日本ワインコラム | 北海道・余市 安藝農園
北海道余市町。ワイン・ラヴァーの誰もが認める日本有数のワイン産地である。新千歳空港から快速エアポートと普通電車を乗り継ぎ2時間弱。北海道の西側に位置し、積丹ブルーで有名な積丹半島の付け根にある余市町は、暖流の対馬海流の影響もあり、道内では比較的温暖で、古くから果樹栽培で有名な場所である。日本におけるワイン造りは約140年前から始まったと言われる中、余市町のワイン産地としての歴史は40年程と長くない。この短い期間で一気に日本ワイン産地のキラ星となったのだが、その一翼を担ったのが今回お邪魔した安藝農園さんだ。今回、5代目の安藝慎一さんと6代目の元伸さんにお話を伺った。
代々続く家族の物語
安藝農園は町に流れる余市川の右岸側にある登地区に位置するヴィンヤード。畑上空から見ると、余市町のシンボルのシリパ岬がくっきりと見える。畑から海に抜ける景色がなんとも美しい。
1899年、初代が四国の徳島県から北海道に移り住んだ。移住当初は穀物や除虫菊等の栽培をしていたが、その後はリンゴ栽培を中心に生計を立ててきたという。現在の畑がある場所に移り住んだのは3代目。
日露戦争の報奨金を元手に入手した、
「命と引き換えにして得た土地だ」
と5代目の慎一さんは仰る。6代目の元伸さんも、
「命をかけて戦争に行った3代目から代々守ってきた場所を、父の代で終わらしてはいけないと思い、家業を継ぐことを決めた」
と仰る。重みのある言葉だ。元伸さんは大学卒業後民間企業で2年間働いていたそうだ。仕事が休みの時は畑仕事を手伝ってきたが、10年前に6代目を継ぐ決心し戻ってきた。てっきりお父様の慎一さんから戻ってきてほしいと懇願されたのかと思ったら違った。慎一さん自身は、親を慕う気持ちから、幼少期には農家になることを決めていたそうだが、元伸さんにはその考えを押し付けなかった。
父親から言われても反発するだけだろうと考え、元伸さんの気持ちを尊重したのだ。その影でずっと元伸さんに継ぐよう言い続けたのは元伸さんのお祖父様にあたる4代目だった。お正月やお盆で帰省する孫に問いかけ続けたという。
子を思う父、その父を思う祖父・・・こうやって親子のストーリーが折り重なって互いを思いやる気持ちが強くなるのだろうなぁと気付かされる話である。
さて、代々リンゴ農家として生計を立てていたこの家族が、どうしてワイン用ブドウ栽培を始めたのか。その転機となったのは、慎一さんが4代目と共に農園を切り盛りしていた頃に遡る。余市町のリンゴ栽培は明治時代から続く主力産業だったが、他産地のリンゴが売れ始め、1970年代からは価格が暴落するようになる。このままでは食べていかれない・・・切実な問題を抱え、次の一手をどうするのか模索し続けていた。
その時歴史は動いた ― 余市の7人衆
品質が落ちたという訳でもないのに、 手塩にかけて育てたリンゴの価格が下落の一途を辿る。 その恐怖は真綿で首を絞められるようなものだったのではないかと想像する。
何とかしなければならない。
その強い危機感が同じ気持ちの人達と繋がるきっかけとなったのだろう。
慎一さんは、近隣の他のリンゴ農家と共にワイン用ブドウの栽培に乗り出した。ワイン用ブドウを栽培するのは初めてだったが、余市町と隣の仁木町の農業試験地の責任者だった小賀野四郎さんが農家を集め、技術指導してくれたそうだ。慎一さんは何度も感謝の気持ちを述べられた。小賀野さんの指導を受けたのは慎一さんを含めた7人の若手農家達。その中にいた土野茂さんが7人を束ねる役割を果たしてくれたと懐かしそうに語られた。
7人がワイン用ブドウを栽培し始めた当初、周りの農家にあまりいい顔をされなかったという。きっと、若いもんが勝手なことを始めたと白い目で見られることもあったのだろう。だけど、7人は前を向いていた。小賀野さんを師と仰ぎ、懸命に技術を習得した7人衆。血気盛んな年頃だから、時に仲間内で衝突することもあったのだろう。
そういう時に土野さんがまとめ役になってきたのではないだろうか。光景が浮かんでくる。
試験的に栽培を始めたワイン用ブドウだったが、小賀野さんの指導力と7人のスポンジのような吸収力によって、質の高いブドウが育てられるようになった。噂を聞いたワイン醸造会社も訪れるようになり、1983年には「はこだてわいん」と契約。
7人が一丸となって7-8haの広さの畑を管理し、同社と契約することになったのだ。
しかし、契約締結してすぐに問題が発生。
想定量を大きく上回るブドウが収穫されたのだ。7人の技術力の高さの表れであり、嬉しい悲鳴でもあるのだが、新たな取引先を見つけないといけない。ワイン用ブドウは生食用ではないので、市場には出せない。7人はそれぞれ必至に市場開拓を行ったという。その結果、7人が別々の異なるメーカーにブドウを卸すスタイルに徐々に移行し、独立した経営を行うようになったという。
リンゴの価格暴落という恐怖心。周りの農家から白い目で見られるという疎外感。ブドウが余るという危機感。そんなピンチをチャンスに変えていく力が7人にはあった。心強い助っ人がいたからこそ成し遂げられたのも事実だが、この7人のひたむきな努力や熱意がなければ、助っ人も現れなかっただろう。強い危機感と負けん気の強さ。と同時に、素直に教えを乞う謙虚さや逆境の中でもぐっと堪えて準備を重ねる忍耐力。
そして、仲間の存在。これらが揃ったからこそ、チャンスを逃さず手中に収めることができたのだろうと思う。
慎一さんは、淡々と当時のことを語られたが、時折懐かしそうに目を細めたり、緊張感のある表情をされたりした。きっと、その当時の気持ちが胸に蘇るのだろう。こちらも胸が熱くなる。
変化を受け入れる
ワイン用ブドウ栽培を始めてから、愛情を注いで育てたブドウを大切に扱ってくれるメーカーを探し、徐々にブドウの卸先を拡大してきた。卸先を分散した方が農家としてはリスク低減になるし、ブドウ栽培手法や病気の防除方法等、入る情報は増えるという利点もある。
ブドウの移動距離が短い方がブドウに与えるストレスが減るし、地元の雇用促進やテロワールの表現という観点からも、余市で育てたブドウを余市で醸造した方がいいのかもしれないとしつつも、付き合いのある各メーカーに対する感謝の気持ちや責任感も強い。現在も複数のメーカーにブドウを卸している。メーカー毎に畑を分け、栽培品種、収穫のタイミング等、メーカーの要望に併せて畑を管理しているそうだ。
余市内のワイナリー数が増えてきたこともあり、安藝農園で育てられたブドウの80-90%は、近隣のワイナリーに出荷される。町外のワイナリーは3社、道外は1社のみだ。ただ、このスタイルは固定しておらず、時代と共に変化するもの。
慎一さんは、元伸さんの意見も尊重する。
リンゴの木を切る
例えばリンゴ栽培。リンゴ栽培は安藝農園にとって歴史の長い稼業で、長く根幹を担ってきたものだ。リンゴ価格が暴落した後も、栽培を続けてきた。しかし、今年、元伸さんの意見を尊重し、リンゴの木を切り落としたそうだ。安藝農園ではワイン用ブドウの他、生食用ブドウ(シャインマスカット、ナイアガラ、バッファロー等)や施設野菜(ささげ)を栽培している。ワイン用ブドウは栽培面積が一番広く、ケルナー、バッカス、シャルドネ、ツヴァイゲルトレーベ、ピノ・ノワール等7-8種類を栽培する。品質の高いブドウを栽培するには、労力がかかる。ワイン用と生食用のブドウでも必要とする栽培技術も異なる。ブドウ栽培にもっと労力を注ぎたい。そういう気持ちがあったのだろう。そしてその気持ちを汲み取って、「息子が決めたことだから」と優しく見守る慎一さん。そのまなざしは優しい。
新しい剪定方法も認める
いくら北海道の中では温暖とは言え、余市の冬は寒く、雪深い。毎年、1.5~1.7mくらい積雪するそうだ。比較的寒さに強いブドウの木もあるが、強い冷気にさらされると凍害が起こる。そこで、余市では、雪の重さによる枝折れを防止すると共に、ブドウを雪に埋めることで冷たい外気から遮断し、保温効果によって凍害を防ぐことを目的に、片側水平コルドン方式と呼ばれる、主幹を斜めにする剪定方法が採用されてきた。先人達の知恵である。しかし、作業は大変だ。秋の収穫の後、雪が降り始めるまで1ヶ月~1ヶ月半くらいしか時間が残されていない。その短期間に、全ての木を固定しているワイヤーから外して土の上に置く必要がある。また、まだ雪が残る春先には地面までおろした木を、再度既定の高さまで戻した上で剪定を行う。この剪定には高い技術力が必要で、習得には時間がかかる。また、主幹が斜めになっていることもあり、ブドウの木の耐久年数が短いというデメリットもある。こういった理由から、余市で新しくワイナリーを始める人の中には、コルドン方式ではない剪定方法を採用するところも多い。その場合、1年目の枝を結果母枝として使うので、病気や害虫の生息リスクが低い。また、コルドンのような特殊な剪定技術が不要という側面があるそうだ。
元伸さんは、
この新しい剪定方法の良い点を理解した上で、 色々と試す人が増えるのは、 地域として多様性が広がって面白いと仰る。
余市の気候に合うのがどちらなのか、 冷静に状況を判断していきたい、とも。 先人達の知恵を理解し実践した上で、その他にもいいものがあれば、 偏見なく採用しくという柔軟な姿勢が垣間見られた。
お客さんとの距離を近づける
これまで、安藝農園の名前がワイン消費者の目に直接触れることはなかった。数年前からブドウを卸し始めたドメーヌ・モンから、栽培農家にもスポットライトを当てたいとのリクエストがあり、昨年から安藝農園で栽培されたブドウを使ったワインには、「AK」の文字が付くこととなったそうだ。これまで裏方に徹していた姿勢を変えることになった。
「ワインを飲んで終わりという訳ではなく、ワインができるまでの過程を知りたい消費者は多い」
と元伸さんは語る。今回、「AK」の文字を出すことにしたのも、ブドウがどこで造られたものなのか知りたい消費者は多いと考えてのことだろう。その他にも、FacebookやInstagramでの情報発信も始めた。収穫ボランティアを募ることも検討中だと言う。安藝農園としては収穫のサポートを得られるし、消費者もブドウに直接触れる機会に恵まれる。収穫というワイン造りで重要なイベントを体験でき、Win-Winの関係を築くことができるのではないかと考えているそう。イベントが開催されるのであれば、ぜひ参加したい!!
一方、慎一さんも、東京や大阪のような都会で生まれ育った人で、「ふるさと」の景色をブドウ畑に求める人が多いと感じているそうだ。「北海道におけるワインの歴史は浅いかもしれないが、お客さんにとって、この景色が「ふるさと」のような、心のよりどころになれたら嬉しい」、と。なんて暖かいお言葉・・・
先代達に尊敬の意を表し、その先代達から受け継いだものを発展させようと、色々なアイディアを出す元伸さん。そのアイディアに対してノーとは言わず、見守りながら任せる慎一さん。素敵な父子関係であり、師弟関係だなぁと思わずにはいられない。
余市を産地化するために
最初は7人でスタートしたワイン用ブドウの栽培も、現在は余市町と隣の仁木町で50軒のワイン用ブドウ栽培農家が存在するまで成長した。「この40年間は山あり谷ありだった。余市にあるワイナリーの数が増えてきた中、今後はどう生き残っていくのかを考えていかないといけない。」と慎一さんは語る。その中で、大事になるのは「楽をして、いいものが収穫できる」環境だ。畑の立地条件が重要だと言う。
余市は馬の蹄のような形をしており、北向き斜面の畑が多い中、安藝農園の畑は、南又は西向きの斜面だ。 十分な日照時間と日当たり、水はけの良さが確保されている。この素晴らしい立地条件を最大限に活かすことが 大事だと考えているそうだ。
考えるのは自分の畑のことだけではない。地域内に新たに設立されるワイナリーの成功も願っている。ブドウを育てながらワインを仕込むというのは、大変な労力が必要となる。特に軌道に乗るまでの道のりは辛く、躓きやすい。それに、参入者が増えてきている中、必ずしも立地条件のいい場所に巡り合うとも限らないのだ。だからこそ、新規ワイナリーには、いい意味で地域の農家との繋がりを視野に入れて活動をしてもらうのがいいのではないか、と慎一さんは言う。ブドウ栽培もワイン醸造も最初から全て自分でやるのではなく、例えばブドウの半分は自分で栽培し、半分はプロ農家に栽培してもらう。それだけでも心の余裕も生まれ、ワイナリーとして成功する確率は上がるし、地域としての発展にも役立つのではないか、と。
そして、6代目の元伸さんやその後のことも。今はブドウ農家で、ワイナリー経営は行っていない。ワイナリー経営には多額の資金が必要になるし、醸造に携わる人材も必要だ。農家としての仕事だけでも大変な中、自社ワイナリー経営にまで足を踏み込むのには、それなりの覚悟がいる。しかし、否定はしない。ワイン用のブドウを栽培する限り、最後は、お客さんに飲んでもらって、喜んでもらえるようなものを作ることを目指したい。元伸さんやその次の代でワイナリー経営に舵を切ることも十分にあると思っている。現に、ワイナリーと契約をしていない畑もあるそうだ。
山もあれば谷もある。だけど、常に次を見据えて準備していれば、山も谷も乗り越えられる。そんな心強い声がお二人から聞こえてきそうだ。ブドウの収穫ボランティアの募集がかかれば駆け付けたい。みんなで「ふるさと」を共有しに出かけてみませんか?
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