付かれたと思うが、4代目高井さんは実験好きで、まずはやってみるという精神の持ち主だ。ブドウ畑は壮大な実験場となっている。
土作りを大事に
カタシモワイナリーは、1994年に自社農園で減農薬栽培に取り組み、2002年からは有機肥料栽培に取り組んでいる。お客さんにとって安心・安全な畑にしたいという考えが根底にあり、今では、大阪府からエコ農産圃場に認定されている。畑は山の急な斜面にあり、一つ一つの畑の面積は小さい。その為、畑の管理に手間がかかる。しかし、高井さんは除草剤を使わない。ナギナタカヤを草マルチとして使用したり(草が地面を覆うことで雑草の発生を抑える)、刈った後は肥料として活用したりする。マメ科のカラスノエンドウは、根っこの根粒菌が土の中に窒素を送りこんで肥料となるので積極的に取り入れる等、土作りに精を出す。
どや!土、フカフカやろ?
と満面の笑みだ。確かに、畑に足を踏み入れるとフカフカで気持ちがいい。
金も手間も最小限にして、どうやってええブドウを育てるか?
これが命題だ。
そのための土作り。土壌菌の数と種類を増やすこと。それが健康な土壌に繋がり、美味しいブドウ、そしてワインに変化するのだ。土作りは、高井さんにとって永きに亘る実験だ。
ハイブリッドを育てる
畑には謎のブドウが沢山植わっている。聞いたこともない品種が多いのだ。
例えば、「ポンタ」。巨峰とブロンクスシードレスを交配したハイブリッドで、大阪府がオリジナル品種としてブランド化を目指すブドウだ。その他にも山ブドウとマスカット・ベイリーA、スペイン系品種、カベルネ・ソーヴィニヨン等とのハイブリッド、イタリア品種のハイブリッド等々、色々と紹介される。なぜここまでハイブリッドを育てるのだろう。
例えば、山ブドウとのハイブリッド。山ブドウは病気になりにくいという強みがある一方、香りや味わいがワイルドで商品化が難しい。山ブドウの病気への耐性を残しつつ、他の品種の風味を引き出し、お客さんが飲んだことのない面白い味わいを提供できるか。高井さんは実験をしているのだ。
他にも、あるハイブリッドでは、ブドウ品種を掛け合わせることで樹勢を抑え、小さいブドウから凝縮した味わいを作りだそうとしている。
みんな、収量を抑えて美味しいブドウを作るって言うやろ。あほか!っちゅう話や。収量上げてええブドウ作らんかい!どうやって飯食うていくんや!!
とハッパをかけられる。
確かに、ブドウ栽培は遊びではない。如何に継続的に収益を出すか、真剣勝負なのだ。収量という観点では、生食用ブドウ栽培に用いる手法をワイン用ブドウ栽培に取り入れる実験も行っているそうだ。高井さんの頭の中はアイディアの宝庫だ。
ハイブリッドに目を付ける理由はそれだけではない。
地球温暖化はどんどん進む。過去40年で2℃上がったが、今後20年で更に2℃上がる。ヨーロッパ品種をここで育てるのは難しい。その中で如何に日本独自の品種で海外と勝負するか。山梨から西の地域のこれからの課題や。だから研究開発は大事や。我々はヨーロッパ系の品種を軸足にしてない。
と言う。
将来を見通して、今できることを色んな角度で試してみる。やってみてダメなら仕方ないが、やらないと分からないじゃないか。そういう声が聞こえてくる。
種からだって育ててみる
ハイブリッドだけではない。種からもブドウを育てているというではないか。通常、ブドウの育成は、親と同じ性質を引き継いだブドウをまとめて栽培・収穫する方が管理しやすいため、挿し木や接ぎ木等を通じて行われることが多い。種から栽培すると、親と異なる性質が現れる可能性(突然変異)があり、倦厭されるのだ。しかし、高井さんは、堅下本ブドウ(甲州)を敢えて種から栽培し、突然変異を狙っていると言う(例えば、ピノ・グリはピノ・ノワールの突然変異種)。いつ突然変異が起こるのか、起こったとしても、それが望む姿かも分からない。それでも心血を注いで、その時を待っているのだ。話のスケールが違う。
畑には甲州系のブドウで「堅下本ブドウ」と「紫ブドウ」の2種類あるが、高井さんは決して「甲州」とは言わない。
甲州はDNA分析の結果、7-8割がジョージアのヴィニフェラ種、2-3割が東アジア(中国)の野生種をルーツに持つことが判明している。つまり、ユーラシア大陸からシルクロードを通って日本に伝わったのだ。
シルクロードから伝わっているのに、いきなり山梨に行くか?まずは、当時の都、奈良付近のこの辺に来るやろ!?
と仰る。
さもありなんな話だ。高井さんの畑に植わっている堅下本ブドウは1878年に新宿御苑より譲り受けた甲州ブドウの苗木。もう一つの紫ブドウは江戸時代以前から明治初期にかけて盛んに大阪で栽培されてきたと言われるものだ。因みに、大阪では、今年3月に「大阪RN-1」という醸造用の黒ブドウが農林水産省に品種登録された。アントシアニンが豊富なオリジナル品種だ。
今後突然変異で新しい顔を見せてくれるかもしれない堅下本ブドウ。悠久の時を経て進化する紫ブドウ。新しく生まれた大阪RN-1。高井さんは言う。こういった大阪独自の品種で世界に勝負をかけたいやないか、と。高井さんらしい壮大でロマンチックな話だ。でも、何か起こりそうな感じがする。そういった魅力が高井さんにもこの畑にもあるのだ。現に、準備は着々と進められている。従来は山梨と北海道だけに与えられていた「GI(Geographical Indication、地理的表示)」の認証を、2021年に大阪は、長野と山形と同じタイミングで取得したのだ。大阪ワインの地域ブランド化が進む気配を感じさせられる動きだ。
次の100年に向けてー「歴史」と「文化」と「人」が最強のストーリーになる
高井さんの話は、いつも未来目線だ。大阪のブドウ産業をもっと盛り上げたい、大阪のワイン文化を発展・継承していきたい、という思いで一杯だ。そのエネルギーの源は何か?恐らく、それは自他共に認めるNO.1大好き人間という性質だろう。やるからには頂点を目指したいという気持ちが溢れ出ている。
歴史:柏原はワインに関する歴史の宝庫だ
高井さんの幼少期、街の景色は今と大きく異なり、自宅だけでなく近所全体で屋根にはブドウの木が覆いかぶさっていた。大阪府のブドウ栽培面積は、大正の終わりから昭和初期にかけて、山梨県を抜いて全国1位だったのだ。
甲州ブドウが日本のどこに最初にたどり着いたかという問題に決着はついていないが、カタシモワイナリーには樹齢100年以上の堅下本ブドウ(甲州)が4本植えられていることは確かだ。最年長は108歳。今も現役でワインを産み出している。これ程古い木を管理しているワイナリーは世界を見渡しても多くない。
前述の通り、紫ブドウは江戸時代前からこの地域に根付いていたとされる。高井さんの畑に植わっているマスカット・ベイリーAは、日本ワインの父と言われ、同品種の開発者である川上善兵衛氏本人から譲り受けたものだ。その上、日本初のワイン用酵母「OC2(後の醸造協会酵母 ブドウ酒用1号)」が発見されたのは、正にこのカタシモワイナリーの蔵なのだ!並べてみると、柏原市はワインの歴史が押し寄せてくる土地柄であり、カタシモワイナリーは日本のワイン産業の歴史と共にある蔵だということが分かる。
文化:大阪のブドウ・ワイン産業は文化として受け継がれている
高井さんは畑の紹介が終わった後も、街並みを色々と説明してくれた。ブドウと共に時間を刻んできた印があちらこちらに散りばめられている。
例えば、ワイナリーから目と鼻の先にある安明寺。本尊の両脇にはブドウが彫刻されており、古くからブドウ栽培が行われていたことを彷彿とさせる。また、ブドウの絵がびっしり並ぶお寺の天井画も圧巻だ。ご住職の奥様が、この街が50数年前までは細道もブドウ棚だった程ブドウ一色だったことを後世に伝えたいと考え、ご自身で描かれたものだ。ブドウ寺と称される程のお寺である。
その他にも、街には1300年前に空海が掘り起こしたと言われる井戸や、奈良・平安時代を代表するお寺で、仏教に深く帰依した人々「知識」が私財を提供して建立したと言われる「智識寺」(当時、高さ約50mの五重塔が2棟あったと推定される)がある。智識寺の瓦にはブドウのモチーフが描かれており、古くからブドウが根付いていたことが良く分かる。この街にいると、ブドウやワインが古くから人々の暮らしの一部として存在し、街の文化となっていることが肌感覚として分かるのだ。
人:先祖から受け取り、仲間と共に進む
先祖代々が汗水を流して守ってきた畑と街。今、これを支えているのも人である。
ブドウ畑を歩いている途中、何人かのボランティアの方とすれ違った。「彼らは今度、小豆島でワイナリーするらしい。」や「彼らは農機具の関係の人や。」といって挨拶しておられる。カタシモワイナリーの畑は、急斜面にある小さな畑の集合体だ。いくら高井さんがパワフルだからといって、親子+αの労働力で全ての作業を賄えない。実は、カタシモワイナリーには現在、460人のボランティアの方が畑の管理を手伝っているそうだ。なんとも数が多い!!
個人の他、レストラン業界、放送局、ワインショップ、等々。企業のSDGsの一環として活動するところもあれば、カタシモワイナリーで自分達が育てたブドウを使ったワインを、お店で販売したりレストランで提供したりしている先もあるようだ。大阪ガスもボランティアメンバーの一員で、畑の気象データを提供している。発芽や開花時期の予想、薬の散布時期の予測等が可能になっている。自分達の畑だけど、自分達だけで完結しない。地域の仲間と一緒に汗をかくことで強固な繋がりができる。仲間を増やすことで、畑の景観が維持される可能性はぐっと広がるのだ。
仲間はボランティアの方々だけではない。本来はライバルであろう地域のワイナリーの面々も同志として協力し合う関係だ。高井さんは、大阪ワイナリー協会の設立発起人/代表と関西ワイナリー協会の会長を務める。一社だけでの活動には限界はあるが、地域が纏まって動くことで波は大きくなる。
個人レベルでも会社レベルでも仲間を増やすことで、地域全体の活性化が図れるのだ。
ここには歴史的な背景がある。文化的な価値がある。先祖と仲間がいる。つまりストーリーの宝庫だと言う。そこに美味しい、独自のワインが組み合わさった時、とてつもない力を発揮する、と高井さん断言する。
これまでの100年。そして次の100年。常に先を見据えているカタシモワイナリーから目を離せないが、まずは今、この時にしか味わえない高井さんのワインを充分に堪能したい。
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